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空使いとアルカンシェル  作者: 天瀬 智
第三章 疾風の来訪者
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第三話 長い夜の決闘(6)

 光源のない闘技場で、横なぶりの風と雨が吹き荒ぶなか――。

 全身を雨で濡らし、視界がままならない状態でも尚、風子は不動を貫き、抜刀の構えのままでいた。

 横なぶりの雨が目に当たろうとも、瞬きすらしない。

 風に体を持っていかれそうになろうとも、長年鍛え上げた肉体がそれすらも凌ぎ、いつでも踏み込める体勢を保っている。

 暗鬱とした黒い空を、稲妻が走る。

 その光だけが、目の前の相手――ソラを一瞬のみ映し出す。

 ソラもまた、決闘が始まってから微動たりしていない。

 どうやらソラも耐久訓練を受けていたようだ。

 東雲流抜刀術は、『二ノ太刀不要(にのたちいらず)』――故に、そのひと振りに全身全霊を、時には命すら懸ける。

 こんな過酷な環境でも、風子は母の訓練を乗り切った。

 丸一日を費やして、そして機が訪れた瞬間、風子は見事に母を超えた。

 とは言っても、母は刀鍛冶が本職であり、刀使いとしては一流ではなかった。

 それでも、風子にとって母は師であり、その教えは絶対だった。

 時には猛暑のなかで脱水症状を引き起こしながらも構え続け、時には猛吹雪のなかで指の感覚がなくなってもなお柄を握り続けていた。

 それに比べたら、こんな暴風雨ごとき、水浴びをしているようなものだ。

 ソラがどの程度の訓練を受けているかは分からないが、一向に踏み出せない状態から、少年も同じ訓練を受けていることは間違いないだろう。

(……どうする)

 自問する風子。

 この状況が続けば、それは抜刀術による決着ではなく、どちらが先に体力を使い切るか、という不毛な結果に終わる。

 だが、そんなことはソラだって望んではいないはずだ。

 顔にぶつかる雨粒。

 暴風によって呼吸もままならず、今は風子にとって向かい風の状況だ。

 すでに半日が過ぎ、真夜中へと時間が進んでいく。

 体力には余裕もあり、朝までだって保っていられる自信はある。

 だが、問題は精神の方だ。

 夜になってから、五感が不快な違和感を感じ取っているのだ。

 誰かに見られているような――だけど、どこにもそんな気配はしない。

 それに、空気が変わった気がする。

 どこか重く感じるのだ。

 この場の空気が、いや何かもっと別の存在が、風子に圧しかかっているように感じる。

 無視しなければならない。

 今はソラとの決闘に集中しなければならない。

 それなのに、まるで顔の周りを飛ぶ羽虫のように、煩わしさを感じずにはいられない。

 一体、何なのだ?

 無視しようとすればするほど、逆に考え込んでしまう。

 風子の意識が、無意識にソラからその得体の知れない何かへ対抗するために移ってしまっていた。


            ※


 違和感……いや、これは不快感だ。

 ソラと風子の二人と同様に雨風に打たれ続けているカームは、その不快感に眉を寄せた。

 光源のない真っ暗な闘技場で、夜闇に慣れた視界は、わずかに二人を捉えるのみ。

 雷が轟き、その強烈な光が二人を照らすが、そのせいで暗闇に慣れた目が、また元に戻ってしまう。

 視界が再び夜闇に慣れ、二人の姿が見えてくる。

 だが、そこでカームは目の錯覚か、と思う現象を目撃した。

 どこか、風子が暗く見えるのだ。

 夜のせいでも雨風のせいでもない。

 黒い霧がかかったような、そんな感じ。

(この感じ、どこかで……まさかっ!)

 その感覚の正体に思い至った瞬間、カームはぞっとした。

 そして――


            ※


 勝負は、あまりにも呆気なく終わった。

 目の前で起きたことが信じられないと言った様子で、目を見開く風子。

 その立ち振る舞いは、決闘が始まってから変わっていない。

 抜刀の構えで、何時いかなる時でも抜き放つことができる万全の体勢。

 その体勢を維持したまま――いや、そこから微動することなく、終わったのだ。

「ボクの勝ちです」

 その声が聞こえたことが、不思議でならなかった。

 目の前には、遠くで立っていたはずのソラがいて、そしてすでに抜刀し終えていた。

 抜き放たれた刀が、淡い緑色に発光している。

 その刀は間違いなく、東雲当主の証である宝刀『千鳥(ちどり)』だった。

 目の前で起きていることが信じられず、風子は反応することができなかった。

 首筋に、ソラの抜刀した『千鳥(ちどり)』の刃先が触れるか触れないかの紙一重で静止している。

 ソラの手が、あるいは風子の首がほんの少しでも動けば、風子の首筋は一切の抵抗なく斬れ、断裂した血管から血が噴き出し、絶命していただろう。

 だが、ソラは寸止めした。

 風子を生かしたのだ。

 この決闘では勝者が敗者を斬り殺すという暗黙の決まり事があることを知っているのにも関わらず。

「あっ……」

 ようやく体が動いたかと思うと、できたのは、呆気にとられたような声を出すだけ。

 焦点の合わない視線がゆっくりとソラを捉える。

 ソラと目が合うと、笑みを返された。

 そして、ソラは構えを解き、『千鳥(ちどり)』を鞘に納めたのだ。

 そして、そのまま何も言わず、踵を返してこの場から去ろうとする。

「待ってくれ……」

 漏れたのは、そんな情けない声。

「行かないでくれ……」

 左手を伸ばす。

「お願いだ……」

 もはや立っていることすらままならず、崩れるように膝をつく。

「私を……」

 それでも求めるように左手を伸ばし、

「殺してくれ……」

 泥水と化した地面に、左手が落ちる。

 悔しさと、それ以上に風子を襲う恥辱が、全身を苛み、心を蝕んでいく。

 ソラの足音が止まる。

 風子が顔を上げると、ソラは振り返り、こっちを見てくれていた。

 敗者には死を。

(ソラ、そのまま私を――)

「風子さん」

(名誉ある死を……)

「生きてください」

「――ッ!」

 それだけ言って、ソラが再び踵を返して去ろうとする。

「ま、待ってくれ、私を殺してくれ! 私を死なせてくれ! こんなのは嫌だ! 生きて恥を晒すくらいなら、死んだほうがマシだ!」

 気が狂いそうになり、風子は叫んだ。

「母との約束も果たせず、己の目的すら果たすことができなかった……」

 左手が泥水に落ち、その飛沫が風子の顔を汚す。

 今の自分には、泥まみれがお似合いだ。

 泥に落ちた左手を握りしめる。

「こんな私に、生きる価値など……」

 そうだ。

 ソラが終わらせてくれなのならば、自分で終わらせればいい。

「母上、不甲斐ない娘で申し訳ありませんでした。先立つ不孝をお許しください」

 刀を抜き、その刃を自分の首へと向ける。そして、首にあてがい、あとは引くだけ――

「いい加減にしてください!」

 骨に響くような衝撃が手を痺れさせると同時に、持っていた刀が吹っ飛んだ。

 そして、目の前には遠ざかっていたはずのソラがいて、今度は刀を最後まで振り切っていた。

「なぜ……どうして死なせてくれないのだ……」

 もう死ぬことすらできず、風子は正座をし、悔しさに頭を垂れた。

「死ぬなんて……そんなこと、簡単に言わないでください」

 その声音は、怒っているのではなく――

「少年……」

 顔を上げた風子が、構えを解いたソラが泣いていることに気づいた。

「どうしてキミが泣く……」

「当たり前です! 死んだらもう、会えなくなるんですよ。ボクは、そんなの嫌です! こんなのに、一体なんの意味があるんですか! 負けたら、また挑戦すればいいんです。ボクは何度だって受けて立ちます。だから、風子さんも諦めずに、もっと強くなって、ボクから『千鳥(ちどり)』を奪ってください。そうすれば、ボクも心置きなく当主の座と『千鳥(ちどり)』を託すことができます」

 雨でソラの顔には水が滴っている。

 それなのに、ソラの目尻からこぼれる涙は、そのどれにも混じることなく、つぅ――と頬を伝い落ちた。

 風子はもう、どうしていいのか分からなくなっていた。

 本当は死にたくなどない。

 生きて、母の元へ帰り、当主の座と『千鳥(ちどり)』を持って、喜ばせてあげたかった。

 だけど、風子は負けた。

 当主の証である『最速』を証明することができず、それどころか指一本動かすことすら叶わなかったのだ。

 そんな自分が、当主など烏滸おこがましい。

 そして、ソラの速度は、圧倒的だった。

 あの一瞬の油断を突き、そして、まさに【神風かみかぜ】に肉薄するほどの速度域に達していた。

 ソラは何度でも挑戦すればいいと言った。

 だが、今の風子の心は粉々に砕かれ、例えこの先何年、特訓を続けようとも、それよりもソラはさらなる高みへと昇っていることを想像してしまい、一生手の届かない存在なのだと、実感してしまった。

 力だ。今すぐにでも力が手に入らなければ、少年を超えることはできない。

(力が……)

 自分でも気づかないうちに、風子の周りを黒い霧が覆っていた。

「ソラ!」

 遠くで、誰かの声が聞こえる。

 おそらくは、カームだろう。

「風子さん、逃げて!」

 ソラの切迫した声に、風子は膝をついたまま体を起こした。

 目の前が真っ暗だった。

 いや、違う。

 これは夜の暗さではない。

 これは、闇だ。

『力が欲しいですか?』

 男の声が聞こえた。

 どこか飄々として軽薄な――けれど、ぞっとするほど冷たい声。

『ならば求めなさい』

「力が……」

 闇が上昇していく。

 それを追うように、風子は顔を上げた。

 それを逃してしまったら、もう二度と手に入らないような気がいて、だから風子は……求めた。

「力が欲しい!」

 手を伸ばす。

 瞬間、目の前で雷のような爆音が響き、衝撃が風子を襲った。

 地面を転がり、全身が泥水まみれになる。

 体を起こすと、遠くで同じように吹き飛ばされたのか、ソラが倒れていた。

 そして、ソラと風子の間――闘技場の中央に、ひと振りの刀が刀身を剥き出しにした状態で、地面に刺さっていた。

 理屈もなく、風子はそれを抜かなければならないと思った。

「ソラ、起きなさい!」

 観客席で、カームが席を立ち、地に伏すソラに向かって叫ぶ。

 その声が届いたのか、ソラが体を起こそうとする。

 そして、ソラの目にも、地面に突き刺さった刀が視界に入った。

「ソラ! それを抜かせては駄目よ! その刀は――!」

 控室の出入口からミュールが叫ぶ。

 その間にも風子は前へ進み、そしてその刀の柄を掴もうと手を伸ばした。

「風子さんっ!」

 ソラが叫ぶと同時――いや、その叫び声すら置いていくほどの速度で、その刀に迫った。

 ソラが『千鳥(ちどり)』を振り、刀を弾き飛ばそうとする。

 だが、今度は風子の方が速かった。

 風子が柄を掴む。

 瞬間、刀を中心に、闇が球状に膨らみ、爆発するように四散した。

「クッ!」

 ソラが『千鳥(ちどり)』を前にしてその衝撃を受ける。

「ソラ!」

 小さな体が地面を転がり、控室の出入り口付近まで滑る。

 ミュールが駆け寄り、それに続いてフィリスとクリスもまた暴風雨にも関わらず、ソラを案じて出てきた。

 エラとレイは、出入口手前で見守っている。

 そして風子は、その刀を手に取り、地面から切っ先を抜いていた。

 その刀は鋼の質感を保ちながらも、黒く染まっていた。

(これは……なんだ――)

 手に取った刀から伝わってくる、異様なほどのエレメント。

 だが、それは風子に力を与え、その急速に流れ込んでくる力に、風子は次第に理性が薄れ、その力のことだけを考えるようになっていた。

 力だ。

 力が手に入った。

 凄い。

 これならソラにも、いや、それどころか楓にだって勝てる。

 凄まじい。

 凄い凄い凄い凄い――。

 力に溺れ、口を三日月のように笑む風子からは、闇と緑が綯い交ぜになったオーラが溢れ出していた。

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