第6話:適合
悪魔は一瞬で玲との距離を詰めていた。
「――っ!」
咄嗟に腕を上げた玲を、強烈な衝撃が襲った。まともに受けたわけでもないのに身体は後方へ吹き飛ばされ、背中から地面へ叩きつけられる。
「玲!」
かぐやの声が聞こえる。
「いってえ……」
身体を起こした玲の腕には、骨まで響くような痺れが残っていた。
先ほどまでとは明らかに違う。
顔を上げると、悪魔は玲を追ってきていなかった。その視線の先には、木の幹に手をつきながらようやく立ち上がった椎名がいる。
「殺す……」
悪魔が椎名へ向きを変えた。
「待て!」
玲は痛む身体を無視して立ち上がると、悪魔より先に椎名の前へ飛び込んだ。そのまま拳を振るったが、今度は簡単に受け止められてしまう。
拳を掴まれ、次の瞬間には身体が宙へ浮いていた。
「なっ――」
力任せに投げ飛ばされ、再び地面へ叩きつけられる。
「玲!」
「来んな!」
玲は叫びながら立ち上がった。
身体のあちこちが痛む。それでも、悪魔から目を離すことはなかった。
先ほどまでなら拳も蹴りも通じていた。だが今は速さも力も明らかに上がっている。このまま同じように戦っても勝てないことくらい、玲にも分かっていた。
「くそ……」
自然と手が腰へ伸びた。
布に包まれた武器。
何度試しても抜けなかった。
村にいた時も、酒場でも、ついさっきだって駄目だった。
それでも玲は柄を握った。
背後から椎名の苦しそうな声がする。
「早く逃げなさいよ……!」
「嫌だ」
玲は即答した。
悪魔がゆっくりと近づいてくる。
「俺はこいつを倒しに来たんだ」
「今そんなこと言ってる場合じゃ――」
「それに」
玲は一度だけ背後の椎名へ目を向けた。
「お前置いて逃げられるわけねえだろ」
椎名が黙る。
玲は再び悪魔へ向き直った。
そのとき、ふいに一つの言葉が頭をよぎった。
『――大切なものを守れる人間になれ』
誰に言われたのかは分からない。
いつ聞いたのかも、はっきりとは思い出せない。
それでもその言葉だけは、ずっと玲の中に残っていた。
悪魔が地面を蹴った。
速い。
玲は柄を握り締める。
今度こそなんて考えている余裕はなかった。
ただ、このままでは椎名が殺される。
それだけは嫌だった。
悪魔の腕が迫る。
玲は無我夢中で柄を引いた。
その瞬間。
手のひらが焼けた。
「っ……!」
火の中へ直接手を突っ込んだような熱が、柄を握った右手から腕へ駆け上がる。
同時に、甲高い音が林に響いた。
玲の目が見開かれる。
今までどれだけ力を込めても動かなかった武器が、何の抵抗もなく鞘から抜けていた。
そして、形が変わる。
布の隙間から現れた刀身が大きく広がり、玲の手の中でまるで別の武器へ作り変えられていく。
長い刀身に、両手でも扱えるほどの柄。
黒みを帯びた、一振りの剣。
「な――」
驚いている暇はなかった。
悪魔の拳はすでに目前まで迫っている。
玲は反射的に剣を振るった。
轟音が響く。
悪魔の身体が横へ弾き飛ばされ、そのまま木の幹へ激突した。太い幹が大きく揺れ、夜の林に無数の葉が降り注ぐ。
「なんだ、これ……」
玲は呆然と剣を見る。
ほとんど力任せに振っただけだった。
それなのに、さっきまで拳を受け止めていた悪魔が簡単に吹き飛んだ。
「玲、その手……」
椎名の声に、玲は自分の右手を見る。
手の甲に、見覚えのない黒い模様が浮かんでいた。
「何だこれ?」
「……あんた、それ……」
椎名は何かを知っているようだった。
だが、今は聞いている暇はない。
「殺す……!」
悪魔が木の幹から身体を離し、玲へ向かってくる。
玲は剣を握り直した。
その瞬間、自分の身体に起きている変化に気づく。
軽い。
地面へ何度も叩きつけられた痛みは残っている。それなのに、身体には今までにないほどの力が満ちていた。
悪魔の動きも、先ほどよりはっきりと見えた。
「いける」
玲は地面を蹴った。
「うおっ!?」
自分で驚くほど身体が前へ出た。
一瞬で悪魔との距離がなくなる。
玲は慌てながらも剣を横へ振るった。刃は悪魔の胸を深く切り裂き、その身体を大きく後退させる。
「ぐああっ!」
玲はすぐに追った。
悪魔が腕を振るうのを見て横へ避ける。しかし、ほんの少し身体を動かしたつもりが、勢い余って何歩分も横へ飛び出してしまった。
「なんだこれ……!」
玲は慌てて足を止めた。
速すぎる。
身体が思った通りに動かないのではない。
思った以上に動いてしまうのだ。
「玲! 力任せに動くな!」
かぐやの声が飛んでくる。
「分かってる!」
玲は再び悪魔へ向かった。
今度は抑えて地面を蹴ったつもりだったが、それでも一気に距離が縮まる。悪魔の腕をかわしながら剣を振るうと、今度は勢いを止めきれず、そのまま身体まで持っていかれた。
それでも刃は悪魔の肩を深く切り裂いた。
悪魔が苦痛に顔を歪めながら腕を振り回す。玲はそれを避けて反撃するが、踏み込みすぎて体勢を崩し、剣を振れば勢いに引っ張られる。力も速さも先ほどまでとは比べものにならないのに、それをどう扱えばいいのかが分からない。
椎名の戦い方とは正反対だった。
彼女は必要なだけ動き、必要なだけ刃を振るっていた。
今の玲には、それができない。
それでも圧倒的な力の差だけで、悪魔は少しずつ押されていった。
「おらっ!」
玲が大きく剣を薙ぐ。
悪魔は咄嗟に腕で受けたが、刃が深く食い込み、そのまま身体ごと吹き飛ばされた。
地面を転がった悪魔が立ち上がろうとする。
玲は息を弾ませながら剣を握り直した。
「今度こそ……!」
地面を蹴る。
「玲、待って!」
椎名の声が聞こえた。
だが、玲は止まらなかった。
この力なら倒せる。
そう思った。
悪魔との距離を一気に詰め、剣を大きく振り上げる。
悪魔が顔を上げた。
玲が剣を振り下ろそうとした、その直前だった。
悪魔が地面の土を掴んだ。
「――っ!」
土が玲の顔へ投げつけられる。
「うわっ!」
反射的に目を閉じた。
その一瞬で、悪魔は玲の懐へ潜り込んでいた。
腹に拳がめり込む。
「がっ――!」
身体が浮いた。
さらに悪魔は玲の腕を掴み、そのまま地面へ叩きつける。
肺から一気に空気が抜けた。
「玲!」
椎名の声が遠く聞こえる。
玲は剣を手放さなかった。
痛みに耐えながら身体を起こそうとしたところで、胸を踏みつけられる。
「ぐっ……!」
地面へ押し戻された。
悪魔が玲を見下ろしている。
「殺す……!」
腕が振り上げられる。
玲は剣を持ち上げようとした。
だが、この体勢では間に合わない。
力を手に入れた。
さっきまでとは比べものにならないほど強くなった。
それなのに、使いこなせなければ意味がない。
「玲!」
椎名が立ち上がろうとしている。
かぐやも悪魔へ飛びかかろうと身構えた。
悪魔の腕が振り下ろされる。
その瞬間。
玲の視界を、何かが横切った。
音は一度だけだった。
悪魔の動きが止まる。
「……え?」
玲は瞬きをした。
悪魔の胸に、細い線が走っている。
遅れて、そこから鮮血が噴き出した。
悪魔は何が起きたのか理解することもできないまま身体を傾かせ、そのまま玲のすぐ横へ倒れ込んだ。
悪魔はもう、動かない。
「…………」
玲は倒れたまま顔を上げる。
焚き火の向こうに、一人の女が立っていた。
長い黒髪。
真っ直ぐに切り揃えられた前髪。
その手には、刀が握られている。
月明かりを受けた刃から、一筋の血が地面へ落ちた。
玲はその顔を見つめる。
見間違えるはずがなかった。
「……美月?」




