第8話:美月
酒場を出ると、夜の街は思っていたより静かだった。
昼間は人で埋まっていた大通りも、今はまばらに人影が残るだけだ。軒を連ねる店の多くはすでに扉を閉ざし、明かりの落ちた窓が夜の中に並んでいる。
道の両脇には、等間隔に街灯が立っていた。
橙色の光が石畳を淡く照らし、二人の影を長く伸ばしている。
「夜になると静かなんだな」
「昼が騒がしすぎるだけ」
「村は夜でももうちょっと音がしたぞ」
虫の声や、家々から漏れる話し声。時々犬が吠えて、それにつられて別の犬が鳴き始める。
思い返せば完全に静かな夜などほとんどなかった。
玲は石畳の端にある縁石へ片足を乗せた。
そのまま両腕を広げ、細い縁の上を歩き始める。
「道を歩けば?」
「こっちの方が面白い」
美月は何も言わなかった。
昔からこうだった。
玲が木の上を歩いていても、屋根へ登っていても、美月はそれを止めない。落ちれば「落ちたね」と言うだけだった。
玲は縁石の切れ目を軽く跳び越える。
二年ぶりなのに、美月と並んで歩いていると不思議なくらい昔と変わらなかった。
違うのは、腰に刀を下げた美月の姿くらいだ。
「美月、本当に騎士なんだな」
「さっきから何回言うの?」
「だって村にいたときは違っただろ」
玲は縁石の上から美月を見る。
美月は前を向いたまま歩いていた。
騎士の装いで夜の街を歩く彼女を見て、すれ違う人間が自然と道を譲っていく。
それも玲には妙な光景だった。
村にいた頃の美月は強かった。
玲が何度挑んでも負けることの方が多かったし、悪魔と戦うときも玲よりずっと冷静だった。
だが、騎士ではなかった。
「俺も騎士になれるんだよな」
玲は右手を持ち上げた。
林で現れた黒い模様は、街へ戻ってからも消えていない。
美月の視線がそこへ向く。
「その紋章が出たなら、騎士になる資格はある」
「やっぱりこれが関係あるのか」
「うん」
美月によれば、玲が持っている武器は『紋章武器』と呼ばれるものらしい。
誰でも使えるわけではなく、武器に適合した人間だけがその力を引き出せる。そして適合した人間の身体には、その証として紋章が現れるのだと。
玲は歩きながら、改めて手の甲を眺めた。
擦ってみる。
当然、消えない。
「これ、ずっとこのまま?」
「たぶん」
「格好悪くはないからいいか」
「気にするところ、そこなんだ」
美月には理解できないらしい。
玲は手を下ろし、縁石から飛び降りた。
着地した瞬間、身体が思った以上に沈まなかった。
林で感じた、あの奇妙な感覚を思い出す。
身体が軽くなったような感覚。
少し地面を蹴っただけで、一気に何歩分も進んでしまうほどの速さ。
それも紋章武器に適合した影響らしい。
「じゃあ俺、急に強くなったってことか」
「今日死にかけてたけどね」
「……あれはまだ慣れてなかったからだ」
「今も慣れてないでしょ」
「これから慣れる」
玲は言い返しながら、今度は道沿いに続く低い石壁へ手をついた。
軽く身体を持ち上げ、その上へ飛び乗る。
以前ならもう少し力が必要だったはずなのに、驚くほど簡単に身体が浮いた。
「おお」
「落ちないでね」
細い石壁の上を歩く。
両腕を左右へ広げ、一歩ずつ足を運んでいく。林で戦ったときのように全力で動かなければ、今までと大きく違うようには感じない。
それでも、身体の奥に今までなかった力があるのは分かった。
「美月もこうなるのか?」
「なる」
「だからあんなに強いのか」
「それだけじゃない」
美月は淡々と答えた。
適合しただけでは、武器を使いこなせるわけではない。
今日の玲がまさにそうだった。
力も速さも手に入れたのに、自分で制御できず、最後には悪魔に隙を突かれた。
美月はそれを「武器に振り回されてた」と一言で評した。
「もうちょっと言い方あるだろ」
「間違ってる?」
「……間違ってない」
玲は少しだけ肩を落とした。
その横を、美月が何事もなかったように歩いていく。
「待てよ」
玲は壁の上を早足で進み、美月へ追いついた。
そのまま少し先へ行き、行き止まりになったところから飛び降りる。
今度は力を入れすぎないよう気をつけた。
問題なく着地する。
「できた」
「歩いただけでしょ」
「今の俺には大事なんだよ」
美月は「そう」とだけ返した。
大通りから一本細い道へ入る。
こちらには街灯も少なく、建物の隙間から月明かりが石畳へ落ちていた。
店じまいをしている露店の前を通る。
店主が木箱へ果物を詰めているのを、玲は横目で見た。
腹が鳴る。
「……腹減った」
「さっき食べてなかった?」
玲は名残惜しそうに果物を見ながら通り過ぎた。
「で、騎士になるにはどうすればいいんだ?」
適合したからといって、すぐに騎士を名乗れるわけではないらしい。
騎士団は国や地域ごとに存在し、所属するには基本的に現役の騎士から推薦を受ける必要がある。
玲は初めて聞く話ばかりだった。
「面倒くせえな」
「そういうもの」
「悪魔倒したら入れてくれねえかな」
「どうかな」
「じゃあ美月が推薦してくれよ」
「私はあそこの騎士団じゃない」
玲はそこで初めて、騎士団が一つではないことを知った。
美月が所属している騎士団と、先ほどの酒場を拠点にしている騎士団も別物らしい。
玲はしばらく黙って歩いた。
「……村じゃ誰も教えてくれなかったぞ」
「騎士団がなかったからね」
「悪魔はいたのにな」
「うん。下級だったけど」
美月の返事が少しだけ遅かった。
玲は気にせず、道の先に転がっていた小石を蹴る。
乾いた音を立てて、小石が石畳の上を転がっていく。
追いついて、また蹴る。
二度、三度。
やがて小石は道の端へ逸れ、暗い路地の中へ消えていった。
「そういえば」
美月が口を開いた。
「村のみんなは元気?」
玲の足が止まった。
「…………」
少し先を歩いていた美月も立ち止まる。
振り返った。
「玲?」
玲は路地へ消えた小石を見ていた。
何と答えればいいのか少し考えてから、美月を見る。
「……いなくなった」
美月の表情が止まった。
「村が襲われたんだ」
風が二人の間を通り抜ける。
美月の黒髪が頬へかかった。
普段ならすぐに払うはずの髪を、そのままにしている。
「俺とかぐやが森から戻ったら、全部燃えてた」
美月は動かなかった。
「みんな死んでた。じいちゃんも」
何かを言おうとしたのか、美月の唇が少しだけ開いた。
けれど声は出なかった。
しばらくして、頬にかかっていた髪を耳へかける。
「……そう」
それだけだった。
玲も「ああ」とだけ返した。
二人は再び歩き出した。
さっきまでと同じように並んでいる。
けれど美月の歩幅は、ほんの少しだけ小さくなっていた。
玲はそのことに気づいたが、何も言わなかった。
しばらく、二人の足音だけが続いた。
街灯の下を通り過ぎる。
次の灯りまでの間、二人の姿が夜の暗がりへ沈む。
「誰がやったの?」
しばらくして、美月が尋ねた。
「分かんねえ。悪魔かもしれないけど、俺は見てない」
「……そう」
「じいちゃんも何も言わなかった」
玲は腰の辺りへ手をやった。
あの日、村長から託された古びた地図は今も持っている。
あの地図がなければ、ここまで来ることもなかった。
「最後に地図渡されて、塔へ行けって言われた。それでここまで来たんだ」
「一人で?」
「かぐやもいるだろ」
「そうだった」
「忘れたら怒られるぞ」
ほんの少しだけ、いつもの調子が戻った。
玲は道の先へ目を向ける。
遠くに高い建物の影が見えた。
村では見たこともなかった大きな街。
知らない人間ばかりで、知らないことばかりだ。
それでも、来てよかったと思っている。
「じいちゃんにさ」
玲は歩きながら言った。
「前へ進めって言われたんだ」
美月は黙って聞いている。
「だから俺、騎士になる」
「……」
「強くなって、今度は大切なものをちゃんと守りたい」
美月はしばらく何も言わなかった。
「玲」
「ん?」
「騎士になるなら、一つだけ覚えておいて」
玲が美月を見る。
「紋章武器を使えることと、強いことは同じじゃない」
視線が玲の右手へ落ちる。
「今日みたいに力任せに使ってたら、いつか死ぬ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「今日それで死にかけたからな」
「ならいい」
玲は少し考えた。
そして美月の横へ回り込み、後ろ向きに歩き始める。
「じゃあ美月が教えてくれよ」
「何を?」
「戦い方」
「嫌」
「なんでだよ!」
「今怪我してるでしょ」
「治ってから!」
「明日には街を出る」
「じゃあまた会ったとき!」
玲は後ろ向きのまま歩き続ける。
美月はその少し先にある段差を見た。
「玲」
「何だよ。絶対教えて――」
玲の踵が段差に引っかかった。
「うおっ」
身体が傾く。
だが、倒れる直前で足を踏み出し、どうにか体勢を立て直した。
「危ねえ……」
「前見て歩いた方がいいよ」
「分かってたなら言えよ!」
「今言った」
「遅えよ!」
美月は玲の横を通り過ぎる。
玲は不満そうにその後を追った。
大通りへ戻る頃には、開いている店もほとんどなくなっていた。
一つ、また一つと窓の明かりが消えていく。
玲はふと、美月を見る。
「美月」
「何?」
「無理すんなよ」
美月の足がわずかに止まった。
玲は酒場での会話を思い出していた。
明日も二件。
美月なら一人で十分。
他の奴を出すより早い。
本人がいなくなった後も、美月へ回す仕事を選んでいた騎士たち。
美月は玲を見る。
「玲に言われたくない」
「なんでだよ」
「今日死にかけた人に言われても説得力ない」
「死んでねえだろ」
「私がいなかったら死んでた」
「……それはそうだけど」
美月は再び歩き出した。
「だから玲も無理しないで」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「じゃあ私もたぶん」
「ずるくねえか?」
「玲が先に言った」
二人の声が、静かな夜の街に響いた。
少し離れた場所で、最後まで開いていた店の灯りが消える。
玲はまた道の端へ上がると、両腕を広げて細い縁石の上を歩き始めた。
美月は何も言わず、その隣を歩いていく。
二人の影だけが、街灯の下をゆっくりと進んでいった。




