第30話 もう一度
翌日。
ミナは《月の雫》の控室にいた。
鏡の前に座り。
いつものように髪を整えている。
「……」
鏡の中の自分を見る。
昨日より。
少しだけ表情が明るい。
それでも。
緊張がなくなったわけではなかった。
「……大丈夫」
小さく呟く。
すると。
「誰に言ってるの?」
背後から声がした。
「ひゃっ!?」
ミナが肩を跳ねさせる。
振り返ると。
そこにはリリアが立っていた。
「リリアさん!」
「そんなに驚かなくても」
「急に話しかけるからです!」
「ごめんごめん」
リリアは楽しそうに笑う。
ミナは頬を膨らませた。
「……」
「緊張してる?」
「……少しだけ」
「そう」
リリアはミナの隣に座った。
「昨日はどうだった?」
ミナの顔が少し赤くなる。
「……どうって」
「アルとの時間」
「……」
「顔が赤いわね」
「リリアさん!」
「ごめんごめん」
まったく悪びれていない。
「でも」
リリアの表情が少し柔らかくなる。
「楽しめたみたいでよかったわ」
ミナは少しだけ黙った。
「……はい」
「楽しかったです」
「そう」
「はい」
ミナは鏡を見る。
「私」
「昨日まで」
「仕事に戻るのが怖かったんです」
「うん」
「でも」
「今日は」
「少しだけ」
「やってみたいって思えてます」
リリアは微笑んだ。
「それで十分よ」
「……」
「最初から完璧に戻ろうとしなくていいの」
「昨日のミナより」
「今日のミナが一歩進めば、それでいい」
ミナは少し笑った。
「……アルベルトさんと」
「似たようなことを言いますね」
「ふふ」
リリアは肩をすくめる。
「長い付き合いだから」
「そうなんですか?」
「ええ」
「……」
ミナは少しだけ考える。
「リリアさん」
「何?」
「アルベルトさんって」
「どんな人なんですか?」
リリアが少し目を細めた。
「難しい質問ね」
「難しいですか?」
「ええ」
少し考える。
「……人のことをよく見てる人」
「自分では」『大したことはしてない』って顔をしてるけど」
「そうでしょうか?」
「そうよ」
リリアは笑った。
「人が困ってたら」
「いつの間にか隣にいる」
「助けを求められたら」
「できることをする」
「でも」
「その人の人生を代わりに決めたりはしない」
ミナは静かに聞いていた。
「昨日」
「そう思いました」
「でしょう?」
「はい」
ミナは少しだけ笑う。
「だから」
「私」
「アルベルトさんに」
「……」
「何?」
「いえ、また会いたいなって」
リリアが笑う。
「会えるわよ」
「え?」
「ここ、私のお店だもの」
「そ、そうですけど」
「ふふ」
ミナの顔が赤くなる。
◇
「ミナ」
扉の外から声がした。
「はい!」
「お客さんよ」
ミナの表情が一瞬で固くなる。
「……」
リリアがそれを見る。
「大丈夫?」
「……」
ミナは深く息を吸った。
吐く。
「……はい」
「本当に?」
「……怖いです」
正直に答えた。
リリアは微笑む。
「そう」
「でも」
ミナは続ける。
「行ってきます」
立ち上がる。
その足は。
少しだけ震えていた。
それでも。
前へ進む。
◇
客室。
扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
ミナは笑った。
少しだけ硬い笑顔。
しかし。
自分で選んだ笑顔だった。
「……」
部屋の中には。
三十代くらいの男性が座っていた。
旅装をしている。
長旅の途中なのか。
少し疲れた顔をしていた。
「座っていいですか?」
「ああ」
ミナはゆっくりと隣に座る。
「……」
少し沈黙。
心臓が速くなる。
何を話せばいい?
どうすればいい?
頭の中に。
以前の自分が顔を出す。
失敗したらどうしよう。
嫌われたらどうしよう。
怒らせたら。
その瞬間。
ミナは膝の上で手を握った。
そして。
思い出す。
『まず俺が何を求めているか聞け』
アルベルトの言葉。
ミナは小さく息を吸った。
「……あの」
「何だ?」
「今日は」
「どんなふうに過ごしたいですか?」
男性が少し意外そうな顔をした。
「どんなふうに?」
「はい」
「お話をしたいのか」
「ゆっくり休みたいのか」
「楽しく過ごしたいのか」
「人によって違うと思うので」
男性は少し考えた。
「……話を聞いてほしいかな」
「はい」
「長旅で疲れててな」
「誰かと話したかった」
ミナは笑った。
「じゃあ」
「今日は、たくさんお話ししましょう」
「……いいのか?」
「はい」
「そのために私はいるんですから」
男性が少し驚いた顔をする。
そして。
「……そうか」
と笑った。
◇
最初は。
少しぎこちなかった。
しかし。
男性が旅の話を始めると。
ミナは自然に質問をするようになった。
「それは大変でしたね」
「はい」
「その町には、何日くらいいたんですか?」
「三日ほどだ」
「へえ」
「何が一番美味しかったですか?」
「料理か?」
「はい」
男性が笑う。
「変わった子だな」
「そうですか?」
「普通は、景色とか聞くだろ」
「食べ物も大事ですよ」
「はは」
男性が笑った。
その笑顔を見て。
ミナの心が少し軽くなる。
大丈夫。
今。
ちゃんと話せている。
ちゃんと。
相手の話を聞いている。
◇
「……」
しばらくして。
男性がふと黙った。
「どうしました?」
「いや」
男性は少し笑った。
「こんなに話したのは久しぶりだと思ってな」
「そうなんですか?」
「ああ」
「旅をしてると」
「人と話す機会はあるんだが」
「ゆっくり話すことはあまりない」
ミナは頷いた。
「そうですね」
「……」
男性は少し考える。
「実は」
「何ですか?」
「今回の旅」
「仕事で失敗してな」
ミナは何も言わない。
「故郷を出たんだ」
「……」
「しばらく」
「誰にも会いたくなくて」
ミナは静かに聞いている。
「だから」
「適当に旅をして」
「そのうち気持ちが整理できるかと思ったんだが」
男性は苦笑する。
「全然駄目だな」
「……」
「何が失敗だったんですか?」
ミナが尋ねる。
男性は少し驚いた。
「聞くのか?」
「話したくなければ」
「話さなくても大丈夫です」
「……」
男性は少し黙った。
そして。
ゆっくりと話し始めた。
◇
それから。
男性は長い間話した。
仕事のこと。
家族のこと。
失敗したこと。
自分が情けないと思っていること。
ミナは。
ただ聞いた。
時々。
質問をした。
時々。
「それは辛かったですね」
と言った。
それだけだった。
解決策を押しつけることもない。
無理に励ますこともない。
それでも。
男性の表情は。
少しずつ変わっていった。
「……ありがとう」
話が終わった後。
男性が言った。
「何がですか?」
「聞いてくれて」
「はい」
「誰かに」
「こんなふうに話を聞いてもらったのは久しぶりだ」
ミナは笑った。
「よかったです」
「……」
男性は少し不思議そうにミナを見る。
「本当に、それだけか?」
「はい?」
「もっと『また来てください』とか。『指名してください』とか。言わないのか?」
ミナは少し考えた。
「また来てくれたら嬉しいです」
「でも」
「無理に言うことでもないかなって」
男性が少し笑った。
「変わってるな」
「よく言われます」
「そうか」
男性は笑った。
「また来るよ」
「……本当ですか?」
「ああ」
「今度は」
「失敗した話じゃなくて」
「上手くいった話をしに来る」
ミナは目を丸くした。
そして。
「……はい」
嬉しそうに笑った。
「待ってます」
◇
男性が部屋を出た後。
ミナは一人になった。
「……」
しばらく。
扉を見ていた。
そして。
ゆっくりと息を吐く。
「……できた」
誰に言うでもなく。
小さく呟いた。
「私」
「できた」
以前と同じではない。
まだ。
少し怖い。
次の客も。
同じようにできるか分からない。
それでも。
今日。
目の前にいた一人を。
少しだけ笑わせることができた。
話を聞くことができた。
そして、『また来る』と言ってもらえた。
「……」
ミナの目から。
涙が零れた。
しかし。
悲しい涙ではなかった。
「……よかった」
そう呟いた瞬間。
扉が開く。
「ミナ?」
「ひゃっ!?」
慌てて涙を拭く。
入ってきたのはリリアだった。
「な、何ですか!?」
「何って」
「今のお客さん、帰ったから」
「……」
「どうだった?」
ミナは少し黙った。
そして。
笑った。
「……楽しかったです」
リリアが微笑む。
「そう」
「はい」
「また」
「楽しかったです」
リリアはミナの頭を優しく撫でた。
「おかえり」
その一言に。
ミナは目を見開く。
「……」
「ただいま、です」
そして。
二人で笑った。
◇
その日の夜。
アルベルトは宿の部屋で一人、酒を飲んでいた。
そこへ。
扉がノックされる。
「アルベルトさん」
「ん?」
扉の向こうから。
聞き慣れた声がした。
「ミナです」
「入れ」
扉が開く。
ミナが入ってくる。
今日は仕事を終えた後らしい。
昼間とは違う、普段着だった。
「どうした?」
「あの」
ミナは少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「今日」
「お客さんを取りました」
「聞いてないな」
「今、報告しに来ました」
「そうか」
アルベルトは笑った。
「どうだった?」
「……」
ミナは少しだけ胸を張った。
「楽しかったです」
「そうか」
「はい」
「よかったな」
「……」
ミナは少し黙った。
「それだけですか?」
「何が?」
「もっと」
「よかったな、とか」
「頑張ったな、とか」
「言ってくれてもいいと思います」
「今、言ったぞ」
「もう少しです」
「欲張りだな」
「今日は」
ミナは笑う。
「少しくらい」
「褒めてもらってもいいと思います」
アルベルトは少し考えた。
「そうだな」
ミナが期待するように見る。
「よく頑張った」
「……」
「怖かっただろ」
「それでも行った」
「ちゃんと相手の話を聞いた」
「相手を少し楽にした」
「それで」
「また来たいと思わせた」
アルベルトはミナを見る。
「十分だ」
ミナの顔が。
一気に赤くなる。
「……」
「何だ?」
「……言い過ぎです」
「褒めてほしいと言ったのはミナだ」
「そうですけど」
「……」
ミナは視線を逸らす。
「でも」
小さく笑った。
「嬉しいです」
「そうか」
「はい」
そして。
少しだけ間があった。
「アルベルトさん」
「何だ?」
「私」
「今日」
「お客さんに『また来る』って言ってもらいました」
「そうか」
「はい、嬉しかったです」
「ああ」
「……」
「何だ?」
「もう一つ、報告があります」
「聞こう」
ミナは。
少しだけ恥ずかしそうに。
しかし。
以前よりもずっと自然な笑顔で言った。
「私、この仕事をもう少し頑張ってみます」
アルベルトは酒杯を置いた。
「そうか」
「はい」
「それなら」
笑う。
「次は、俺が客として来たとき」
「もっと腕を上げておいてくれ」
「……」
ミナが目を丸くする。
そして。
「……はい!」
力強く答えた。
「任せてください!」
その声には。
もう。
以前のような怯えはなかった。




