玄関に残る思い出と、すれ違う視線
マンションへ帰る途中、俺たちは一度、藍那の家へ寄ることになった。
藍那が必要な荷物を取るためだ。
「施錠してあったとはいえ、一応、中を確認させてくれ」
「うん、分かった」
俺は先に玄関を開け、ゆっくりと部屋内を見回す。
3LDKの平屋――昔、何度も来た慣れ親しんだ家だ。
「……問題ない。ゾンビはいないよ」
「ありがと久斗、玄関で待ってて。すぐ持ってくるから」
梨花はもう限界だった。
藍那の家の玄関に足を踏み入れた瞬間、そのまま段差に腰を落とす。
「ちょっとだけ、休ませてください……」
「分かった。無理するなよ」
藍那の家――懐かしい。
玄関に立つだけで胸が変に締め付けられる。
子供の頃、一緒にゲームをしたこと。
受験前にここで数学を教えたこと。
中学の夜、泣いていた藍那の隣に、ただ黙って座っていたこと。
全部、この玄関の空気の中に残っている。
藍那は手際よくスポーツバッグに服を詰めていたが、その指先はわずかに震えていた。
「……変わってねぇな、藍那んち」
「変える暇なんて無かったもん。
あ……ちょっと懐かしそうな顔してる?」
「してるかもな」
そんな些細な会話が、状況の重さを少しだけ薄めた。
荷物を抱えて戻ってきた藍那は、玄関でへたり込む梨花の肩にそっとタオルを乗せる。
「大丈夫?」と優しい声をかけると、梨花は弱々しく頷いた。
「行こ。久斗のマンションに戻ろ?」
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三人で急いでマンションへ戻り、到着直後。
梨花はベッドへ倒れ込むように眠りに落ちた。
ほんの数分で、静かな寝息が部屋に満ちる。
「……よっぽど怖かったんだね」
あれだけの目に遭ったんだ。
気が抜けた瞬間に眠り込むのも無理はない。
藍那はそっと毛布をかけ直し、静かにリビングへ戻ってくる。
「……久斗」
ソファに座ると、藍那は慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「久斗……教えて。
梨花さんと……あの時、キス……した?」
心臓が跳ねる。
藍那の目は責める色も怒りもなく、ただ確かめようとしているだけだった。
「……。
梨花は混乱してたし……俺も焦ってた。
だから、……はっきりとは……」
藍那はその答えの意味を読み取ろうとしたのか、少しだけ目を伏せる。
「……そっか。助けたあと、梨花さん……あなたの腕にしがみついてたから……
なんとなく“そうなのかな”って……
ううん、いいの。別に……」
笑おうとするのに、どこか苦しそうな微笑だった。
藍那は俯いたまま、ゆっくり息を吐く。
「ねぇ……ほんとに……怖かったんだよ、あの場所。
試着室の向こうから聞こえたあの声……猫なんかじゃなかった。
梨花さんの悲鳴だって分かってたのに……
足が動かなくて、声も出なくて……」
「藍那のせいじゃない。あの状況じゃ、誰だって……」
「……うん。でも、久斗はすごいよ。
あの状況で助けに飛び込んで、怪我も治して……
梨花さんを抱きしめて、落ち着かせてあげて……」
その声には、ほんの少し震えが混じっていた。
「ねぇ……“私は?”って聞いたら……変かな……?」
笑っているのに、なぜか胸が痛む表情だった。
返事をしようとした俺より先に、藍那は小さく首を振る。
「梨花さんて、キレイで優しくて……。
だから……その……」
藍那は視線を窓の外へそらし、ほんの数秒黙ったあと――
振り返って、まっすぐ俺を見る。
「久斗……大学に行こうよ。
先生たちも、先輩たちも……誰か生きてるかもしれないし。
情報だって集められるかもしれないでしょ?
ね……行ってみよ?」
その言葉を聞いた瞬間、嫌でも脳裏に浮かぶ。
――“誰に”会いたいんだ?
藍那が口に出した「大学」という場所。
あいつがよく出入りしていた場所でもある。
胸の奥が、冷たく沈む。
「……大学、ね」
藍那は俺の表情に気づかないまま、強く頷く。
「うん。久斗と一緒なら……大丈夫だから」
俺は返事をしなかった。
胸の奥で渦巻く感情を押し隠すように、ただ静かに息を吐いた。




