第32話 十五歳の記憶
朝から降っていた雨は昼前には止んでいた。
だが、雨上がりの畑仕事が楽になるわけではない。
むしろ土は重くなる。
靴底には泥がまとわりつき、一歩進むたびに余計な力を使わされる。
「アルベルト! そっちが終わったら、こっちも頼むぞ!」
「分かった」
畑の向こうから父の声が飛んできた。
十五歳になったばかりのアルベルトは、短く返事をして鍬を握り直す。
別に嫌ではなかった。
農家の子供なら、働くのは普通のことだ。
父も働く。
母も働く。
兄も働く。
だから、自分だけ休む理由はない。
……もっとも。
兄と自分では、少し事情が違った。
「兄さん、そっちは終わった?」
「ああ。父さん、俺はもういいよな? 午後から村長のところへ行くんだ」
「ああ。行ってこい」
兄は鍬を置くと、家へ戻っていった。
村長のところで読み書きや計算を教わるのだ。
将来、家を継ぐために必要だから。
アルベルトは兄の背中を見送った。
羨ましいと思ったことはある。
だが、不満を口にしたことはない。
兄は長男だ。
家を継ぐ。
自分は次男だ。
家の仕事を手伝う。
そういうものだと思っていた。
「アルベルト」
「何?」
「その畝が終わったら、裏の畑も見てきてくれ。昨日の雨で水が溜まってるかもしれん」
「分かった」
父の言葉に頷く。
父は冷たい人間ではない。
母も同じだ。
食事はきちんと用意してくれるし、怪我をすれば心配もする。
兄だけを愛して、自分を嫌っているわけでもない。
ただ。
扱いが違う。
兄は家を継ぐ者。
アルベルトは働ける次男。
それだけだった。
「……よし」
鍬を振り下ろす。
重い。
もう一度。
振り下ろす。
重い。
朝から何時間働いただろう。
腕は疲れていた。
腰も痛い。
額から流れた汗が土へ落ちる。
それでも手を止めるわけにはいかない。
今日の仕事が終わらない。
だから。
アルベルトは鍬を振り上げた。
――その瞬間だった。
頭の奥で。
何かが弾けた。
「……え?」
視界が揺れる。
鍬が手から落ちた。
土の上に膝をつく。
「おい、アルベルト!」
遠くで父が何かを叫んでいる。
だが、声が遠い。
代わりに。
知らない光景が、頭の中へ流れ込んできた。
見たことのない部屋。
壁まで届く棚。
紙。
机。
椅子。
窓の外には、見たこともないほど高い建物。
知らない服を着た人間たち。
誰かが頭を下げている。
『申し訳ありませんでした』
若い男だった。
青ざめている。
失敗したのだろう。
目の前にいる自分は、その男を怒鳴らなかった。
『何があった?』
『……はい』
話を聞く。
途中で遮らない。
最後まで聞く。
そして。
『分かった。じゃあ次はどうする?』
そんな言葉をかけていた。
場面が変わる。
会議。
書類。
部下。
相談。
トラブル。
調整。
誰かを褒める。
誰かを励ます。
誰かの失敗を一緒に考える。
そして。
夜。
誰もいない部屋。
机の上には大量の書類。
時計を見る。
遅い。
それでも帰らない。
『これ、今日中に確認しておくか』
また書類を手に取る。
次の日。
さらに仕事が増える。
『お願いします』
『助かります』
『頼りにしています』
断れない。
期待される。
頼られる。
だから引き受ける。
引き受ける。
また引き受ける。
そして。
五十歳。
ある日。
胸の奥に違和感を覚えた。
『……少し、疲れたな』
そう思った。
だが、まだ仕事が残っている。
机へ向かう。
書類を見る。
文字がぼやける。
立ち上がろうとして。
身体が動かなかった。
視界が暗くなる。
床が近づく。
最後に思ったこと。
『ああ』
『もう少し、休めばよかったな』
――そこで。
全てが終わった。
「……っ!」
アルベルトは顔を上げた。
荒い呼吸。
心臓が激しく鳴っている。
土の匂い。
湿った空気。
畑。
自分の手。
小さい。
十五歳の手だった。
「アルベルト!」
父が駆け寄ってくる。
「どうした!? 急に倒れて!」
「……大丈夫」
「顔色が悪いぞ。家に戻るか?」
「いや……大丈夫」
本当に大丈夫なのかは、自分でも分からなかった。
頭の中には、知らないはずの五十年分の記憶があった。
いや。
知らない人生ではない。
知っている。
自分自身の人生だった。
「……俺」
思わず呟く。
「どうした?」
「いや」
アルベルトは首を振った。
誰にも話せるわけがない。
自分は以前、別の世界で生きていた。
五十歳まで。
そして死んだ。
そんな話をして、誰が信じるというのか。
父は心配そうにこちらを見ている。
「今日は休め」
「……うん」
珍しく、父の言葉に逆らわなかった。
家へ戻る。
ベッドへ横になる。
しかし。
眠れなかった。
目を閉じれば、五十年間の人生が浮かんでくる。
部下の顔。
同僚の顔。
会社。
仕事。
そして。
最後の日。
「……死んだんだな」
小さく呟く。
不思議と、悲しくはなかった。
もちろん、思い残したことがないわけではない。
だが、死ぬ瞬間の自分は、どこか納得していた気がする。
ただ。
一つだけ。
強く思ったことがあった。
「休めばよかった」
それだけだった。
仕事は好きだった。
部下の成長を見るのも好きだった。
誰かの役に立つことも嫌いではなかった。
だが。
自分の人生まで仕事に捧げる必要はなかった。
頼られるまま。
期待されるまま。
仕事を抱え込んで。
結果として。
死んだ。
「……馬鹿だな」
十五歳のアルベルトは、五十歳の自分を笑った。
そして。
同時に気づいた。
今の自分も、似たようなものではないか。
朝から晩まで働く。
家のため。
畑のため。
兄のため。
それが当たり前だと思っている。
もちろん。
今は十五歳だ。
家を出て一人で生きられるわけではない。
働かなければならない。
それは理解している。
だが。
このまま何も考えずに生きるのは違う。
「……今度は」
天井を見る。
まだ若い。
十五歳。
これから先、どれだけの時間があるのか分からない。
けれど。
少なくとも。
前世と同じ生き方だけはしたくなかった。
「死ぬまで働くような生き方は、しない」
誰に聞かせるでもなく。
静かにそう決めた。
その日の夕方。
アルベルトはいつもより早く眠った。
翌朝。
目を覚ます。
前世の記憶は消えていなかった。
会社。
人間関係。
仕事。
そして。
五十年間の人生。
全て覚えている。
「……夢じゃないか」
アルベルトはベッドから起き上がった。
窓の外を見る。
今日も畑がある。
仕事もある。
父も母も。
兄もいる。
昨日までと何も変わらない。
ただ。
一つだけ変わった。
自分自身が。
「さて」
アルベルトは小さく息を吐いた。
「今度は、もう少し上手くやるか」
そう呟いて。
十五歳の少年は。
静かに。
二度目の人生を始めた。




