第13話:実力
午後になっても、森の中には玲の声が響いていた。
「よし!」
突進してきた獣を、玲はぎりぎりまで引きつける。右手の紋章が熱を持った。
全部じゃない。必要なところだけ。踏み込む直前、脚へ意識を集中させる。
地面を蹴ると身体が横へ滑るように動く。
獣の角が目の前を通り過ぎた。
「——今!」
すれ違いざまに身体を捻る。玲は獣の横腹へ手を当てると、その勢いを利用するように押し出した。
巨体が僅かによろめく。そのまま数歩走った獣は足を止め、振り返った。
「…………」
「…………」
玲と獣の視線がぶつかる。
「来い!」
玲が身構えると、獣は鼻息を鳴らした。もう一度前脚で地面を掻き——。
「…………」
すると獣は玲から顔を逸らした。
「あ?」
そのまま森の奥へ歩いていく。
「おい!」
獣は振り返らない。
「なんで帰るんだよ! 今いいところだっただろ!」
「嫌われたんじゃろ」
離れた場所で伏せていたかぐやが言った。
「なんでだよ!」
「あれだけ朝から追い回しておれば、獣の方も疲れるじゃろう」
「追い回されてたの俺だぞ!」
「途中から楽しんでおったではないか」
玲は不満そうに剣を肩へ担いだ。
その様子を小夜は木陰から眺めていた。いつの間にか本は閉じられている。
「朝よりは良くなったわね」
「だろ?」
玲がすぐに笑う。
「もう普通に動けるぞ」
「普通、ね」
「なんだよ」
「別に」
小夜は木から背を離した。
「今日はここまでにしましょう」
「え?」
玲が目を丸くする。
「もう終わり?」
「朝からやってるでしょう」
「まだできるぞ」
「身体を休ませるのも特訓よ」
「でも俺、まだ——」
言いかけて、玲が小夜を見つめる。
「……なあ、小夜」
「嫌よ」
「まだ何も言ってねえ!」
「その顔をしてるときのあなた、ろくなことを言わなさそうだから」
「なんだよ、その顔って」
玲は自分の頬を触った。
「普通だぞ」
「そう」
「なあ」
「何?」
「俺と戦ってくれよ」
「嫌」
「早えよ!」
玲の声が森に響く。
かぐやが大きな欠伸をした。
「やはりろくなことではなかったの」
「教えてくれてんだから、小夜がどれくらい強いのか気になるだろ」
玲は小夜へ向き直った。
「一回だけ!」
「嫌よ」
「なんで?」
「面倒だから」
小夜は踵を返し、森の出口へと向かおうとする。
「すぐ終わるかもしれねえだろ」
「そうね」
「だろ?」
「すぐ終わるでしょうね」
小夜はさらりと言った。
玲の眉が動く。
「……それ、俺が負けるって言ってる?」
「他に聞こえた?」
「…………」
玲は剣の柄を握った。
「やる」
「嫌」
「絶対やる」
「私はやらないわよ」
「逃げんのか?」
小夜の足が止まった。
ただならぬ気配を察し、かぐやがびくりと顔を上げる。
「玲」
「なんだよ」
「おぬし、今ものすごく馬鹿なことを言った気がするぞ」
小夜が振り返った。
「……いいわ」
「お!」
「一回だけよ」
玲の顔が明るくなる。
「よし!」
「ただし」
小夜は玲の剣を見る。
「本気で来て」
「いいのか? 怪我しても知らねえぞ」
「心配してくれてありがとう」
「俺結構強くなったからな」
「そうね」
小夜は森の少し開けた場所へ歩いていった。
玲も後を追うが、かぐやだけは動かなかった。
玲は開けた場所の中央で足を止める。
その正面。
少し離れた場所に、小夜が立っている。
黒い外套。フードは被っていない。
長い白髪が風に揺れていた。
「…………」
玲は小夜を見る。
「武器は?」
「使わないわ」
「持ってねえの?」
「さあ」
「なんだよ、それ」
小夜は何も構えなかった。
ただ立っている。両腕も自然に下ろしたままだ。
「それでいいのか?」
「ええ」
「後悔すんなよ」
「しないわ」
玲は剣を構えた。
朝とは違う。今なら少しだけ分かる。
どこへ力を使えばいいのか。どう動けば、身体に振り回されないのか。
右手の紋章が熱を持つ。玲は息を吐いた。
「行くぞ」
「どうぞ」
地面を蹴った。脚へ力を集中させる。
朝までとは違う、制御された踏み込み。
一気に小夜との距離が縮まった。
「――っ!」
玲が剣を振る。
その瞬間。
「え?」
空が見えた。
「…………」
何が起きたのか分からなかった。
背中に地面の感触がある。木々の向こうに、青い空が広がっていた。
右手には剣。
紋章も消えていない。
それなのに。
「……あれ?」
玲は瞬きをした。
顔を横へ向けると小夜がいた。
さっきとほとんど同じ場所に立っている。
黒い外套が風に揺れていた。
「終わり」
「は?」
「一回だけって約束でしょう?」
「ちょ、待て!」
玲が勢いよく起き上がる。
「今の何!?」
「何って?」
「何した!?」
「教えない」
玲は自分の身体を見る。
痛くない。怪我もしていない。
ただ、いつの間にか地面へ転がされていた。
「もう一回!」
「嫌」
「何されたか分かんなかったから!」
「だから負けたんでしょう?」
玲が言葉に詰まる。
小夜は何事もなかったように髪を耳へ掛けた。
「相手が何をしたか分からないまま倒された。それが今のあなたの実力よ」
「…………」
「悪魔は待ってくれないでしょう?」
玲は黙った。数日前の光景が、一瞬だけ頭を過ぎる。
あの悪魔もそうだった。見えなかった。気づいたときには殴られ、地面へ転がされていた。
「……もう一回」
「駄目」
「なんでだよ」
「今やっても同じだから」
小夜は玲の右手を見る。
「力に慣れてきたからって、すぐに強くなったと思わないことね」
「…………」
「あなたは今までより速く動けるようになった。力も強くなった。武器も使えるようになった」
小夜が一歩近づく。
「でも、それだけ」
「それだけって……」
「強い相手は、あなたより速いかもしれない。あなたより力が強いかもしれない。あなたの知らない戦い方をするかもしれない」
玲は黙って聞いていた。
「だから、自分ができることを増やすの」
「できること……」
「力を扱えるようになったのなら、次は使い方を覚える」
小夜は玲の剣を指差した。
「その武器も同じ」
「これ?」
「今のあなたはただ振ってるだけでしょう?」
「…………」
「当たらなければ、どれだけ強くても意味がないわ」
玲は黒い剣を見る。
思い当たることしかなかった。
数日前。何度振っても悪魔には届かなかった。
「……じゃあ、どうすれば当たる?」
「全部教えてもらえると思ってるの?」
「先生だろ?」
「いつから?」
「昨日から」
「初耳ね」
小夜は小さく息を吐いた。
その様子を見ていたかぐやが、のそのそと立ち上がる。
「終わったか?」
玲は小夜を見る。
小夜はもう背を向けていた。元いた木の方へ戻ると、根元に置いていた本を拾い上げた。
かぐやがその隣へ歩いていく。
「……強いのじゃな」
小さな声だった。
小夜は本についた土を指先で払う。
「どうかしら」
「玲がああなるところは初めて見たぞ」
「そう」
それだけ答えて、小夜は再び歩き出す。
「小夜!」
玲が追いついてくる。
「俺、明日までにもっと使えるようになるからな!」
「そう」
「そしたらもう一回!」
「考えておくわ」
その隣で、かぐやが玲を呆れたように見上げている。
「おぬし、懲りんのう」
「次は勝つ」
玲は剣を握り直した。
「よし! あいつ探してくる!」
「今日は終わりだと言ったでしょう」
「ちょっとだけ!」
「駄目」
「なんで!」
コツン、と小夜は持っていた本で玲の頭を軽く叩く。
「休むのも特訓よ」
「俺はまだ動ける!」
「明日動けなくなったら?」
玲は考えた。
「明日考える」
「駄目ね」
「なんでだよ!」
森の中に、また玲の声が響く。
小夜は小さく笑うと、今度こそ街へ向かって歩き始めた。




