第22話:忘れられた人
リュネを出てから玲と椎名はほとんど足を止めなかった。
騎士から聞いた話では、北西の集落までは歩けば半日ほどかかるという。だが、すでに十人以上の死者が出ている。今この瞬間にも被害が増えているかもしれないと思えば、悠長に休んでいる気にはなれなかった。
森を抜け、細い街道を外れ、土の道をさらに北西へ進む。途中から風に混じる匂いが変わった。
焦げた木。血。
それから、人が大勢いた場所特有の汗や土埃の混じった匂い。
玲は何度も鼻を動かした。
「近い?」
後ろから椎名が尋ねる。
「うん。たぶん」
それだけ答えると玲はさらに足を速めた。
やがて木々の隙間から細い煙が見えた。
森を抜けた先にあったのは小さな集落だった。
家屋は十数軒ほど。そのうち二軒は屋根が崩れ、焦げた柱から黒い煙を上げている。火はほとんど消えていたがくすぶった木材の隙間から時折赤い火が覗いていた。
玲は集落の入口で足を止める。
静かだった。人がいないわけではない。気配はあるが誰も表へ出てこないのだ。
窓の隙間。
壊れた扉の奥。
物陰。
そこかしこから息を潜める人間の匂いだけが漂っている。
玲はゆっくり周囲を見回した。
「……悪魔は?」
椎名の声も自然と低くなる。玲は鼻から息を吸い込んだ。
血の匂いに混じって、確かに悪魔の残り香がある。
だが。
「もういない」
「いない?」
「匂いはある。でも、今ここにいる感じじゃない」
椎名の眉が寄る。
二人とも、救援要請を聞いた時点では戦うことになると思っていた。
——それなのに。
来るのが遅かった。
玲は何も言わず、集落の中へ足を進めた。
最初の遺体は、入口からさほど離れていない場所にあった。
男だった。
玲は反射的に駆け寄り、その肩へ手を伸ばす。
「おい」
揺らすが返事はない。胸元には深い傷があり、服は乾ききらない血で黒く染まっている。
玲はしばらく男の顔を見たあと、ゆっくり身体を戻した。
少し先にも、一人。さらにその向こうにも。
騎士の報告どおり、死者は一人や二人ではなかった。
玲の表情が次第に険しくなる。
椎名はそんな玲の少し後ろを歩きながら、集落全体を見渡していた。
「……変ね」
「何が?」
「全部壊されてるわけじゃない」
玲も顔を上げ集落を見渡した。
焼けている家もある。扉を壊されている家もある。壁に血が飛び散っている場所もある。けれど、その隣の家はほとんど無傷だった。
道の一角だけが激しく荒れているかと思えば、少し離れた場所には生活の跡がそのまま残っている。
悪魔が集落を無差別に襲ったのなら、もっと広く被害が出ていてもおかしくない。
玲は地面へ視線を落とす。
悪魔の匂いも同じだった。
集落中に均等に残っているわけではない。
特定の家。特定の道。特定の人間。そこだけが濃い。
「……家、選んでる」
「選んでる?」
「全部回った感じじゃない」
玲は一軒の家へ目を向ける。そこの扉は半分開いていた。
中から、人間の匂いがする。
「誰かいる」
椎名も頷いた。二人は慎重に中へ入った。
室内は荒れていた。椅子が倒れ、床には割れた皿が散らばっている。窓の一部も割れており、そこから入り込む風が薄い布を揺らしていた。
ただ、血の匂いは薄い。
「誰かいるのか?」
玲が呼びかけるが返事はない。その代わり、奥から小さな音がした。
衣擦れ。押し殺した呼吸。
玲が机の奥を覗く。
「……!」
そこには若い女がいた。玲たちの姿を見るなり女は怯えたように肩を震わせる。
「大丈夫」
椎名が先に声をかけた。
武器へ伸ばしかけていた手を下ろす。
「悪魔じゃないわ」
女の視線が、玲と椎名の武器を何度も行き来する。
「……騎士?」
「違う」
玲が答える。
「でも、助けに来た」
その言葉に、女の表情が僅かに崩れた。張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだようだった。
「悪魔は?」
椎名が尋ねる。
「……いなくなった」
「いつ?」
「少し前……」
「どっちへ?」
女は震える指で北を指した。
玲と椎名は一瞬だけ顔を見合わせる。
また北だった。
「何体いたの?」
「一体……」
椎名の表情が変わった。
「一体で、これだけ?」
女は小さく頷いた。
「何があった?」
玲が尋ねるが、女はすぐには答えなかった。
何度か息を整えてから掠れた声で話し始める。
「家に……入ってきて……」
そこで言葉が止まる。
「夫が、私たちを逃がして……」
女は唇を噛んだ。
「夫?」
「広場の方へ……悪魔を引きつけて……」
女は震える手を握りしめる。
「お願い……探して」
玲は迷わず立ち上がった。
「分かった」
広場まではそれほど遠くなかった。けれど近づくほど、血の匂いが濃くなる。
玲の足取りが自然と遅くなった。
悪魔はもういない。
それでも、これから見るものを身体のどこかが拒んでいる。
建物の角を曲がる。そこには何人もの人間が倒れていた。
「…………」
玲は何も言わなかった。
一人ずつ顔を見る。
男。
女。
老人。
若者。
その中にさっきの女の夫がいるかもしれない。
だが、玲は顔を知らない。
「分からないわね」
椎名も同じことを考えたらしい。
玲はしばらく遺体を見つめたあと、立ち上がった。
「一回戻る」
「家に?」
「うん」
女のいる家へ戻る。玲たちが扉を開けると、女はすぐに顔を上げた。
「夫は……?」
その言葉に玲は一瞬答えを失った。
「まだ分からない」
「…………」
「旦那さんって、どんな人?」
女の表情が止まった。
「髪とか、服とか。特徴が分かれば探せる」
「…………」
女は困ったように首を傾げた。
「旦那……?」
玲が目を見開く。
「え?」
「誰のことですか?」
椎名も動かなくなった。
さっきまで、確かにこの女は夫を探してくれと言った。
「夫だよ」
玲の声が低くなる。
「さっき、広場に行ったって」
「……私が?」
「言っただろ」
女は本当に分からない顔をしている。
玲は部屋を見回した。壁には男物の上着。入口には大きな靴。棚には大人用の食器が二人分。
明らかにここにはもう一人、誰かが暮らしていた。
「あれ」
玲が上着を指差す。
「誰の?」
女もそちらを見る。
「……分かりません」
玲の背中を冷たい感覚が走った。
玲の脳裏に、突然別の場所が蘇る。
「椎名」
玲が立ち上がる。
「戻る」
椎名ももう何も聞かなかった。
広場へ戻り、今度は顔ではなく匂いを探した。
さっきの家に残っていた生活の匂い。人が長く暮らした場所には、その人間の匂いが染みついている。
「……いた」
玲は一人の男の前で膝をついた。胸には大きな傷。集落へ入った直後に見つけた男だった。
「この人?」
椎名が尋ねる。
「たぶん」
「どうして分かるの?」
「家の匂いと近い」
椎名が静かに息を吐く。
「魂を喰べられた……?」
玲は頷いた。
悪魔に魂を喰われた人間は、周囲の人間の記憶から少しずつ失われていく。
身体は残る。服も。家も。一緒に使っていた物も。全部残るのに。
その人だけが、誰かの中から消えていく。
「じゃあ」
椎名が周囲を見る。
「他の人たちも?」
「分かんねえ」
玲は首を振った。
全員かもしれない。
一部だけかもしれない。
悪魔が誰の魂を喰べたのか。
なぜこの家族を選んだのか。
何も分からない。
ただ、女は夫を忘れた。
そして悪魔はそのまま北へと向かって行った。
「……一人になったね」
椎名が小さく呟いた。
玲が顔を上げる。
昨日騎士から聞いた言葉だった。
『もう守ってくれる人はいない』
『これで同じだ』
「……同じ?」
玲が聞く。
「分からない」
椎名は広場を見る。
一人を殺し、もう一人を残す。
ただ命を奪うのではない。
誰かと誰かの間にあったものを、わざわざ壊している。
「偶然じゃないと思う」
椎名の声は低かった。
玲もそう思った。
「戻ろう」
「リュネに?」
「うん」
玲は北を見る。
「このこと、騎士にも話す」
玲は最後に一度だけ死んだ男を振り返った。
もう妻には名前を呼ばれない。
それでもこの人は確かにここにいた。
玲はそのことだけは忘れないでおこうと思った。




