第2話:出会い
「地図をいただけるかしら?」
女の言葉に、団長はすぐには答えなかった。
酒場には先ほどまでの喧騒が戻っていたが、周囲の騎士たちは時折こちらへ目を向けている。会話を続けながらも意識だけは団長たちへ向けられていた。
やがて、団長が重い息を吐いた。
「……悪魔十体。本当にやったのか?」
女は答えず向かいに座る男へ視線を向けた。
男は面倒そうに立ち上がると、肩に掛けていた袋を外した。中身の重さを感じさせるそれを片手に提げ、団長の前まで歩く。
そして無造作に床へ放り投げた。
どさり、と鈍い音が響く。
袋は重みによって歪み、中に詰め込まれたものの形が布越しに浮かび上がった。
近くにいた騎士たちが一斉に口を閉ざす。
「確認するか?」
「いや……いい」
団長は袋に触れようともしなかった。
男はそれ以上何も言わず、女の向かいへ戻る。
「ありがとう、十悟」
十悟は返事をせず、椅子へ腰を下ろして腕を組んだ。
女は改めて団長を見る。
「それで、地図は?」
団長の眉間に深い皺が刻まれた。
女は急かさず静かに返事を待っている。指先をカップへ添え、責めるでも問い詰めるでもない。
その沈黙がかえって団長を追い詰めているようだった。
「……渡せない」
ようやく絞り出された言葉にも女は驚かなかった。
「約束と違うわね」
「事情が変わった」
団長は周囲を窺った。視線を向けられた騎士たちが、気まずそうに顔を逸らす。
「地図が……奪われたんだ」
女の指がカップの縁をなぞる。
「誰に?」
短い沈黙のあと、団長は低い声で答えた。
「——レヴィアタンだ」
その名が出た瞬間、十悟の目つきが変わった。
それまで面倒そうに話を聞いていた男が、鋭い視線を団長へ向ける。
しかし、女だけは変わらなかった。
「数日前だ。地図を運んでいた連中が襲われた。生き残った奴の話じゃ、間違いない」
団長の声には苦々しさが滲んでいた。
「それで、地図だけ?」
「……ああ」
「あなたのお仲間は?」
団長は答えなかった。
女はしばらくその顔を見つめていたが、それ以上は聞かず珈琲を一口飲んだ。
「おい、小夜」
十悟が険しい声で呼ぶ。
「まさか探す気か」
小夜は十悟へ視線を向けたものの、答える代わりに団長を見た。
「他に地図は?」
「少なくとも俺たちが持ってるのはあれだけだ」
小夜は小さく頷いた。
その仕草を見て十悟が不機嫌そうに息を吐く。
長く行動を共にしているだけに、彼女が次に何を言い出すのかある程度は察しているのだろう。
「なら、仕方ないわね」
小夜は残っていた珈琲を飲み干し、椅子から立ち上がった。
黒い外套が静かに揺れる。
「お、おい」
団長が慌てて呼び止めた。
「……どうするつもりだ」
小夜は振り返り、少しだけ首を傾げた。
「返してもらうわ」
「レヴィアタンからか?」
「他に誰がいるの?」
あまりにも当然のような返事だった。
そこに強がりも気負いもない。まるで誰かに貸した本を取り戻しに行くとでも言うような口調だった。
団長は言葉を失った。
その姿を一瞥し、小夜は出口へ向かう。
騎士たちは黙って道を空けた。誰一人として呼び止めようとはしない。
十悟だけが席を立ち、その背中を追った。
「待て。勝手に決めんな」
「来ないの?」
「行かねえとは言ってねえ」
「ならいいじゃない」
十悟は何か言い返しかけたが、結局深いため息を吐くだけだった。
二人が酒場を出ると、ようやく騎士の一人が口を開いた。
「……本当に行く気かよ」
団長は答えなかった。
ただ、床に置かれた重い袋を見つめていた。
*
酒場を追い出された玲はかぐやと街を歩いていた。
先ほど出会った女のことが少し気になっていたが、名前さえ教えてくれなかった相手だ。考えたところで何も分からない。
それよりも、今は騎士になる方法を見つけたかった。
何度頼んでも酒場へ入れてもらえない。紋章がないから駄目だと言われるが、どうすればよいのかさえ教えてもらえなかった。
玲は歩きながら腰に下げた武器へ目を落とした。
布に包まれた一本の刀。
村にいた頃から持っているものだったが、一度も抜けたことがなかった。
鞘を足で押さえ、両手で柄を引っ張ったこともある。どれだけ力を込めても刃は少しも姿を見せなかった。
騎士たちに見せた時も笑われただけだった。
「やっぱ、これが使えねえのが駄目なのか?」
玲が呟くと隣のかぐやが顔を上げた。
「少なくとも壊そうとするのはやめておけ」
先回りした忠告に玲は口を尖らせた。
——その時だった。
「捕まえろ!」
前方から怒鳴り声が響いた。
通りを歩いていた人々が振り返り、道の中央に小さな人だかりができる。
その間を縫うように一人の少女が走ってきた。
玲と同じくらいの年だろうか。
少女は通行人の肩をかわし、道に積まれた荷物を軽々と飛び越えていく。その後ろでは数人の男たちが声を荒らげながら追いかけていた。
「待ちやがれ!」
少女は振り返りもせず速度を上げた。
その手には小さな袋と一枚の紙が握られている。
「泥棒じゃな」
かぐやが呆れたように呟いた。
一方で玲は少女の身のこなしに目を奪われていた。
人の流れを読むように進路を変え、少しの隙間も見逃さずに駆け抜けていく。追っ手との差は少しずつ広がっていた。
やがて少女と玲の目が合った。
しかし、少女は速度を落とさない。
「ちょっとごめん!」
「え?」
少女は玲の肩へ片手を置くとそれを支えにして地面を蹴った。
身体がふわりと浮き、玲の頭上を飛び越える。
危なげなく着地するとそのまま人混みへ消えていった。
「……すげえ」
玲は思わず声を漏らした。
追ってきた男たちも慌ただしく横を通り過ぎていく。
やがて騒ぎが遠ざかると、街には再び普段の賑わいが戻った。
玲はしばらく少女が消えた方向を見つめていた。
その時、ふと彼女が持っていた紙を思い出す。
「……あれ?」
どこかで見たことがある。
少し考え、玲は顔を上げた。
「あいつが持ってた紙、酒場に貼ってあるのと似てたな」
壁に並んでいた依頼書。
騎士たちはその紙を受付へ持っていき、仕事を受けていた。
もし、あの依頼を自分でもこなすことができれば。
玲の目が輝いた。
「騎士じゃなくても、悪魔を倒したら認めてもらえるんじゃねえか?」
かぐやは嫌な予感がしたのか長い息を吐いた。
「……また妙なことを考えておるな」
しかし、玲はすでに来た道を引き返していた。
酒場へ戻るとまず窓から店内を覗き込む。
先ほどの女の姿はなかった。
騎士たちはそれぞれの席へ戻り普段通り酒を飲んでいる。
壁際へ視線を移すと、そこには悪魔の情報が記された依頼書が何枚も貼られている。
「あれだ」
玲は窓から離れ扉へ向かった。
だが、手をかけたところで一度止まる。
普通に入ればまた追い出される。
今日はすでに二度も放り出されていた。
玲は少し考え、扉をほんの僅かに開いた。
中の騎士たちがこちらを見ていないことを確かめる。
「……見つからなきゃいいか」
「何も学習しておらん!」
背後でかぐやが叫んだ。
しかし、玲は聞く耳を持たなかった。
本日三度目。
玲は懲りずに酒場へ忍び込んだ。
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