第9話 アルさんがいるから
最近。
私は、ギルドでアルさんを見つけると、少しだけ嬉しくなる。
別に、何か特別なことをしてもらいたいわけじゃない。
ただ姿を見ると安心する。
それだけ。
「……おはようございます」
「おう。おはよう、リゼ」
朝の挨拶。
「今日は早いですね」
「依頼を受ける前に、ちょっと用事があってな」
「そうなんですか」
「リゼは?」
「私はいつも通りです」
「そうか」
そんな短い会話だけでも、気持ちが少し軽くなる。
自分でも不思議だった。
◇
昼前。
ギルドの受付が少し混み始めた。
冒険者たちが依頼を受けるために並んでいる。
私は先輩たちと一緒に受付を進めていた。
「次の方、どうぞ」
一人の男性冒険者が受付へやって来る。
かなり体格が大きい。
顔も怖い。
私は少しだけ緊張した。
「この依頼なんだが」
男性が依頼書を差し出す。
「はい。確認いたします」
私は依頼書を受け取った。
すると。
「報酬、これだけか?」
「はい。こちらに記載されている金額になります」
「少なすぎないか?」
「申し訳ありません。私の判断では変更できませんので……」
「だったら増やせよ」
「え……」
声が大きくなる。
私は反射的に身体を固くした。
昨日のことを思い出す。
怒鳴られたときの、あの感覚。
頭が真っ白になる。
けれど。
男性は私ではなく、隣の受付へ視線を向けた。
「責任者はどいつだ?」
「……私です」
マリアさんだった。
受付嬢たちをまとめる立場にある、私の上司。
「この依頼、報酬が低すぎるだろ」
「申し訳ありません。依頼主とギルドで取り決めた報酬ですので、受付で勝手に変更することはできません」
「じゃあ責任者を出せ」
「ですから、私が受付の責任者です」
マリアさんの声は落ち着いている。
けれど。
私は気づいた。
マリアさんの指が、ほんの少し震えている。
怖くないわけじゃない。
それでも、逃げない。
「俺はベテランだぞ? もう少し融通を利かせてもいいだろ」
「申し訳ありません。規定上、できません」
「融通も利かせられないのか?」
「できないものは、できません」
男性が苛立ったように机を叩いた。
ドンッ。
私は肩を震わせる。
その瞬間だった。
「マリア」
後ろから声がした。
アルさんだった。
「アル……」
「大丈夫か?」
「ええ」
マリアさんは小さく頷いた。
するとアルさんは、男性冒険者を見る。
「何か揉めてるのか?」
「こいつが報酬を――」
「依頼書を見せてもらえるか?」
男性から依頼書を受け取り、アルさんが目を通す。
「……報酬は規定通りだな」
「だろ?」
「不満なら、依頼主に交渉するしかない」
「だから、それを――」
「ギルドの受付嬢に怒鳴っても、報酬は増えないぞ」
声は静かだった。
怒っているようにも見えない。
それなのに。
男性は一瞬、言葉を止めた。
「……」
アルさんは続ける。
「ここで騒ぎを起こすより、依頼主と話をつけたほうが早い」
「……チッ」
男性は依頼書を取り返した。
「分かったよ」
そう言って、受付を離れていく。
「ありがとうございました」
マリアさんが頭を下げる。
男性が離れていくと。
「……ふぅ」
マリアさんが小さく息を吐いた。
私はその様子を見ていた。
「マリアさん……」
「何?」
「怖かったんですか?」
「……まあね」
マリアさんは苦笑した。
「私だって、怒鳴られれば怖いわよ」
「でも……」
「仕事だから」
それだけ言って、マリアさんは受付に戻った。
その隣で、アルさんが小さく笑う。
「よくやったな」
「……ありがとう」
「無理はするなよ」
「分かってるわ」
二人の会話は短い。
でも。
私には分かった。
二人は、お互いを信頼している。
マリアさんは、アルさんが近くにいることを知っていた。
だから、逃げなかった。
そしてアルさんも。
マリアさんが自分で対応できると分かっていたから、すぐには口を挟まなかった。
必要になったときだけ、支える。
そんな関係に見えた。
◇
しばらくして。
「リゼ」
「はい?」
マリアさんが私を呼んだ。
「さっき、少し固まってたでしょう?」
「……はい」
「先日のことを思い出した?」
「はい……」
「無理に慣れなくてもいいわ」
「え?」
「怒鳴られて平気な人なんて、そう多くないもの」
マリアさんが優しく笑う。
「困ったら私を呼んで」
「はい」
「もちろん、他の先輩でもいいわ」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
そのとき。
「それに、アルベルトもいるしね」
「……え?」
「何?」
「いえ……」
私はアルさんを見る。
本人は何事もなかったかのように、受付の端で依頼書を眺めている。
「アルさんって……」
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
「そうか?」
「はい」
私は笑った。
◇
仕事が終わる頃。
アルさんが帰る準備をしていた。
「じゃあな、リゼ」
「はい。お疲れさまでした」
「明日も仕事か?」
「もちろんです」
「なら、ちゃんと寝ろよ」
「アルさんもですよ」
「俺は大丈夫だ」
「五十年生きていても?」
「……それ、俺の台詞じゃないか?」
「ふふっ」
アルさんが笑う。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
アルさんがギルドを出ていく。
私はその背中を見送った。
今日、私は少し怖かった。
大きな声を聞いたとき、身体が固まった。
それでも。
アルさんが来たとき。
不思議と、呼吸ができた。
ちゃんと周りを見ることができた。
マリアさんも、アルさんがいると分かっていた。
だから、あれだけ怖い相手にも立ち向かえたのだと思う。
「……アルさんがいるから」
また、その言葉が口から漏れた。
最近、この言葉をよく口にする。
アルさんがいると安心する。
アルさんがいると、もう少し頑張れる。
アルさんがいると――。
明日も、この場所に来たいと思える。
「……変なの」
私は小さく笑った。
けれど。
その感情が、ただの安心感だけではなくなりつつあることに。
このときの私は、まだ気づいていなかった。




