第15話:北へ
翌朝。
街の北門を抜けると、景色はすぐに変わった。
石造りの建物が並ぶ街並みは遠ざかり、代わりに背の低い草原と緩やかな丘が広がっていく。街道は北へ向かって伸び、その先は朝靄に霞んで見えなかった。
玲は歩きながら、右手を何度も握ったり開いたりしていた。
昨日、小夜から渡された黒い手袋。革一枚を挟んでいるだけなのに妙に気になってしまう。
「さっきから何してんのよ」
「慣れねえ」
玲は手袋を引っ張った。
「外せば?」
「駄目だ」
「なんで?」
「小夜がつけろって言ったから」
少し前を歩いていた椎名が振り返った。
「ああ、美人!」
「覚え方おかしくねえ?」
椎名にとっては、それで十分らしい。
今朝になっても傷は完全には癒えておらず、椎名の腹にはまだ包帯が巻かれている。それでも本人は宿に残る気など最初からなかったらしい。
「そういえば結局会わせてもらってないんだけど」
「会わせるなんて言ってねえよ」
「帰ったら会わせなさいよ」
「嫌だ」
「なんでよ」
また始まった、とでも言いたげにかぐやが二人の間を抜けて先へ進んでいく。
玲もそれ以上は相手にせず、街道の先へ視線を戻した。
北へ向かう悪魔。
あの村を襲った二体が、本当にこの先にいるのかは分からない。
それでも、何かはある。玲はそう思っていた。
昼を過ぎた頃。
三人は街道から外れた森の中を進んでいた。
近くの集落で悪魔が目撃されたのは昨夜。
人が襲われたという話はなかったが、北へ向かう姿を見た者がいるらしい。
椎名は木の幹に残された傷を指でなぞった。
「こっちね」
「分かんの?」
「枝が折れてる。それに足跡もあるでしょ」
柔らかい土に、いくつかの跡が残っている。
玲もしゃがみ込み鼻を動かす。
「いる」
「近い?」
「そんな遠くねえ」
玲は立ち上がった。
森の奥へ顔を向ける。覚えのない匂いだった。
少なくとも、あの村にいた二体ではない。
「行くぞ」
「待ちなさい」
歩き出そうとした玲の服を、椎名が掴んだ。
「なんだよ」
「突っ込まない」
「まだ突っ込んでねえだろ」
「今から突っ込む顔してた」
玲は口を閉じた。
以前なら、そのまま走っていたかもしれない。けれど、数日前のことはまだ鮮明に覚えている。
何度斬りかかっても届かなかった。
何度立ち上がっても倒された。
「……分かった」
その返事に、今度は椎名が少し意外そうな顔をした。
「何だよ」
「別に」
三人は速度を落とした。
木々の隙間を縫いながら、音を立てないように進んでいく。
やがて。
かぐやが足を止めた。
玲も同時に止まる。
前方。
木々の向こうに、人影があった。
一人。
男のように見える。
背丈も服装も、人間と大きくは変わらない。
ただ、額から伸びる短い角と、首筋を這う黒い筋だけが違っていた。
「……悪魔」
玲が小さく呟く。
悪魔はまだこちらに気づいていない。
何かを探すように周囲を見回している。
玲の右手が剣の柄へ伸びた。
「どうする?」
椎名が小声で尋ねる。
「話す」
「は?」
玲は茂みから出た。
「おい!」
「ちょっと!」
悪魔が振り返る。
玲と目が合った。
「…………人間」
「聞きたいことがある」
椎名が遅れて玲の横へ出てくる。
「結局突っ込んでるじゃない……」
「走ってねえぞ」
「そういう問題じゃない」
悪魔の目が二人を順に見る。
「魔女、知ってる?」
玲の表情が変わった。
「お前も探してんのか」
「知ってる?」
「知らねえ」
「じゃあ、いらない」
悪魔が背を向ける。
「待て」
玲が呼び止めた。
「あの村を襲った奴ら、知ってるか?」
「村?」
「魔女探して、人間いっぱい殺した奴」
悪魔は少し考えるように首を傾げた。
「知らない」
「じゃあ、なんでみんな北に行ってんだ?」
今度は反応があった。
僅かに悪魔の視線が北へ向く。
「呼ばれた」
「誰に?」
答えない。
「誰に呼ばれたんだよ」
「…………」
悪魔の身体が沈んだ。
「玲!」
椎名の声。
玲は反射的に横へ跳んだ。直後、さっきまで立っていた場所を悪魔の腕が薙ぐ。
玲は地面へ手をつき、そのまま立ち上がった。
「いきなり殴んなよ!」
「人間、うるさい」
「聞いてるだけだろ!」
「だからうるさい」
悪魔が再び地面を蹴った。
玲も動く。右手で柄を握り、黒い長剣を引き抜いた。
以前なら、ここで身体中へ一気に力を流していた。
けれど今は違う。
必要なところだけ。
玲は脚へ意識を向けた。
踏み込む。
眼前へ悪魔の拳が迫る。
その直前、玲の身体が横へずれた。
拳が頬のすぐ横を通り過ぎる。
「――っ!」
玲はそのまま剣を振った。
刃が悪魔の腕を浅く裂く。
「……お」
当たった。
ほんの少し。
それでも。
「当たった!」
「喜んでる場合!?」
椎名の声と同時に、悪魔の蹴りが飛んでくる。
玲は剣を立てて受けた。
衝撃で数歩下がる。
だが、倒れない。
「……よし」
足が地面についている。
身体も持っていかれていない。
自分で止まれた。
悪魔が再び迫る。
玲は剣を握り直した。
速い。
けれど、見える。
数日前とは違う。
拳を避け、剣を振るがかわされる。
深追いはせず、冷静に次の攻撃を見る。
小夜に何度も言われたことを思い出す。
全部に力を使わない。
必要なときに。
必要な場所へ。
玲が攻撃を避けた瞬間。
金属音が森に響いた。
椎名の短剣が飛ぶ。
悪魔が身体を捻ってかわすが、短剣はその横を通り過ぎて終わらない。
鎖が伸びていた。
椎名が腕を引くと、鎖が悪魔の足へ絡みついた。
「今!」
「おう!」
玲が地面を蹴った。
脚へ。次に腕へ。
一度に全部ではなく、順番に。
踏み込みの勢いを剣へ乗せる。
黒い刃が走った。
悪魔の身体が大きく揺れる。
「ぐっ……!」
それでも倒れない。
悪魔が玲へ手を伸ばした。
玲は咄嗟に距離を取る。
追ってこない。
悪魔は膝をついていた。
「……人間」
低い声。
椎名が鎖を引き、短剣を手元へ戻す。
玲は剣を構えたまま近づかなかった。
「誰に呼ばれた?」
「…………」
「北に何がある」
悪魔は顔を上げる。
「知らない」
「じゃあなんで行くんだよ」
「行けって……言われた」
「誰に?」
悪魔の口が動く。
「……あの方」
「あの方?」
それ以上は続かなかった。
悪魔の身体から力が抜け、動かなくなる。
玲はしばらく剣を構えたままその姿を見つめていた。
……やがてゆっくりと刃を下ろす。
「あの方って誰だ?」
「私に聞かないでよ」
椎名は短剣についた血を払う。
「少なくとも、悪魔を集めてる奴がいるってことじゃない?」
「そいつがボスとか?」
「さあ」
椎名はそう答えたものの、その顔から先ほどまでの軽さは消えていた。
悪魔が集まっている。
誰かに呼ばれて。
同じ方向へ。
偶然とは思えない。
「北へ行けば分かるかな」
「……ほかに方法はないもんね」
「じゃあ行こうぜ」
玲は歩き出しかける。
「待ちなさい」
「今度は何だよ」
「休憩」
「まだ動けるぞ」
「あんたじゃなくて私が怪我人なの」
以前と変わらない動きをしていたせいで、玲は椎名がまだ怪我人だということをすっかり忘れていた。
「忘れてたでしょ」
「ちょっと」
「絶対忘れてた」
椎名は近くの木へ背を預けた。
玲も仕方なく腰を下ろすと、かぐやがその隣へ来た。
「しかし」
かぐやは玲を見る。
「少しはまともになったの」
「だろ?」
「前なら三回は吹き飛ばされておった」
「そんな吹き飛ばされてねえよ」
「もっとじゃったか?」
椎名とかぐやが顔を見合わせて笑う。
玲は不満そうにしながら、自分の右手を見た。
黒い手袋。
その下にある紋章。
小夜との特訓がなければ、今のようには戦えなかった。
そこでふと、昨日の小夜の姿が頭に浮かんだ。
夕日の中。今にも消えてしまいそうに見えた。
『先のことなんて分からないでしょう?』と、その言葉が頭の中を反芻する。
「…………」
「何?」
椎名が尋ねる。
「なんでもねえ」
玲は木の幹へ背を預けた。
北へ続く森の先を見る。
まだ遠い。
けれど確実に、何かへ近づいていた。




