第11話:無力
日が沈みかけていた。
街の外れにある高台からは、夕暮れに染まった街を一望できる。石造りのテラスの向こうには屋根が幾重にも連なり、その間を縫うように細い道が伸びていた。昼間の騒がしさはまだ残っているものの、店先では少しずつ片づけが始まり、家々の窓には明かりが灯り始めている。
玲はひとり、その景色を眺めていた。
手すりの上に腰掛け、片足をぶらぶらと揺らしている。普段なら、高い場所から街を眺めれば何かしら面白いものを見つけていた。
屋根の上を歩いてみようとか。
あの細い路地はどこへ続いているのだろうとか。
向こうの店からいい匂いがするとか。
けれど今日は何一つ頭に入ってこなかった。
数日前の魔女狩りでの一件が心の中に蟠りを生んでいる。
椎名は傷の治療のために、ずっと酒場に泊まっている。かぐやも珍しく玲についてこなかった。
『少し一人で頭を冷やしてこい』と、そう言われたきりどこにいるのかもわからない。
「…………」
玲は右手を見る。そこには黒い紋章が刻まれていた。
この街に来た時にはなかったものだ。
武器を引き抜けるようになった。
身体も以前よりずっと強くなった。
騎士に一歩近づいて、ようやく進めると思った。
それなのに。
玲の手が強く握られる。
そうすると、村人たちの声が蘇ってくる気がした。
助けて。
やめて。
知らない。
父ちゃん。
目の前で魂を食われ、父親を忘れた子どもの顔。何度立ち上がっても届かなかった。剣を振っても、悪魔はまともに相手すらしていなかった。
腹がいっぱいになったからと、玲たちを残して去っていった後ろ姿が脳裏に焼きついて纏わりつく。
「……くそ」
玲は俯いた。
「くそっ!」
拳を手すりへ叩きつける。
鈍い音が鳴った。
「なんなんだよ……!」
もう一度。
「全然駄目じゃねえか!」
声が街へ響く。
「何が強くなっただよ! 何が騎士だよ!」
誰に言っているわけでもない。
悪魔に対してなのか。
自分に対してなのか。
玲自身にも分からなかった。
「一人くらい……」
拳を握る。
「一人くらい、助けられただろ……!」
「―― 近所迷惑よ」
「……あ?」
振り返るが誰もいない。
テラスへ続く階段にも、人の姿はなかった。
「上」
頭上から聞こえる。
「あ」
二階の窓が開いていた。その窓枠に、黒い外套を纏った女が腰掛けている。
深く被ったフードのせいで顔はよく見えない。片足を室内に残し、膝の上で本を開いていた。
玲はその姿を覚えていた。
「お前、あの時の」
「またお腹が空いてるの?」
本から目を離さないまま女が尋ねる。
「……ちげえよ」
玲は少し間を置いてから続けた。
「でも、あの時は飯ありがとう」
「どういたしまして」
女はページを一枚めくる。
どうやら、この建物は宿だったらしい。よりにもよって玲が適当に選んだ高台のすぐ後ろが、彼女の泊まっている宿だったようだ。
「…………」
「…………」
玲はまた街へ顔を向ける。
女も本へ戻る。
それで会話は終わるかと思った。
だが、しばらくしてページをめくる音が止まった。
「今日は静かなのね」
「さっきうるせえって言っただろ」
「静かにしろとは言ってないわ。近所迷惑だと言っただけ」
「同じじゃねえの?」
「少し違うわね」
「なんだよ、それ」
玲は顔を上げた。窓枠の女も改めて玲を見る。その動きが、わずかに止まった。
「…………」
「なんだよ」
女の視線は玲の右手へ向けられていた。
「あなた」
「ん?」
「適合したのね」
玲も自分の手を見る。
「……ああ」
女はしばらく紋章を見つめる。
「強さを手に入れて」
フードの奥から玲を見る。
「それなのに、あまり嬉しそうには見えないわね」
「…………」
玲は静かに黒い紋章の上へ爪を立てる。強く押し込むと皮膚が破れ、細い血が滲んだ。
「俺は、誰も救えなかった」
女は黙っている。
「悪魔一体、倒せなかった」
玲の指が曲がる。拳を握ると、滲んだ血が掌へ広がった。
「……何回やっても、全然届かなかった」
目の前で人が殺されているのに。何度立ち上がっても。何度剣を振っても。悪魔は玲を相手にすらしていなかった。
「最後なんて俺と戦うのが面倒だからって帰ってった」
「…………」
「俺、強くなったと思ってたのに」
玲は唇を噛む。
「何もできなかった」
女は何も言わなかった。慰めることも、励ますこともない。ただ窓に座ったまま、玲を見ている。
やがて。
「それで?」
「……え?」
玲が顔を上げる。
「あなたはどうしたいの?」
「どうって……」
「負けた。誰も救えなかった」
淡々とした声だった。
「それで、終わり?」
「…………」
玲は黙り込んだ。
『終わり』
その言葉だけが妙に引っかかった。
女は少しだけ首を傾ける。
「悪魔と魔女を恨んでる?」
「…………」
玲は手の紋章を見た。
「あの村を襲った悪魔は倒したい」
迷わず答える。
「次に会ったら絶対倒す」
「魔女は?」
「…………」
すぐには答えられなかった。悪魔たちは魔女を探していた。そのために村を襲い、何人もの魂を食べた。
「魔女は……分かんねえ」
「分からない?」
「ああ」
フードの奥で女の目が僅かに細くなった。
「魔女のせいで多くの人間が死んでいるわ」
「…………」
「情は持たない方がいいわよ」
「なんで?」
「いつか会ったとき、殺せなくなるかもしれないでしょう?」
玲は眉を寄せた。
「なんで殺すんだよ」
「……え?」
「それは会ってから決める」
「…………」
「魔女が何したのか知らねえし」
女を見上げる。
「悪い奴か、いい奴か、俺は自分で決める」
「自分で?」
「うん」
「どうやって?」
「会えば分かるだろ」
あまりにも当然のように玲は答えた。
「俺、匂いでなんとなく分かるんだ。嫌な奴は嫌な匂いするし、いい奴はそうじゃねえ」
「…………」
「人間とか悪魔とか、そんなの関係ねえんだ」
女は黙った。夕暮れの風が黒い外套の裾を僅かに揺らす。
しばらくして、女が口を開いた。
「じゃあ」
「ん?」
「私は信じてもいいの?」
玲が首を傾げる。
「あなたの言う、悪い奴かもしれないわよ」
「お前が?」
「ええ」
顔もよく見えない。
名前も知らない。
何をしている人間なのかも知らない。
それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。
「んなことねえよ」
玲は笑った。
「お前はいい奴だ!」
「……え?」
女の声が僅かに揺れた。
「どうして?」
「いい奴の匂いがする!」
「…………」
玲は自分の鼻を指差す。
「悪い奴ってなんか嫌な感じするんだよ。でもお前からはしねえ」
「それだけ?」
「十分だろ」
「…………」
「飯も食わせてくれたし」
「結局そこなのね」
女はしばらく玲を見つめていた。
やがて、小さな声が漏れる。
「ん?」
「ふふ……」
肩が僅かに揺れる。声を押さえようとしているようだったが、堪えきれなかったらしい。
玲が目を丸くする。
「なんだよ」
「別に」
「笑ってんじゃん」
「ええ」
女は口元へ手を添えた。
「そんなこと、初めて言われたわ」
「いい奴って?」
「ええ」
「当たってるだろ?」
「どうかしら」
「じゃあ悪い奴なのか?」
「それはあなたが決めるんでしょう?」
「あ、そうだった」と玲が笑う。女の笑い声がもう一度、小さく漏れた。
「……強くなりたい?」
「なりたい」
今度は即答だった。
「さっきより随分迷いがないのね」
「決めたから」
「何を?」
「次は助ける」
玲は右手を見る。
「今度は、ちゃんと守れるくらい強くなる」
女は黙ってその横顔を見つめた。
「そう」
そして、本を脇へ置く。
「この街の裏門を出た先に、大きな森があるわ」
「ん?」
「明日の朝、そこに来て」
玲が首を傾げる。
「なんで?」
「紋章術の使い方、教えてあげる」
「…………」
数秒遅れて、玲が勢いよく顔を上げた。
「マジで!?」
「ええ」
「お前使えんの!?」
「教えることはできるわ」
「じゃあ今から――」
ピシャリ、と女の声が玲の勢いを制す。
「明日の朝」
「まだ暗くねえぞ!」
「私はもう出かけたくないの」
「じゃあ明日! 絶対な!」
「ええ」
玲は石壁から飛び降りた。先ほどまでの沈んだ顔は、少しだけ消えている。
「裏門出たとこの森だな?」
「そう」
「朝って何時?」
「朝は朝よ」
「分かんねえよ!」
玲は少し浮き足立ち、今にも駆け出していきそうだった。
「日が昇る頃にはいるわ」
「分かった!」
そして、階段へ向かって走り出す。
「じゃあ明日――」
数歩進んで。
止まった。
「そういや」
「何?」
「名前」
女が黙った。
「明日教えてもらうのに、ずっとお前って呼ぶの変だろ」
「…………」
「そろそろ教えてくれよ」
今までより少し強い夕暮れの風が吹いた。女の外套が大きく揺れる。
「あ」
深く被っていたフードが風に煽られ、後ろへ落ちた。白い髪が夕暮れの空へ広がる。
「…………」
玲が言葉を止める。
初めて、女の顔がはっきりと見えた。
長い白髪。透き通るような白い肌。
すっと整った顔立ちには、大人の女性らしい美しさがあった。どこか近寄りがたいほど綺麗なのに、先ほどまで笑っていた名残が僅かに口元へ残っている。
そして、夕日の残光を映す瞳は鮮やかな黄色だった。
街を歩く誰とも違うその姿に、玲は思わずじっと見つめた。
「……すげえ」
「何が?」
「髪、真っ白」
「そこ?」
女は小さく笑う。
「あと目、黄色い」
「見れば分かるわ」
「綺麗だな」
女が僅かに目を見開く。風に流された白髪を片手で押さえた。そしてフードへ手を伸ばすが、何か考えた様子ですぐには被り直さなかった。
「小夜よ」
「ん?」
「私の名前」
玲は一度瞬きをする。
「……小夜?」
「ええ」
玲はその名前を確かめるようにもう一度口にした。
「小夜」
それから笑った。
「分かった!」
階段へ向かいながら手を振る。
「じゃあ明日な、小夜!」
「ええ」
「遅れんなよ!」
玲はそのまま階段を駆け下りていった。
足音が遠ざかっていく。小夜は窓枠に座ったまま、その背中を見送っていた。
やがて玲の姿が見えなくなると、風に揺れる白い髪を押さえながら小さく息を吐いた。
「……いい奴、か」
誰に聞かせるでもなくそっと呟く。それからフードを被り直すと、脇に置いていた本を開いた。
けれど。
しばらく経っても、そのページがめくられることはなかった。




