第14話:印
あれから数日が経った。
玲は毎朝、日が昇る頃には街の裏門を抜け森へ向かっていた。獣に追い回され、地面を転がり、小夜にも何度か戦いを挑んだ。一度として勝てなかったが、少しずつ紋章の力を扱えるようにはなっていた。
走ろうとして壁に突っ込むことも、剣を振った勢いに身体ごと持っていかれることも、今ではほとんどない。もっとも、小夜には未だ剣先すら届いていなかったが。
「今日は来なくていいって言われたんだよな」
街を歩きながら玲が呟く。
「毎日朝から晩まで押しかければ当然じゃろう」
隣を歩くかぐやが呆れたように返す。
今日は森ではなく、酒場へ向かっていた。
数日前から椎名はそこで傷の治療を受けている。玲も決して軽傷ではなかったが、今では普通に動ける程度まで回復していた。
一方、椎名は最初の悪魔との戦いで負った傷が治りきらないうちに、魔女を探していた悪魔にも叩きのめされている。未だ安静にするよう言われ、酒場の一室を借りていた。
玲が扉へ手を伸ばした。すると。
「ふざけないでよ!」
中から椎名の声が響く。
玲とかぐやは顔を見合わせた。
「元気そうじゃな」
「元気だな」
扉を開けると、昼前の酒場。そのカウンターで椎名が男に詰め寄っていた。どうやら報酬を巡って揉めているらしい。
悪魔を倒していない以上、報酬は出ない。そのうえ治療費まで自腹だと告げられた椎名は、今にも男へ掴みかかりそうな顔をしていた。
「椎名」
振り返った椎名は、玲を見るなり眉間に皺を寄せた。
「……何よ」
「元気になったな」
「どこを見てそう思ったのよ!」
その声量に、玲はやはり元気そうだと思った。
椎名は不満そうに椅子へ座ると、深く息を吐いた。それから玲がこの数日どこにいたのかを尋ねる。
「森。小夜に特訓してもらってた」
「小夜?」
「白い髪の女。綺麗な奴」
その瞬間。椎名の目つきが変わった。
「……綺麗?」
先ほどまで報酬を失ったことに絶望していた人間とは思えない。椅子ごと玲へ向き直り、白髪は長いのか、可愛い系なのか美人系なのか、年上なのか、背は高いのかと次々尋ねてくる。
玲は若干引きながら答えた。
長い白髪。
黄色い目。
大人で美人。
背も高い。
それだけ聞くと、椎名は真剣な顔で頷いた。
「お願い、その人に会わせて」
「嫌だ」
「なんでよ!」
即答だった。
玲は小夜が嫌がりそうだからと答えたが、椎名は納得しない。
仕方なく話を逸らすように、玲はこの数日で紋章の力を少し扱えるようになったこと、小夜と何度戦っても一瞬で負けることを話した。
「素手で?」
「うん」
「へえ。強いのね」
それだけだった。そしてすぐに椎名は話を戻そうとする。
「だから今度――」
「絶対会わせねえ」
「まだ何も言ってないでしょ!」
かぐやは少し離れた場所で、呆れたように伏せていた。
そのとき、カウンターの向こうから騎士の声が飛んできた。
「お前ら、数日前に村で悪魔に遭ったんだろ」
騎士は傍らに地図を広げた。
あの二体と似た悪魔が、別の集落でも目撃されているらしい。
ここ数日だけで三件。どれも魔女を探している。
地図には目撃された場所が印されていた。
一つ。
そこから少し離れた場所に、もう一つ。
さらに北へ、もう一つ。
ばらばらに見えた点は、少しずつ同じ方向へ寄っている。
「悪魔が北へ集まってるように見える」
「……あいつらもいる?」
「分からん。可能性はある」
玲は地図を見つめた。
「じゃあ行く」
「玲」
椎名が低い声で呼んだ。
数日前、自分たちが何をされたのか忘れたわけではない。玲もそれは同じだった。
「覚えてる」
右手を握る。
「勝てるかは分かんねえ。でも、次も何もできないまま終わるのは嫌だ」
椎名はしばらく玲を見ていた。
今も無茶なのは変わらない。ただ、自分が弱いことだけは知ったらしい。
やがて椎名は小さく息を吐いた。
「……私も行く」
「怪我は?」
「だいぶ治ったわよ。それに今度こそ稼がないと、治療費すら払えないもの」
「やっぱ金か」
「当たり前でしょ」
椎名はそう言い切った。
その日の夕方。
玲は一人で小夜の泊まる宿を訪れた。
明日からしばらく特訓には来られない。それを伝えるだけのつもりだった。
宿へ入ると、ちょうど小夜が二階から降りてくるところだった。
小夜は玲を見つけると少しだけ目を大きくする。
「今日は休みって言ったでしょう?」
「特訓じゃねえよ」
玲は明日から北へ向かうことを話した。
魔女を探している悪魔が、少しずつ同じ方向へ集まっていること。あの村を襲った二体もその中にいるかもしれないこと。
小夜は階段の途中で足を止め、黙って聞いていた。
「それで、行くの?」
「うん」
「勝てる?」
玲は少し考えた。
「分かんねえ」
以前なら、迷わず勝つと答えていた。
けれど今は自分より遥かに強いものがいることを知っている。
「でも、前よりは戦える。それにまた村が襲われるかもしれねえだろ」
「そう」
小夜はそれ以上何も言わなかった。
いつもの小夜だった。
止めもしない。背中を押しもしない。ただ、玲が決めたことをそのまま受け入れる。
「帰ってきたら、また特訓な」
「勝手に決めないで」
そう言いながらも、嫌だとは言わなかった。
玲はそれを了承だと勝手に受け取った。
「じゃあな」
玲が出口へ向かう。
「玲」
振り返ると黒いものが飛んでくる。
玲は両手で受け止めた。ゆっくりとその手を開くと、そこには革でできた丈夫そうな手袋があった。
「……手袋?」
「右手につけて」
小夜の視線が、玲の紋章へ落ちる。
「それ、あまり人に見せない方がいいわ」
「なんで?」
「面倒なことになるかもしれないから」
玲は黒い手袋を見る。
小夜は明らかに何かを知っている。けれど、尋ねても返ってきたのは「秘密」だけだった。
いつものことだ。
玲は諦めて右手へ手袋をはめる。
黒い紋章が見えなくなった。
「なくさないでね」
「分かった」
玲は手を握って感触を確かめた。
少し慣れない。それでも外すことはしなかった。
「小夜」
「何?」
「明日から行くから」
「さっき聞いたわ」
「そうじゃなくて……」
玲は口を閉じた。自分でも、何を言おうとしたのか分からなかった。
階段の途中に立つ小夜の背後から、夕日が差し込んでいる。白い髪の輪郭が淡く光っていた。
いつもと同じ黒い外套。
いつもと同じ顔。
ほんの数日前に知り合ったばかりの女。
それなのに。
玲は妙な感じがした。
目を離したら、いなくなってしまいそうだった。
明日ここへ来ても。
森へ行っても。
もうどこにもいないような。
理由は分からない。嫌な匂いがするわけでもない。
むしろ、小夜からそんなものを感じたことは一度もなかった。
それなのに今だけは、夕日の中に立つその姿がひどく遠く見えた。
「……帰ってきたら、いるよな?」
小夜の睫毛が僅かに揺れる。
「何が?」
「小夜」
「…………」
「また特訓するんだろ?」
少しの間。
小夜は何も答えなかった。
窓から吹き込んだ風が、白い髪を揺らす。
やがて、小夜は微笑んだ。
「さあ」
「なんだよ、それ」
「先のことなんて分からないでしょう?」
玲は眉を寄せた。
「分かるだろ。数日くらい」
「どうかしら」
冗談なのか、本気なのか分からない。
小夜はいつもそうだった。
何かを聞いても、肝心なところだけするりと逃げていく。
玲は少し考えてから、小夜を指差した。
「じゃあ、勝手にいなくなるなよ」
「…………」
「俺、まだ一回も勝ってねえんだから」
小夜は玲を見つめていた。
その黄色い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。
「……変な理由」
「いいだろ、別に」
「そうね」
小夜は小さく手を振った。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「おう」
玲は今度こそ扉へ向かう。外へ出る直前、もう一度だけ振り返った。
小夜はまだ、階段の途中に立っていた。
夕日に照らされた白い髪。
こちらを見ている黄色い瞳。
ちゃんとそこにいる。
玲はそれを確認してから、宿を出た。
それでも。
胸に残った妙な感覚だけは、なかなか消えなかった。
*
扉が閉まると、玲の足音が遠ざかっていった。
小夜はしばらくその場から動かなかった。
「随分、面倒見がいいんだな」
二階から低い声が落ちてくる。十悟が階段の上に立っていた。
「いたの?」
「悪かったな」
階段を降りてきた十悟は、閉じた扉を一度だけ見る。
「何日も特訓に付き合って、今度は手袋までくれてやるのか」
「欲しかった?」
「いらねえよ」
返事が妙に早かった。
小夜がくすくすと笑う。
「何がおかしい」
「別に」
「……楽しそうだな」
十悟は面白くなさそうに顔を逸らした。
小夜はそれ以上触れず、「それで?」と話を変えた。
十悟が懐から地図を取り出す。
北側で増えている悪魔の目撃情報。その印は、玲が聞いたものと同じように一つの方向へ寄り始めていた。
「レヴィアタンの縄張りに近づいてる」
「本人は?」
「まだだ」
小夜は地図へ視線を落とす。
レヴィアタンが奪った塔への地図。上へ進むためにも、取り戻さなければならない。
「行くか?」
「ええ。明日の朝出ましょう」
十悟は頷きかけ、ふと止まった。
「……あいつらも明日だったな」
「そうみたいね」
「一緒に行くつもりじゃねえだろうな」
小夜が顔を上げる。
「どうして?」
「…………別に」
「さっきからそればかりね」
「うるせえ」
小夜は困ったように眉を下げる。
十悟はますます面白くなさそうに顔を逸らした。
「私たちはレヴィアタンを探す。それだけよ」
「分かってる」
十悟はそう言って階段を上っていく。
小夜はその背中を見送り、それから手元の地図へ視線を落とした。
北へ続く、いくつもの痕跡。
その印はレヴィアタンへと向かっている。
明日の朝、玲たちは北へ向かう。
そして小夜と十悟もまた、別の目的を抱えたまま北を目指そうとしていた。




