第一話 悪夢の始まり(2)
「――ソラ」
静かで、優しい声音。
水面に一切の波を立てない凪のような声に、ソラは穏やかな気持ちになる。
呼ばれて振り返ったソラは、そこに立つ女性の見るなり、駆け寄ってその腹部に抱きついた。
「アビー!」
まだ六歳になったばかりのソラにとって、アビーはまさに甘えたい存在だった。
アビーの穏やかな笑顔が、やさしい声が、ゆったりとした仕草が、まだ子どもであるソラを包容してくれる。
顔をすりつけるようにして何度も名前を呼ぶ。
ソラを見下ろすアビーが微笑む。
だが、抱きしめたり、頭を撫でたりはしない。
なぜなら、ソラを受け入れるアビーの両手には、杖が握られているからだった。
アビーの両足は、闇の勢力との大戦時における闇の使徒との死闘で、歩行が困難になるほどの傷を負っているのだ。
潰された脚は骨が粉々に砕け、完治不可能と診断され、外見は少し脚が歪んでいるようにしか見えないが、骨は歪となり、体を支えることができない状態となってしまっていた。
アビーは自分から抱きしめたり、頭を撫でたりと、何かをしてあげることができない。
だから、ソラは自分から積極的にアビーに甘えた。
「あいかわらず、甘えん坊ね」
「えへへ」
抱きつきながら顔を上げるソラに、アビーが微笑みで応じる。
ソラを見下ろすアビーの肩から、癖のないまっすぐな長い金髪が零れ落ち、その毛先が顔をくすぐる。
ほのかな香り。
ソラはアビーのこの長い金髪が好きだった。
アビーの身の回りの世話は、ソラの役目であり、お風呂も一緒に入っている。
その時にアビーの髪を洗うのが、ソラは好きだった。
髪が長くて大変だが、洗い終わった後の達成感と、アビーの「ありがとう」がソラには何よりも嬉しい一言だった。
お風呂から上がった後には、髪を乾かし、櫛で梳く。
ソラ、アビー、そして楓の三人で暮らすログハウスには寝室がひとつしかない。
そこで三人並んで寝ているのだ。
最初は、アビーが寝起きしやすいようにベッドを用意しようとしていたらしいが、アビーが三人で一緒に寝られるようにと、楓にお願いしたらしい。
アビーが横になるのを手伝い、ソラもそのまま横になる。
「ソラ、今日も一日、ありがとう」
「ううん」
向き合って横になるソラの頭を、アビーがやさしく撫でる。
それから、アビーがソラを自分の胸へと引き寄せた。
アビーが唯一、両手を使える時間。
その時間を使って、アビーはいっぱいの愛情を与えてくれる。
それが嬉しくて、愛しくて、アビーのことが昨日よりも、もっと大好きになって、心の中が大好きで溢れてしまいそうになる。
「ソラも、もう六歳なのね」
「うん」
顔を上げると、アビーがどこか考え込んでいるような表情をしていた。
「アビー?」
「なんでもない」
そう言って、アビーが頭を撫でる。
「なんでもないのよ」
ぎゅっと抱き寄せるアビーに、ソラは何かあったのだろうかと思いつつも、その心地よさに、次第に瞼が落ちていく。
他愛のない話をしながら、ソラはゆっくりと眠りについていった。
すやすやと眠るソラの頭を、アビーは撫で続ける。
その表情は慈愛に満ちていた。
「なんだ、もう寝てしまったのか」
アビーが顔を上げると、寝間着姿の楓が立っていた。
楓の寝間着は、彼女曰く『長襦袢』と呼ばれるもので、普段着ている着物とは違い、寝間着――古くは下着として使用されていたらしい。
見た目には変わらないようにも見えるが、作りもシンプルで、色も白い。
ミュールやアビーが着るネグリジェのようなものだと言う。
背中を向けるソラのすぐ横に腰を下ろす楓。
その座り方は女性とは思えないほどにがさつで、男のように胡座をかく姿は、しかし勇ましく感じる。
それは偏に、彼女が大陸最強のエレメンタラーだからだろう。
今は髪を下ろして、お風呂上がりなのか濡れた黒髪が艶めかしく感じるが、初めて出会った時の彼女は、まさに狂犬だった。
行く道を阻む者すべてを斬り伏すような目つき。
事実、彼女は常に殺気を纏い、ひと声かけるだけで命を失いかけない、そんな凶暴さを醸し出していた。
それでも、ノアだけは臆せず、彼女の懐に飛び込んでいったのだが。
ノア――アビーの胸の中で眠るソラの、血の繋がった実の母親。
彼女はもういない。
アビー、楓、そしてミュール――三人の親友に、命と引き換えに産んだこの子を託して、彼女は息を引き取った。
誰もが初めてのことで、それこそ、その手の経験すらない生粋の女たちにとって、赤子を育てるというのは、まさに至難の連続だった。
大戦を終結に導き、各国で四英雄と呼ばれ、その象徴として最高位を与えられた、大陸最強のエレメンタラーたち。
そんな彼女たちが、たった一人の赤子を前に、どうする? どうすればいい? と文字どおり右往左往する様は、見る者が見れば、開いた口も塞がらなくなるほどだっただろう。
それでも、こうしてソラは育ってくれた。
大変なこともあったけど、ようやく六歳を迎え、そしてこれからもどんどん育っていくだろう。
ただ心残りなのは、この子の成長を最後まで見届けることができないと言うこと。
自分のことは自分が一番分かる。
日に日に悪くなっていく脚。
そして、それは次第に這い上がってくるかのように体を蝕み、やがでアビーを死に至らしめるだろう。
だから、アビーは心を鬼にすると決めた。
ソラが六歳となった年に、この子にすべてを授けると。
「始めるのか?」
楓の唐突で何の前振りもない言葉に、しかしアビーは静かに、
「ええ」
とだけ応えた。
「この子に私のすべてを授ける。時間はないけれど……この子のためなら、心を鬼にだってしてみせるわ」
この子には、嫌われしまうかもしれないけれど――と、どこか自嘲気味に呟くと、
「おいおい、私たちが育てたソラは、そんなことでお前を嫌うような子か?」
ニヤッと笑みを浮かべる楓に、アビーはずるいと言うように笑んで見せた。
「ええ、そうね」
「そうだ」
決意したはずだったのに、どこか胸の奥でつっかえていたものが、楓によって簡単に取り除かれてしまった。
ずぼらで脳天気で、どこか飄々した楓は、しかし誰よりも機敏で、仲間と認めた者に対しては義理堅く、情に厚く、そして熱い女性なのだ。
だからこそ、自分がこの先、長くはない命を終えたとしても、楓にならば託せると思った。
彼女ならば、きっと最後までソラを見守り続けるだろう。
「ソラ」
穢れを知らない、純粋な心。
だけど、アビーたちは知っている。
この子の心の奥底には、闇が眠っていることを。
だから、今はまだ外界との接触はさせられない。
幼い心は理性を知らず、他人の負の感情にも敏感に反応してしまう。
それは闇を目覚めさせるきっかけとなり、幼い心はあっという間に侵食されてしまうだろう。
せめて、ソラが大人になるまでは、ここで穢れなき純粋な心を育んでほしい。
そうすればきっと、いつか来る闇の目覚めにも対抗できる。
そのために、アビーは自分の成すべきことをしよう。
あの大戦で未来を閉ざされてしまった自分が託すことができる、ソラという名の未来のために。
「愛しているわ、ソラ」
そっと、それでいてぎゅっとソラを抱きしめるアビーを、楓はじっと見つめ続けていた。
アビーが眠りにつくまで、ずっと――。




