エピローグ 朝日に架ける虹
心地よい風が吹き抜ける。
その風が、保健室のベッドで眠るソラとカームの前髪をそっと揺らす。
二つのベッドの間で、フィリスとミュールが並んで椅子に座っていた。
フィリスはカームを、ミュールはソラの方を見やりながら肩を並べていた。
あの後、カームをフィリスとエラの二人で、そしてソラはレイに任せ、人目につかないように運び出した。
学長は事後処理に忙殺され、落ち着いた後、保健室を訪れた。
保健室に運ばれ、コーデイに診察してもらったところ、ソラとカームの体に異常は見られなかった。
ただ一点――カームに関しては、予想外の出来事が起こっていたのだが。
二人はそれから眠り続け、夕暮れ時になっても目を覚まさなかった。
だから、フィリスとエラ、そしてレイの三人で交代しながら看病していた。
ちなみに、レイの時には必ずエラが同伴していた。
そうしてフィリスが看病しているときに、ミュールが訪ねてきたのだ。
そしてミュールの口から、ソラと【深淵】と呼ばれる存在について明かされた。
「あの子のなかで眠っていた【深淵】が、カーマインさんの強烈な火のエレメントで目覚め、それが負の感情に引かれ、あのロマノという生徒に力を与えてしまった。強すぎる力は己を失わせる。【深淵】はそれを糧に力を得、そして闇の使徒を限定的に呼び出したのね」
闇の使徒――大戦時に四英雄と対峙した闇の勢力の最大戦力。
その正体は、闇に呑まれてもなお順応し、闇による強大な力を手に入れた三人のエレメンタラーだった。
「つまり、あれは全力ではなかったということなんですか?」
「ええ、むしろ大戦時よりも厄介だったわ。あの三人は今や闇と化している。そして今、【深淵】が目覚め、再び闇の力を取り戻そうとしている。三人が望むのは、【深淵】による戦争のある世界。当時も、ただ戦うことを求め、戦火を故意に広げていた。いつかまた、対峙する時がくる。でも、私たちは今、悪い意味で平和慣れしてしまっている。イリダータの生徒も、戦うことを前提ではエレメントを学んでいない。今の世界は、エレメントを戦争ではなく、暮らしを豊かにするために利用している。そんな時にあの三人が完全に力を取り戻して攻め入ってきたら、ひとたまりもない」
確かに、あの三人の力は化物じみていた。
今回でさえ、完全ではなかったのだ。
「フィリス・アークエット」
「は、はい」
唐突にフルネームで呼ばれたフィリスは、思わず背筋を伸ばした。
「明日から、あなたには私の持てるすべてを受け継がせる前提で特訓します」
「――っ!」
静かな、だが確固たる決意を込めたミュールの宣言。
「あなたに、その覚悟がありますか?」
ミュールが、フィリスを見つめる。
答えは決まっていた。
あの時の闘技場での悔しさを、忘れられるはずがない。
何よりも、目の前の彼女に後れを取りたくはない。
今度は、肩を並べられる存在になりたい。
「はいっ!」
フィリスは決意を胸に、短く、そして大きな声で返事をした。
「よろしくお願いします!」
そんなフィリスの表情に、ミュールは口元を微笑ませた。
※
イリダータの図書室を訪れたレイは、そこに探していた人物をようやく見つけた。
「ここにいたのか」
「ん? ああ、レイかぁ」
分厚い本から顔を上げたエラは、レイを一瞥するとすぐに視線を落とした。
「ご挨拶だな、ほら」
エラの向かい側に座り、紙袋を置く。
「図書室では飲食禁止よ」
視線だけを上に向けたエラが、素っ気なく言う。
「そんなこと言ったってお前、どうせここにずっといるつもりだろ」
図書室は保健室に近い。
それでいて、エラが時間を潰すにはぴったりの場所だ。
「俺の奢りだから、ほら」
開かれた本の上に紙袋を置く。
「まぁ、レイがそこまで言うなら、食べてあげるわ」
そんなエラの態度に、レイは苦笑しながら自分も紙袋を開け、サンドウィッチと紙コップに入ったコーヒーを取り出した。
軽食を摂りながら、あの時のことを話し合う。
「それにしても、あれには驚いたよな」
そう言って、レイがサンドウィッチにかぶりつく。
「ああ、アレね。はい」
エラが紙袋を脇に退け、読んでいた本を反転、そしてレイに向かって押し出した。
カーマインに関する、アレ。
エラとレイは知らなかったことなのだが、その場にいたフィリスとミュールの言動によって、二人はカーマインの秘密を知ってしまったのだ。
勿論、口止めされているし、言いふらす気もない。
「私も気になってたから、ちょうど調べてたの」
サンドウィッチをかじりながら、レイは差し出された本の文字と絵を見下ろした。
「これは、火の鳥か」
「不死鳥とも呼ばれてるわ」
「ああ、フェニックスね」
「火は、破壊と再生を司ると言われているの。それはつまり、生と死。火の鳥が不死鳥と言われる所以――正確には、不死ではなく、生と死を繰り返しているの。火の鳥は最期に自らを燃やして灰となり、その灰から雛鳥となった火の鳥が生まれる。そうやって何度も甦るの」
「へぇ~」
「伝説上の生き物で、あくまで象徴的な話なんだけどね」
「まぁ、でも……あれを見たら、納得しちまうよな」
「ええ。あまりに信じがたい話だけど、でも――」
エラが顔を上げ、どこか遠い目をする。
「カーマイン先輩にとっては、間違いなく奇跡なんだと思う」
「そうか……そうだな」
食事を終え、少し休憩を挟む。
「そろそろ行くか」
「そうね」
二人して立ち上がり、食事をした証拠を手に持ち、図書室の出入口に向かう。
先を歩くレイの背中に、エラは今しかないと思い、口を開いた。
「レイ」
「ん?」
「ありがと、ね」
「何が?」
「……あの時、守ってくれたこと」
「……おう」
ぶっきらぼうな背中。
だけど、そんな態度がレイらしくて、エラはまたらず笑みをこぼしたのだった。
※
「……ん」
目を覚ましたカームは、辺りを見渡した。
薄暗く、空気もどこか冷たい。
ベッドで横になっていたと気づくのに、少し時間を要した。
首を横に向けると、ソラと同学年のエラ・グリーンとレイ・バーネットが背中を合わせながら頭を垂らして眠っていた。
その光景が微笑ましてく、つい頬が緩む。
その向こうにもうひとつのベッドがあり、布団がめくれ上がっていた。
それはつまり、誰かが眠っていたことになる。
二人を起こさないように上体を起こし、反対の方――窓を見やる。
日の出前なのか、遠くの空がほんのり色づき始めていた。
ベッドから降りようと床に素足が触れると、頭まで冷たさが駆けのぼった。
窓の外に、ふと見知った背中を見つけたカームは、保健室から外に通じるドアを開けて外に出た。
「こんなところで何してるの?」
外は肌寒く、自分で自分を抱きしめるようにして近づく。
「カームさん、起きたんですね」
少年が振り返り、笑顔を見せる。
「ついさっきね」
芝生を歩き、隣に並び立つ。
「で、ここで何してるの?」
「ここから見える日の出が、とっても綺麗なんです」
「へぇ、そうなの?」
「朝練で色んな場所を走りながら見てたんですけど、ここで見たのが格別で、覚えていたんです」
「そう……じゃあ、私も待つわ」
そう言って、二人して白んでいく空へ顔を向ける。
「カームさん」
「ん?」
「ありがとうございました」
「何のこと?」
「ボク、カームさんが倒れたとき、頭が真っ白になって、それで目の前が真っ暗になって、気づいたら、闇に取り込まれそうになってしまっていました」
ソラが自分の胸を鷲掴みするように、胸に当てた拳を握りしめる。
「でも、それで私は助かったのよ」
「でも……」
「でも、は禁止」
振り向きざま、カームは少年の小さな唇に人差し指を当てた。
「キミは私の命を救った。それだけ覚えておいてくれればいいの」
「……はい」
ソラは頷くも、納得している様子ではなかった。
「一人で背負い込んでは駄目。人は不完全だから。だから、誰かを必要とするの。一人では何もできない。できると思っている人間は、気づいていないだけ。今までの私がそうだった。でも、私はキミと出会った。そして、変わった。変われたの」
唇に当てていた指を離し、その手を少年の頭に乗せ、引き寄せる。
「頼っても、いいんでしょうか……」
「ええ」
「甘えても、いいんでしょうか……」
「お姉さんに、どんと甘えなさい」
ぐいっとさらに自分の体に押し当て、少年を包み込む。
「ボク、頑張ります」
体を離し、少年が見上げる。
「ボクのなかに闇があるのなら、何とかしたい」
だから――とソラが手を差し伸べてくる。
「カームさん、僕の光になってください」
「――っ!」
「ボクの行く先に、カームさんという標があるのなら、僕は迷わずに進むことができそうな気がするんです」
少年の言葉に、カームは息を呑んだ。
これはまるで――
「カームさん?」
顔を真っ赤にするカームに、ソラが覗き込んでくる。
「キ、キミは――」
カームは誤魔化すように咄嗟に思いついたことを口にした。
「そ、そういえば……キミは結局、何使いなの?」
不自然すぎたかと思ったが、ソラは「そうですねぇ」と呟き、素直に答えてくれた。
「前に、ミュールに聞いたことがあるんです。僕の母は、年中を通して雪が積もり、森に閉ざされた村の生まれだって。何もない世界――それが退屈で、大陸中を見て回りたいと言って飛び出したそうです」
「凄いわね……」
「当時はまだ大陸中が戦争の真っ只中で、でも母はそれをもろともせず、四大国を巡り、そしてカームさんのお義父さんやミュール、楓やアビーと出会ったそうです。そこでミュールが母に訊ねたのが――」
――あなたは何使いなの?
「その問いかけに、母はこう答えたそうです」
――今の私は空っぽの器。だから、どんなエレメントだって習得できる。だから、そうだなぁ……うん、私は【空使い】だね。
「空使いか……フフッ、聞いたこともないわ」
あまりの自由奔放なソラの母親に、思わず笑ってしまう。
「だから、僕もこれからは空使いって名乗ります。僕の名前も、そういう意味が込められてるんだって思うから」
「そうね」
ふと、光が差し込んできた。
顔を向けたカームは、その光景に目を奪われた。
「――綺麗」
心の声が、言葉となって出た。
「わあぁ」
ソラも感嘆の声を上げる。
朝日が、二人を照らす。
遥か遠くの山脈。
その向こうから顔を出す朝日は、確かに格別だった。
温かい日差しに、思わず体を向けてしまう。
「っ! カームさん!」
ソラが驚きの表情と共に声を上げる。
何事かと思い、顔を向けると、ソラが自分を指さしていた。
「どうしたの?」
「火傷の痕が……」
「え?」
言われ、朝日に照らされた自分の体を見やる。
両腕を視界に入れ――
「うそ……」
目の前に見えているものが、カームには信じられなかった。
素肌が晒された腕。
今までずっと隠し続けていた腕が、肩紐のネグリジェを着ていたため、さらけ出されていた。
自分はこんな寝間着など持っていない。
そういえば、これはフィリスのだ。
しかし、なぜ――そう思い至り、これを見せるためなのだと理解した。
カームの腕に残る火傷の痕が――消えていたのだ。
真っ白な腕。
その腕が震える。
もう一生、見ることはないと思っていた。
あまりにおぞましかったから。
そしてもうひとつの変化――自分の体を見下ろす視線に入り込む、二つの膨らみ。
それを、自分の手でそっと包むように触れる。
女性としての尊厳さえも奪った火傷痕が消え、そして自分には一生縁のないと思っていた感触が手のひらに広がる。
「あ……あっ、ああ……」
気がつけば視界が滲み、泣いているのだと気づいた。
「カームさん」
涙でぐちゃぐちゃになった顔をソラに向ける。
「これ……夢じゃないわよね」
「夢じゃないですよ。カームさん、とっても綺麗です」
屈託のないソラの笑みに、カームは胸が熱くなり、いても立ってもいられなくなり、ソラを力いっぱいに抱きしめた。
「わっ、カームさん、苦し――」
カームの乳房に押し当てられるソラが呻く。
それすらも、今のカームには愛おしくて仕方がなかった。
あまりの出来事に、今なら何だってできそうな気がした。
ソラから体を離し、カームは少年に向かって手を差し伸ばした。
「一緒に目指しましょう、ソラ。【虹使い】になって、二人の光を――この手で」
「はいっ!」
小さな手が差し伸ばされる。
その手を掴み、朝日を仰ぐ。
二人の繋ぐ手が、大空に輝く太陽の光によって影を成す。
その影はまるで、二人の間に架かる虹のようだった。




