第5話:悪魔
※毎日20時30分に投稿
「――悪魔」
玲の声が静まり返った林に落ちた。
木々の隙間から現れた影は、ゆっくりと焚き火の明かりへ近づいてくる。
背丈は玲より頭一つほど高い。痩せた身体に汚れた衣服をまとい、伸び放題の髪の隙間から二人と一匹を見ている。
遠目には、人間と大して変わらない。
だが、玲には分かった。
先ほどから鼻を刺していた知らない匂い。それが目の前の男から強く漂っている。
悪魔は立ち止まると、鼻を鳴らした。
「……人間」
低く掠れた声だった。
玲は腰の武器へ手を掛けながら、悪魔を見据える。
見た目は人間。
言葉も話す。
それでも、どこかがおかしい。
こちらを見る目に、人と話しているときのようなものを感じなかった。
悪魔の視線が玲から椎名へ移る。
「腹、減った」
「……やっぱりこいつで間違いなさそうね」
椎名が静かに息を吐いた。
「この辺で旅人を襲ったの、あんた?」
悪魔が笑った。
口の端から覗いた歯に、焚き火の光が反射する。
「まだ足りない」
「そう」
椎名の両手が腰へ伸びた。
「じゃあ遠慮はいらないわね」
玲がその手元を見る。
握られていたのは、二本の短い刃だった。
二本の柄からは細い鎖が伸び、互いに繋がっている。
「それで戦うのか?」
「そうだけど」
「変な武器だな」
「今それ言う?」
椎名が腰を落とす。
その瞬間、玲はわずかな違和感を覚えた。
雰囲気が変わった。
焚き火を囲んでいたときとも、道中で金の話をしていたときとも違う。
椎名の視線は悪魔だけを捉え、身体から余計な力が抜けている。
悪魔が低く唸った。
「食う」
次の瞬間、地面を蹴った。
先に動いたのは椎名だった。
正面から迫る悪魔に対し、わずかに身体を横へずらす。伸びてきた腕を紙一重でかわすと、その脇をすり抜けながら右手の刃を走らせた。
悪魔の脇腹が裂け、血飛沫が飛ぶ。
「ぐっ……!」
振り返った悪魔が腕を薙ぐ。
椎名はそれを読んでいたかのように身を低くし、今度は太腿へ刃を突き立てた。
悪魔の身体が傾く。
椎名はすぐに刃を抜くと、追撃はせずに一度距離を取る。
「……すげえ」
玲は思わず呟いた。
速い。
だが、それ以上に無駄がなかった。
悪魔の攻撃が届く直前までその場にいて、最小限の動きで避ける。そのまま相手の身体が流れたところへ、確実に刃を入れていた。
悪魔が傷口へ触れる。
指についた血を見ると、その顔が歪んだ。
「痛い……」
「当たり前でしょ」
「っ……殺す」
悪魔が再び椎名へ飛びかかった。
今度は両腕を振り回すように襲いかかる。
椎名は後ろへ下がりながら一撃目をかわし、続く腕を刃で受け流した。金属の擦れるような音が響き、その勢いを利用して身体を回転させる。
右手の刃が悪魔の肩を切り裂いた。
さらに椎名は左手の刃を投げる。
鎖を引きながら飛んだ刃を、悪魔が咄嗟に腕で防いだ。
その腕へ鎖が巻きつく。
「捕まえた」
椎名が強く引くと悪魔の身体が前方へ崩れる。
そのまま自分からも距離を詰め、無防備になった胸へ刃を走らせた。
鮮血が散る。
悪魔は数歩後退し、片膝をついた。
「椎名、強えな」
「今さら?」
椎名は悪魔から目を離さない。
玲は腰の武器を見た。
自分も戦うために来たのだ。
椎名に全部任せるつもりはない。
柄を握る。
思い切り引いた。
「…………」
動かない。
もう一度引く。
やはり駄目だった。
「何してんの?」
「抜こうとしてる」
「抜けないって言ってたじゃない」
「今日は抜けるかもしれねえだろ」
「そんなわけ――」
悪魔が立ち上がった。
椎名はすぐに玲から視線を外す。
胸や脇腹から血を流しながら、悪魔はこちらを睨んでいる。
「殺す……」
「さっきも聞いた」
椎名が構え直した。
悪魔が飛び込んでくる。
玲は武器から手を離し、その横へ走った。
悪魔の意識は椎名に向いている。
玲は死角から踏み込み、その脇腹へ思い切り蹴りを叩き込んだ。
悪魔の身体がよろめく。
「おっ」
玲はそのまま拳を振るった。
頬を捉える。
確かな手応えがあった。
だが、続けて殴ろうとしたところで悪魔に肩を掴まれてしまう。
「しまっ――」
強い力で引き寄せられた。
玲が振りほどくより先に、悪魔が口を大きく開く。
「食う……!」
「玲!」
銀色の刃が二人の間を走った。
悪魔が玲を離して後ろへ下がる。
すぐ横へ椎名が飛び込んできた。
「邪魔しないで!」
「助けようとしたんだよ!」
「今のは私が助けたの!」
悪魔が再び迫る。
二人は左右へ分かれた。
今度は玲も動きを止めなかった。
悪魔が椎名を追えば、横から拳を叩き込む。玲へ向きを変えれば、その背後へ椎名が回り込み、二本の刃で傷を増やしていく。
息を合わせようとしているわけではない。
それでも悪魔にとっては、二方向から攻撃される形になる。
やがて苛立った悪魔が玲へ大きく腕を振り下ろした。
玲は身体を捻ってかわす。
その腕へ椎名の鎖が巻きついた。
椎名が勢いよく引くと、悪魔の上体が大きく崩れた。その隙に懐へ飛び込み、胸へ片方の刃を深く突き立てる。
「ぐああっ!」
悪魔が叫ぶ。
椎名は刃を引き抜き、返す動きでもう一度胸を斬り裂いた。
悪魔が地面へ倒れていく。
「やったか?」
玲が近づこうとすると、「待って」と椎名が制した。
構えを解いていない。
悪魔の身体が痙攣する。
「痛い……」
掠れた声が聞こえた。
ゆっくりと両手を地面につく。
「痛い……痛い……」
椎名が目を細めた。
悪魔は立ち上がった。
全身から血を流している。
それなのに、先ほどより強く地面を踏み締めていた。
「痛い!!」
悪魔が叫ぶ。
その姿が、一瞬で椎名の前へ迫った。
「――っ!」
椎名が身体を横へ逃がす。
悪魔の拳が頬のすぐそばを通り過ぎた。
すれ違いざまに刃を振るい、悪魔の腹を切り裂く。
だが、止まらない。
「……速くなってる」
椎名が呟いた。
悪魔が振り返る。
「殺す殺す殺す!」
再び襲いかかる。
椎名は連続して振るわれる腕を避けながら後退した。隙を見つけて刃を入れているものの、先ほどまでのように一方的ではない。
少しずつ、悪魔の攻撃が椎名へ近づいている。
それでも椎名は落ち着いていた。
悪魔の拳をかわし、伸びきった腕へ鎖を巻きつける。
そして、再び強く引いた。
悪魔の身体が傾き、椎名は一気に距離を詰める。
喉元へと刃が迫った。
これまでと同じなら、避けられなかったはずだった。
だが。
次の瞬間、悪魔の手が鎖を掴んだ。
「――え?」
椎名の動きが止まる。
悪魔は鎖を握り締めたまま、力任せに引いた。
椎名の身体が前方へ持っていかれる。
咄嗟に刃を構えたが間に合わない。
悪魔の拳が腹へ叩き込まれた。
「――っ!」
鈍い音が響く。
椎名の身体が宙へ浮き、そのまま後方へと吹き飛ばされた。
背中から木の幹へ激突する。
「椎名!」
玲は走り出した。
椎名は地面へ落ち、腹を押さえながら咳き込んでいる。
「っ……げほっ……」
立ち上がろうと手をつく。
だが、すぐには身体に力が入らない。
悪魔はそんな椎名を見つめていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、口元を歪める。
「殺す……」
ゆっくりと歩き出した。
「椎名!」
玲が二人の間へ飛び込む。
悪魔の視線が玲へ移った。
「邪魔……」
「お前の相手は俺だ」
玲は拳を構える。
すると、背後から椎名の声がした。
「玲、待って……そいつ――」
悪魔が地面を蹴った。
玲の目が見開かれる。
速い。
先ほどとは、まるで違う。
悪魔は一瞬で玲との距離を詰めていた。
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