第27話:どうして君たちは
北へ向かう人々は、玲たちが追いついてからも一度も足を止めなかった。声をかければ顔を向ける者はいる。だが、どこへ行くのか、なぜ向かっているのかと尋ねても返ってくる言葉はほとんど同じだった。
「行かないと」
誰に言われたのかも分からない。
何が待っているのかも知らない。
それでも、歩くことだけはやめようとしなかった。
力ずくで連れ戻すことも考えたが、すでに数十人はいる。老人や子どもだけならともかく、傷を負いながらも進もうとする者までいた。数人を止めたところで、残りはそのまま北へ向かってしまう。
結局、玲たちは一定の距離を保ちながら、その後を追うしかなかった。
やがて街道は森の中へ入った。頭上を覆う枝葉のせいで昼間だというのに薄暗い。湿った土を踏む無数の足音だけが、奇妙なほど揃って響いていた。
誰も話さない。
誰も周囲を見ない。
ただ前だけを向いて歩いている。
その様子を見ながら進むこと一時間ほど。先頭を歩いていた人々が、木々の向こうへ次々と消えていった。
「……何かある」
玲が足を速める。森を抜けた瞬間、視界が大きく開けた。
「街だ」
そこにあったのは、長い時間を人から忘れられていたような古い街だった。
外壁はところどころ崩れ、建物の壁には蔦が這っている。大きな門も地面へ倒れかけ、石畳の隙間からは雑草が伸びていた。
ここが、地図にあったハイドなのだろう。
何年も前に放棄された街。
そう聞いていた。
だが、街の中に人がいないわけではなかった。
「……何よ、これ」
椎名が思わず呟く。
大通りには、すでに大勢の人間がいた。数十人どころではない。見える範囲だけでも百人近くいる。
老人。
若者。
子ども。
服装も年齢もばらばらで、傷を負っている者も少なくない。周辺の村や集落から消えた人間たちが、ここへ集まっているのだと考えれば数も合う。
それなのに、誰一人助けを求めていなかった。泣き叫ぶ声も聞こえず、逃げようとする者もいない。ただ、街の奥へ向かって歩いている。
「玲」
かぐやが低く声を出した。
「分かってる」
玲もすでに気づいていた。人間とは違う匂いが、街中に満ちている。
屋根の上。
崩れた壁の陰。
路地の奥。
悪魔がいる。一体や二体ではない。何体もの悪魔が、人間を囲むように街の中へ散らばっていた。
玲は反射的に剣の柄へ手を伸ばす。
「待って」
美月の腕がその動きを止めた。
玲もすぐに理由に気づく。
悪魔が人間を襲っていない。すぐ目の前を歩く人間にも見向きもしない。人間も悪魔を見ても逃げる様子がなかった。
人と悪魔がこれほど近くにいるのに、何も起きていない。その光景の方が、玲には気味が悪かった。
「……なんで襲わねえんだ?」
「分からない」
美月も周囲を警戒したまま答える。
玲は剣から手を離した。
「行こう」
立ち止まっていても答えは出ない。玲たちは人の流れに混じり、街の奥へ進んだ。
大通りを歩くほど、異様さははっきりしていった。
道端に座り込んでいる者。
虚ろな目で壁にもたれている者。
悪魔がその横を通っても誰も反応しない。
途中、玲は建物の前に座っている少女を見つけた。十歳にもなっていないだろう。
「お前一人か?」
少女がゆっくり顔を上げる。
「分からない」
「家族は?」
「……分からない」
玲は答えに詰まった。少女の腰には小さな袋が結ばれている。そこから二枚の木札が覗いていた。
玲が示すと、少女は自分で木札を取り出した。それぞれに違う名前が刻まれている。
「誰の名前?」
少女はしばらく木札を見たあと、首を振った。
「知らない」
玲は何も言えず、その場を離れた。
少し先では男が女へ怒鳴っている。さらに向こうでは、幼い子どもが泣きながら女の服へ縋っていた。
「知らないって言ってるでしょ!」
女がその手を振り払う。
「近づかないで!」
似たような言葉が、街のあちこちから聞こえていた。
家族。
恋人。
親しかったはずの者。
誰かと誰かを結んでいたものだけが、切り離されている。
「……みんな同じだ」
玲が呟く。
椎名もいつもの軽い表情を消していた。
それでも人々は、この街から出ようとしない。
美月が視線を奥へ向ける。
「まだ進んでる」
先ほど森から一緒に来た者たちも、人の流れに混じって歩き続けていた。
その先には、街の中でもひときわ大きな建物がある。周囲の建物より高く、朽ちてはいるものの造りもしっかりしている。かつて街を治めていた者が使っていた場所なのかもしれない。
人々は、その建物へ向かっていた。
玲たちも流れを追う。
やがて建物の前へ出ると、広場いっぱいに人間が集まっていた。
「こんなに……」
椎名が息を呑む。
百人ではきかない。周辺の村だけではなく、もっと離れた土地から来た者もいるのだろう。
そして、その広場を囲むように悪魔たちが立っていた。
玲は途中で数えるのをやめた。
十体以上の悪魔。そのうちの一体が玲たちへ顔を向ける。
椎名が短剣へ手を伸ばした。
玲も身構える。
悪魔はゆっくりこちらへ歩いてきた。
だが、玲たちのすぐ横をそのまま通り過ぎた。
「…………」
玲が振り返ると、悪魔はもうこちらを見ていない。
「気づいてないわけじゃないよね」
椎名が小さく言う。
美月も悪魔の背中を見つめていた。
——その時。
正面の大きな建物から、重い音が響いた。
扉が開くと、広場にいた悪魔たちが一斉にそちらへ顔を向ける。人間たちも同じだった。
ざわめきすら起こらない。
ただ、全員が扉を見る。
最初に現れた悪魔が、若い男女を連れて広場の中央へ進んだ。
女は泣いている。
男は何度もその名を呼んでいた。
「嫌……」
震える女へ、男が手を伸ばす。
女も迷いながら手を伸ばした。
その指先が触れた瞬間。
「——嫌!」
女が男の手を振り払った。女は頭を抱え、目の前の男を怯えたように見上げた。
「誰……?」
「…………」
広場の悪魔たちは、ただその様子を眺めている。
玲の拳に力が入った。
なぜ人間を殺さないのか。
なぜここへ集めたのか。
その答えが、少しだけ見えた気がした。
「こいつら……」
剣を抜こうとした、その時だった。
「違うよ」
建物の奥から、柔らかな声が聞こえた。
玲の手が止まる。
広場も静まり返った。
「僕は、そんなことが見たいんじゃない」
足音が近づいてくる。
「知りたいだけなんだ」
暗がりから、一人の悪魔が姿を現した。
細い身体。
柔らかな髪。
一見すれば、人間とほとんど変わらない。
それでも玲には分かった。
匂いが違う。
これまで出会ったどの悪魔よりも、濃い。
悪魔は広場の人間たちをゆっくり見渡した。
その表情に怒りも憎しみもない。
ただ、本当に理解できないものを見るように首を傾げる。
「どうして君たちは——」
赤く濁った瞳が細められた。
「そんなに誰かを大切にできるの?」




