第4話:痕跡
※毎日20時30分に投稿
林へ入ってから、すでに一時間ほどが経っていた。
街道から見えていたときにはそれほど大きく感じなかったが、中へ入ってみると意外に深い。似たような木々がどこまでも続き、少し振り返っただけで自分たちがどこから来たのか分からなくなりそうだった。
「何もいねえな」
玲が呟く。
「いない方がいいじゃろ」
少し後ろを歩くかぐやが答えた。
「倒しに来たんだから、いないと困るだろ」
「わしは困らん」
玲は鼻を動かした。
湿った土や草木の匂い。その中から別の匂いを探してみるが、人間とも獣とも違うようなものは感じられない。
前を歩く椎名も、時折足を止めて周囲を確認していた。
街道では玲を追い払おうとしていたが、林へ入ってからはほとんど口を利いていない。
地面に残された足跡。
折れた枝。
木の幹についた傷。
何かを見つけるたびに確かめているが、そのどれも目的の悪魔には結びつかないようだった。
「そっちは?」
玲が尋ねる。
「何もない」
椎名は短く答えた。
「本当にここなのか?」
「私に聞かないでよ。あんたの依頼書にも書いてあったんでしょ」
「書いてあった」
「じゃあいるんじゃない?」
随分と適当な返事だった。
だが、玲も似たようなことを考えていたので、それ以上は何も言わなかった。
二人と一匹はさらに林の奥へ進んだ。
時折、鳥や小さな獣の気配はある。
だがそれだけだった。
悪魔どころか、襲われたという旅人の痕跡すら見つからない。
しばらくして、椎名が立ち止まった。
「ねえ」
「ん?」
「さっきから思ってたんだけど」
椎名は玲の腰を指差した。
「それ、本当に武器?」
玲の腰には、布に包まれた一本の武器がある。
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「剣だと思う」
「思う?」
椎名が怪訝そうに眉を寄せた。
玲は布の一部をずらし、柄を見せる。
「抜けねえんだよ、これ」
「……は?」
「何やっても駄目だった」
椎名はしばらく黙った。
そして、玲の顔と武器を交互に見る。
「それで悪魔を倒しに来たの?」
「そうだけど」
「馬鹿なの?」
「失礼だな」
椎名は頭が痛そうに額へ手を当てた。
「せめて使える武器くらい持ってきなさいよ」
「これしかねえ」
「素手で戦うつもり?」
玲は少し考えた。
「まあ、今までも何とかなってたし」
椎名が玲を見る。
「……悪魔と戦ったことあるの?」
「ああ」
あっさりとした返事だった。
椎名の表情がわずかに変わる。
「それで生きてるんだ」
「見れば分かるだろ」
「そういう意味じゃない」
玲には違いが分からなかった。
椎名は何か聞こうとしたようだったが、結局やめた。
再び歩き出す。
玲もその後を追った。
それから何時間か探し続けたものの、結局悪魔は見つからなかった。
木々の隙間から差し込んでいた光も、いつの間にか赤みを帯びている。
「今日はもう無理ね」
椎名が空を見上げた。
「まだ探せるだろ」
「暗くなったらもっと見つからなくなる。それに、この林を夜に歩き回る方が危ない」
「でも悪魔は夜に出るかもしれねえぞ」
「だからって、何も見えない中を探し回る必要はないでしょ」
玲は少し考えた。
反論しようとしたが、特に思いつかなかった。
「……じゃあどうすんだ?」
「ここで寝る」
「ここで?」
椎名はすでに周囲を見回していた。
少し開けた場所を見つけると、背負っていた荷物を下ろす。
「朝になったらまた探す。それでいいでしょ」
「野宿か」
玲の声が少し弾んだ。
椎名が振り返る。
「なんで嬉しそうなの?」
「久しぶりだから」
玲にとって、外で眠ること自体は珍しいことではなかった。
村の近くの森へ入り、そのまま帰らず朝を迎えたことも何度もある。
「おぬしの場合、帰るのが面倒になっただけじゃろう」
「同じようなもんだろ」
「全然違う」
椎名は二人のやり取りを聞きながら、呆れたように荷物を開いた。
その中から、小さな火打ち石を取り出す。
「薪、集めるわよ」
「俺がやる」
玲はそう言うと、返事を待たず林の中へ消えていった。
椎名はその背中を見送る。
「……自由ね、あいつ」
「昔からじゃ」
「昔から?」
椎名がかぐやを見る。
かぐやは一瞬黙った。
「まあ、長い付き合いじゃ」
「へえ……」
椎名は何か考えるように、玲が消えた方を見た。
そして。
「そういえば」
視線がかぐやへ戻る。
「まだ説明してもらってないんだけど」
「何の話じゃ」
「なんで喋れるの?」
かぐやは露骨に顔を逸らした。
「わしにもわからん」
「……え?」
「気づいたときには喋れておった」
「そんなことある?」
「実際にあるのだから仕方なかろう」
椎名は納得できない様子でかぐやを見つめる。
だが、嘘をついているようにも見えない。
「……変なの」
「おぬしに言われたくない」
「私のどこが変なのよ」
そこで枝を抱えた玲が戻ってきた。
「何の話してんだ?」
「かぐやの話」
「なんか分かった?」
「何も分からなかった」
「俺も知らねえぞ」
「飼い主も知らないの!?」
「誰が飼い主じゃ!」
かぐやの声が林に響いた。
*
日が沈む頃には、小さな焚き火が出来上がっていた。
玲は火の前に座り、拾ってきた枝を一本ずつ放り込んでいる。
その向かいでは、椎名が持っていた干し肉を食べていた。
玲の視線が、その手元へ向かう。
椎名が気づいた。
「……何?」
「いや」
「これは私のだからね」
「何も言ってねえだろ」
「顔が言ってる」
玲は黙った。
腹は減っていた。
昼に酒場で食べたとはいえ、それからかなり歩いている。
椎名はしばらく玲を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
干し肉を一つ取り出す。
「はい」
「いいのか?」
「お金取るわよ」
伸ばしかけた玲の手が止まった。
「いくら?」
「冗談よ」
玲は干し肉を受け取った。
「ありがとな」
椎名は返事をせず、自分の分を齧る。
焚き火の向こうでは、かぐやが丸くなっていた。
しばらく、薪の爆ぜる音だけが続いた。
「ねえ」
先に口を開いたのは椎名だった。
「あんた、どこから来たの?」
「第一エリア」
「第一エリア?」
椎名が少し驚く。
「ずいぶん遠いところから来たのね」
「そうなのか?」
「そうなのかって……塔を越えてきたんでしょ?」
「ああ」
玲は干し肉を食べながら答える。
「村に住んでたんだけど、色々あってな。それでこっちに来た」
「色々?」
「色々」
玲はそれ以上話さなかった。
椎名も深くは聞かなかった。
焚き火に枝を一本放り込む。
「それで騎士になりたいの?」
「ああ」
「なんで?」
玲は少し考えた。
「格好いいから」
椎名が玲を見る。
「……それだけ?」
「悪魔倒して、人守ってんだろ? すげえじゃん」
あまりにも真っ直ぐな答えだった。
椎名はしばらく黙っていた。
「何だよ」
「別に」
椎名は焚き火へ視線を戻した。
その横顔からは、何を考えているのか分からない。
玲は気にせず、今度は椎名を見る。
「椎名は?」
「何が?」
「どこから来たんだ?」
「このエリア」
「ずっとここ?」
「まあね」
「騎士にはならねえの?」
椎名の手が、一瞬だけ止まった。
玲は気がつかないほどの、ほんのわずかな変化だった。
「興味ない」
「悪魔倒せるのに?」
「騎士じゃなくてもお金は稼げるから」
椎名はいつもの調子で答えた。
玲は納得したように頷く。
「やっぱ金なんだな」
「お金があれば大抵のことは何とかなるもの」
「そうか?」
「そうよ」
今度の返事には、先ほどまでとは少し違う響きがあった。
玲は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに火へ枝を放り込む。
「じゃあ明日、どっちが先に悪魔倒すか勝負な」
「まだ言ってるの?」
「椎名が帰らねえならやるしかないだろ」
「なんで私が帰るのよ」
椎名が呆れたように笑った。
「絶対に報酬は渡さないから」
「俺も」
それだけ言うと、二人とも焚き火へ視線を戻した。
昼間ほど険悪ではない。
かといって、仲良くなったわけでもない。
ただ、出会ったばかりの頃よりは、少しだけ互いのことを知った。
夜は静かに更けていった。
*
玲は目を開けた。
焚き火はまだ消えていない。
小さくなった炎が、暗闇の中で揺れている。
椎名は少し離れた木にもたれ、目を閉じていた。
かぐやも伏せたまま動かない。
「…………」
玲は身体を起こした。
――何かがいる。
音がしたわけではない。
それでも、眠りから引き戻された。
鼻を動かす。
夜露に濡れた草。
土。
燃えかけた薪。
そして、その中に混じる。
知らない匂い。
玲の表情が変わった。
「かぐや」
小さく呼ぶ。
ほとんど同時に、かぐやが顔を上げた。
「……分かっておる」
その声で、椎名も目を開ける。
先ほどまで眠っていたとは思えないほど素早く身体を起こした。
「何?」
「いる」
玲が立ち上がる。
椎名の表情から眠気が消えた。
「どこ?」
玲は答えなかった。
分からない。
ただ、匂いは確実に近づいている。
木々の向こう。
焚き火の光が届かない暗闇へ、三人の視線が向けられる。
かさり、と葉が鳴った。
玲が腰の武器へ手を掛ける。
椎名もゆっくりと立ち上がった。
もう一度、音がした。
先ほどより近い。
暗闇の奥で、何かが動く。
やがて木々の隙間から、一つの影が姿を現した。
玲の鼻を、強い匂いが刺した。
人間でもない。
獣でもない。
玲はその影を見据えた。
「――悪魔」
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