第12話:特訓
「小夜ぉぉぉぉ!」
森の中に玲の叫び声が響き渡った。
木々の間を一頭の獣が駆け抜けていく。猪に似た四足の獣だった。ただし、玲が知っている猪より遥かに大きい。黒褐色の毛に覆われた巨体が木々の隙間を縫い、土を蹴り上げながら一直線に玲を追いかけている。
「こいつ全然止まんねえんだけど!」
玲は走っていた。逃げていた。それも全力で。
「聞いてんのか!?」
少し離れた木の下。
小夜は幹に背を預け、本を読んでいた。
「さっき教えたでしょう?」
「お前絶対楽しんでるだろ!」
「できるまで頑張って」
小夜がページをめくる。その足元では、かぐやが前脚の上へ顎を乗せて伏せていた。視線だけが森の奥を右から左へ移動する。
玲が走り抜け、少し遅れて獣が通り過ぎる。かぐやの視線も左へ。しばらくすると、また右から玲が現れた。
「なんでまたこっち来るんだよ!」
その後ろを獣が追っていく。
かぐやは小さく息を吐いた。
「……あやつは何をしておるのじゃ」
「特訓」
「わしには追いかけっこにしか見えん」
「今のところはそうね」
「小夜ぉぉぉ!」
遠くから声が聞こえるが、小夜は本から目を離さなかった。
「元気ね」
「昨日まで死にかけておった奴とは思えんな」
「いいことじゃない」
「限度というものがあるじゃろう」
また玲が走っていく。
「かぐや! 見てねえで助けろ!」
「自分で何とかせい」
「薄情者!」
玲の姿が木々の向こうへ消える。
かぐやは鼻を鳴らした。
「まったく……」
「仲がいいのね」
「どこを見たらそう思う」
「ずっと一緒にいるでしょう?」
「腐れ縁というやつじゃ」
小夜がページをめくる。
かぐやはちらりと彼女を見上げた。
「おぬし、随分と落ち着いておるな」
「そう?」
「あやつがあれだけ騒いでおるのじゃぞ」
「危なくなったら止めるわ」
疑わしそうなかぐやに、小夜は本から目を離さないまま小さく笑った。
「おぬし、意外と性格が悪いな」
「よく言われるわ」
「そうか? 昨日あやつに『いい奴』と言われておったではないか」
ページをめくろうとしていた小夜の指が止まった。
「……聞いてたの?」
「少しな」
「そう」
小夜は再び本へ視線を落とした。
その横顔をかぐやがじっと見上げる。
「嬉しかったのか?」
「どうして?」
「顔が少し――」
「かぐやぁぁぁ!」
木々の奥から玲の声が響いた。
直後。
「うおおおおおっ!?」
どさっ、と大きな音がした。鳥たちが一斉に枝から飛び立つ。
小夜とかぐやは音のした方向を見る。
「今のは助けた方がよいのではないか?」
「まだ大丈夫」
「本当か?」
「たぶん」
しばらくして。
「……いてえ」
茂みを掻き分け、玲が戻ってきた。
服には土と葉が付き、髪には細い枝が絡まっている。手には黒い長剣が握られていた。
「全然できねえ」
「でしょうね」
「なんでだよ!」
玲は小夜の前まで来る。
「言われた通りやってるぞ!」
「やってないからできないのよ」
玲は不満そうに剣を持ち上げる。
「身体に力を流せって言っただろ?」
「ええ」
「やってる」
「全部にね」
「駄目なのか?」
小夜は本を閉じた。
ようやく木から背を離す。
「あなたは今、紋章の力を身体中に流してる」
「うん」
「走るときも、剣を振るときも、避けるときも。ずっと全力」
「強い方がいいだろ」
「だから振り回されるのよ」
玲が眉を寄せた。
小夜は玲の持つ長剣を見る。
「走るだけなら、腕にまで同じだけの力はいらないでしょう?」
「あ」
「剣を振る瞬間に、脚へ全力を流し続ける必要もない」
「…………」
「必要な場所に、必要な分だけ」
小夜は自分の腕を軽く持ち上げる。
「力を使う場所を選ぶの」
「選ぶ……」
「全部を一度に強くしようとするから、身体が力についていけなくなる」
玲は自分の右手を見る。
そこには黒い紋章が刻まれている。
「さっきも言ったでしょう?」
「聞いた」
「理解してなかったのね」
玲は唸りながら剣を見た。
「どうやったら分けられるんだ?」
「感覚」
「それが分かんねえ」
「だから練習してるんでしょう?」
玲が口を尖らせる。
小夜は再び木へ背を預けた。
「ほら。もう一回」
「またあいつと!?」
森の奥を見る。獣が離れた場所からこちらを睨んでいる。
「殺す必要はないわ」
「倒さなくていいのか?」
「今日の目的はそこじゃないもの」
「じゃあ何を——」
「一度も吹き飛ばされずに、私のところまで戻ってきて」
獣は地面を前脚で掻き、今にも突進してきそうだった。
「……それだけ?」
「剣も使わない」
「は?」
小夜が玲の長剣を指差す。
「置いていって」
「……あいつめちゃくちゃでかいぞ」
「知ってるわ」
「角もある」
「避ければいいでしょう?」
玲が騒いでいる間に、獣が地面を蹴った。
「あ」
巨体が迫る。
「うおっ!」
玲は横へ飛んだ。勢い余って、そのまま地面を転がる。
「今の」
小夜が言った。
「脚に力を入れすぎ」
「今ので分かんの!?」
「ほら、来るわよ」
「——うわっ!」
玲が再び走り出す。
かぐやはその背中を見送った。
「……本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫よ」
「随分と信用しておるのじゃな」
小夜は答えなかった。
再び本を開く。
けれど、視線は文字ではなく、時折玲へ向けられていた。
*
何度目か分からなくなった。
「ぐあっ!」
玲の身体が地面を転がる。
「また!」
すぐに起き上がる。
獣が振り向く。
玲は構えた。
「全部じゃない……」
右手の紋章が熱を持つ。
「必要なところだけ……」
獣が突進する。
今までなら、玲は全身へ一気に力を巡らせていた。
速く。強く。とにかく全部。
だから身体が自分の想像以上に動き、止まれなくなる。
今度は違う。
玲は脚へ意識を向けた。
「ここ!」
地面を蹴る。
「うおっ!?」
また飛びすぎた。木の幹が迫る。
「やべ——」
咄嗟に身体を捻ると、肩から地面へ落ち転がった。
獣がその横を通過する。
「……今の」
玲が起き上がる。
少し違った。
飛びすぎた。けれど、さっきまでとは違う。
自分で動かした感覚があった。
「もう一回!」
獣へ向き直る。
今度は、ほんの少しだけ。
必要な分だけ、地面を蹴る。
身体が横へずれた。
獣の角が、玲の服すれすれを通過する。
「……お」
玲の目が輝く。
「できた!」
「前」
遠くから小夜の声。
「え?」
木があった。
「ぐえっ!」
正面から激突する。かぐやが前脚で顔を覆った。
「馬鹿者……」
小夜は口元を僅かに緩めていた。
やがて、太陽が高く昇る頃。
玲は仰向けになって地面へ転がっていた。
「もう無理……」
「まだ午前中よ」
「嘘だろ……三日くらいやった気がする」
身体中が痛い。それでも、朝とは明らかに違っていた。
最後の数回は、獣の突進をまともに受けていない。まだ思った場所へ正確に動けるわけではない。それでも、最初のように力に身体を引っ張られることは減っていた。
「なあ」
玲は小夜を見る。
「次、剣使っていい?」
「駄目」
「なんで!」
「まだできてないから」
「できただろ!」
「十回に一回くらいね」
玲は反論できなかった。
小夜は本を閉じる。
「でも」
立ち上がった。
「思っていたより早いわね」
「だろ?」
玲が得意げに笑う。
「俺、こういうの得意だからな」
「さっきまで追い回されてた奴が何を言っておる」
「もうできるからいいんだよ」
「できてないじゃろ」
玲とかぐやが言い合う。その横で、小夜は玲の右手を見ていた。
黒い紋章。
そして、その傍らに置かれた黒い長剣。
「…………」
小夜は目を細めた。教えたのは、力を身体の一部へ寄せる感覚だけだった。普通ならまず感じ取るところから時間がかかる。
ましてや、適合して数日。それを玲は、失敗を繰り返しながらも僅かな時間で掴み始めている。
「小夜?」
玲がこちらを見ていた。
「どうした?」
「別に」
「またそれかよ」
小夜は玲から視線を外した。
「休憩は終わり」
「今始まったばっかだろ!」
「立って」
「鬼!」
小夜の口角がわずかに上がる。
「悪い奴の匂いがする?」
「……しねえ」
「なら問題ないわね」
「そういう使い方すんなよ」
小夜が歩き出す。玲は文句を言いながらもその後を追った。
かぐやはその場から動かない。
「かぐや」
「わしは休憩じゃ」
「お前何もしてねえだろ!」
「精神的に疲れたのじゃ!」
二人の声が森に響く。
小夜は振り返らなかった。
ただ、その表情はどこか楽しそうに緩められている。




