第28話:僕にはないもの
「そんなに誰かを大切にできるの?」
広場に、柔らかな声が落ちた。悪魔はゆっくりと階段を下りてくる。細身の身体。肩にかかるほどの淡い髪。顔立ちは男にも女にも見えるほど整っている。
人間とほとんど変わらない。角さえなければ、玲も悪魔だとは思わなかったかもしれない。
けれど、匂いだけは違った。今まで出会ったどの悪魔よりも濃い。
玲の身体が無意識に強張る。
「……お前がやったのか?」
悪魔の視線が初めて玲へ向いた。
「何を?」
「こいつらだよ」
玲は広場を見渡す。
「家族忘れたり、殺し合ったりしてんの。お前がやったのか?」
「そう」
あまりにも簡単に認めた。
玲の眉が寄る。
「なんで?」
悪魔は少し考えた。
「知りたかったから。大切って、何なのか」
悪魔は広場の人間たちへ視線を戻す。
「親。子ども。恋人。友達」
淡々と数えていく。
「人間は、いつも誰かと一緒にいる」
その声には怒りがない。
「守ったり、泣いたり、自分より相手を選んだりする」
広場の中央。先ほどの男は怯える女を見つめたまま動けずにいた。
「でも、なくなったら簡単に壊れる」
女はもう男の名前すら覚えていない。
「だったら最初から、なくても同じでしょう?」
「違う」
玲は即座に答えた。
「何が違うの?」
「分かんねえけど、違う」
「分からないのに?」
玲は剣の柄を握る。
「俺も忘れた奴がいる」
一瞬だけ、頭の奥にぼやけた誰かの姿が浮かんだ。
顔は見えない。
名前も分からない。
それでも、残っている言葉がある。
『大切なものを守れる人間になれ』
「覚えてなくても、なくなったことにはならねえ」
悪魔の目が僅かに細くなった。
「変なの」
「お前に言われたくねえよ」
玲が黒い長剣を引き抜く。それに合わせ、椎名と美月も武器を抜く。周囲にいた悪魔たちが一斉に玲へ顔を向けた。
「玲」
美月が短く呼ぶ。
「分かってる」
十体以上。正面から全員を相手にするのは無理だ。
それ以上に、周囲には大勢の人間がいる。
「かぐや」
玲が視線だけを向ける。
「人間、外に出せるか?」
「やってみよう」
かぐやが人混みへ走って行くのを悪魔は止めなかった。むしろ興味深そうに、その姿を目で追っている。
「逃がすの?」
「当たり前だろ」
「どうして?」
「死ぬから」
「君が死ぬかもしれないのに?」
玲は悪魔を見る。
「だから何だよ」
沈黙。
ほんの僅かに、悪魔の顔から柔らかな表情が消えた。
「……そういうところ」
声が低くなる。
「嫌いだな」
空気が変わった。
玲の背中を冷たいものが走る。
「僕にはないのに」
悪魔の周囲で、黒い筋が浮かび上がった。
「君たちは当たり前みたいに持ってる」
近くにいた悪魔たちが動き出す。
三人は武器を構える手に力を入れた。
「お前、名前は?」
悪魔は一瞬だけ目を瞬き、それから微笑んだ。
「レヴィアタン」
椎名の表情が変わる。
美月も刀を構えたまま、僅かに目を見開いた。
「……上級悪魔」
レヴィアタンは玲を見つめる。
「君は?」
「玲」
「玲」と、レヴィアタンは確かめるようにその名前を繰り返す。
「君も誰かを大切にしてる?」
「してる」
「誰?」
玲の頭に何人もの顔が浮かぶ。
かぐや。
美月。
椎名。
死んだ村の人間たち。
——そして。
白い髪と黄色い瞳。
「いっぱいいる」
レヴィアタンの目が僅かに揺れた。
「……そう」
笑っている。それなのに、玲にはひどく寂しそうに見えた。
「じゃあ——」
レヴィアタンが片手を上げた。
「壊れたとき、どんな顔をするのかな」
次の瞬間。
周囲の悪魔たちが一斉に地面を蹴った。
「来る!」
椎名の声と同時に玲は正面から迫る悪魔へ踏み込んだ。
拳をかわし、胴を斬る。
だが、止まらない。
すぐに次が来る。
横から伸びた腕を美月の刀が弾いた。
「右」
玲は振り返らない。
美月の声を信じ、そのまま前へ出る。
背後で刃の音が響いた。
一体。
さらに二体。
数が多い。
「玲!」
今度は椎名の声が飛んでくる。
玲が身を沈めると頭上を短剣が飛んだ。
鎖が悪魔の首へ巻きつき、勢いよく引かれる。
体勢を崩したところへ玲が斬り込んだ。
「多すぎるだろ!」
玲は息を吐きながら周囲を見る。
少し離れたところではかぐやが動ける人間を広場の外へ押し出していた。だが、虚ろなまま立ち尽くす者も多く、避難は思うように進んでいない。
その間にも悪魔は容赦なく襲ってくる。
美月が一体を斬り伏せた。その直後、背後から別の悪魔が飛びかかる。
「美月!」
玲が動くより早く、椎名の短剣が飛んだ。それは悪魔の腕へ突き刺さる。
美月は振り返らなかった。そのまま目の前の悪魔へ刀を振り下ろす。
椎名が鎖を引き、背後の悪魔を引き離した。
「助かった」
美月はもう次の悪魔を見ていた。
玲も剣を握り直す。
戦える。三人なら。
そう思った瞬間だった。
「玲」
すぐ近くから声がした。
「——っ!」
振り返ると、レヴィアタンが目の前にいた。
いつ近づいたのか、まるで見えなかった。
反射的に剣を振る。
だが、レヴィアタンは僅かに身体を傾けただけだった。
刃が空を切る。
「遅いね」
腹に衝撃が走る。
「がっ……!」
玲の身体が地面を転がった。
「玲!」
椎名の声が遠く聞こえる。
玲は剣を地面へ突き立て、勢いを殺した。
腹が痛む。
呼吸が詰まる。
それでも、すぐに顔を上げた。
レヴィアタンは追ってこない。
ただ、玲を観察していた。
「やっぱり君、面白いね」
「何が……」
「今までの人間と違う」
レヴィアタンの視線が玲の右手へ落ちた。
その視線の先には、小夜からもらった黒い手袋がある。
「それ」
玲の身体が強張る。
「何を隠してるの?」
レヴィアタンが一歩近づくと、玲は剣を構え直した。
「教えねえ」
「そう」
レヴィアタンは微笑んだ。
「じゃあ、自分で見るよ」
地面が僅かに鳴る。
その瞬間、姿が消えていた。
玲は目を見開いた。
見えない。だが。
小夜との特訓が頭をよぎる。
『強い相手は、あなたより速いかもしれない』
見るだけじゃ駄目だ。
玲は考えるより先に地面を蹴った。
その直後。
さっきまで玲がいた場所を、レヴィアタンの腕が通り過ぎた。
「……へえ」
初めて、レヴィアタンの顔にはっきりとした興味が浮かんだ。
玲は着地し息を整えながら黒い剣を構える。
やはりさっきまで戦っていた悪魔たちとは、何もかもが違う。
「こいつ……」
玲の額を汗が伝う。
レヴィアタンは楽しそうに目を細めた。
「もう少し見せてよ」
次の瞬間。
玲とレヴィアタンは同時に地面を蹴った。




