第29話 私に任せてください
「……目、開けちゃダメですよ」
「分かった」
アルベルトは素直に目を閉じた。
視界が暗くなる。
その代わり。
他の感覚が少しだけ鋭くなる。
すぐ近くにいるミナの気配。
微かに聞こえる呼吸。
そして。
ふわりと漂う甘い香り。
「……」
しばらく。
何も起こらなかった。
アルベルトは黙って待つ。
すると。
「……あの」
「何だ?」
「本当に」
「目、開けてないですか?」
「開けてない」
「……本当に?」
「確認する方法があるのか?」
「ないですけど」
少しだけ。
ミナが笑った気配がした。
「……緊張してるな」
「分かりますか?」
「声で」
「……」
「無理する必要はないぞ」
「違います」
すぐに返事が返ってきた。
「無理は、してません」
その声には。
少しだけ強い意思があった。
「ただ」
ミナは小さく息を吸う。
「どうしたらいいか、少し迷ってるだけです」
「今まで通りじゃないのか?」
「……今まで通り、というのも」
少し言葉に詰まる。
「久しぶりなので」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、焦るな」
「……はい」
再び沈黙が落ちる。
しかし。
今度は先ほどより短かった。
次の瞬間。
柔らかな感触が、アルベルトの肩に触れた。
「……」
ミナの手だった。
ゆっくりと。
肩から腕へ。
確かめるように触れていく。
「こういうの」
ミナが小さく言う。
「嫌じゃないですか?」
「何が?」
「その……いきなり何かするより、まず、触れたりするの」
「嫌なら言う」
「……はい」
ミナの手が少しだけ動く。
緊張している。
それでも。
逃げずに、自分から進もうとしていた。
「アルベルトさん」
「ん?」
「お客さんって、最初は、みんな緊張してるんでしょうか?」
「人によるな」
「そうですよね」
「でも」
アルベルトは続ける。
「ミナも客を見ると緊張してたんじゃないか?」
「……最初は、はい」
「それでも仕事を続けられた」
「はい」
「なら、今日も同じだ」
ミナが少し黙る。
「……そう、ですね」
「今日は俺しかいない」
「失敗しても、怒鳴る客もいない」
「……」
「ゆっくりやればいい」
その言葉に。
ミナの手から少し力が抜けた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
「でも」
「安心します」
アルベルトは少し笑った。
「そうか」
◇
ミナはアルベルトの隣に座った。
少しだけ距離が近い。
しかし。
さっきまでのようなぎこちなさは、少し薄れていた。
「……目、開けてもいいですよ」
「もういいのか?」
「はい」
アルベルトが目を開ける。
目の前には。
少し赤くなった顔のミナがいた。
「どうだ?」
「何がですか?」
「思ってたより緊張してるか?」
ミナは少し考える。
「……してます」
「正直だな」
「アルベルトさんには、隠しても無駄な気がするので」
「そうか?」
「はい」
ミナは笑った。
そして。
少しだけ真面目な顔になる。
「でも」
「逃げたいとは思ってません」
「それならいい」
「……」
「何だ?」
「アルベルトさんは」
「本当に、変な人ですね」
「また言ったな」
「だって」
ミナが少し笑う。
「普通は『もっと自信を持て』とか。『大丈夫だから』とか。そういうことを言うと思います」
「俺は言わない」
「どうしてですか?」
「自信がなくてもできることはあるから」
ミナが少し目を見開く。
「……」
「大丈夫じゃなくても、進めることはある」
「……」
「怖くてもいい、自信がなくてもいい。それでも、自分でやると決めたならやればいい」
ミナは静かに聞いていた。
「……」
「それに」
アルベルトは少し笑う。
「ミナは、もうちゃんとやってる」
「え?」
「怖いのに、今日ここにいる。 久しぶりに客を取ろうとしてる。 俺の前で逃げずにいる。それだけで十分だろ」
ミナの目が潤む。
「……」
「泣くなよ」
「泣いてません」
「泣きそうだぞ」
「泣いてません」
「そうか」
「……はい」
ミナは慌てて顔を逸らした。
◇
少しして。
ミナは再びアルベルトを見る。
「アルベルトさん」
「何だ?」
「私、今までお客さんを満足させることばかり考えてました」
「仕事だからな」
「はい。でも、それだけじゃなかったんです」
アルベルトは黙って聞く。
「お客さんが笑ってくれると嬉しかった。 また来るって言われると嬉しかった。 少し元気になった顔を見ると嬉しかった」
ミナは自分の胸元に手を置いた。
「私、誰かを癒やすことが好きだったんです」
「……」
「なのに、最近は自分が怒られないことばかり考えてました」
「それに気づけただけでも大きい」
「そう、でしょうか」
「ああ」
アルベルトは頷く。
「何を間違えたのか分からないままなら、直しようもない。でも、ミナは分かった」
「……」
「前の自分に戻る必要はない」
「え?」
「前より少し変わってもいい。
失敗した経験があってもいい。
怖くなることがあってもいい。
その上で」
アルベルトはミナを見る。
「これからどうしたいか決めればいい」
ミナは静かにその言葉を聞いていた。
やがて。
「……はい」
ゆっくり頷いた。
◇
「アルベルトさん」
「ん?」
「少し」
「こちらを向いてもらえますか?」
アルベルトがミナを見る。
ミナは少し恥ずかしそうだった。
しかし。
目を逸らさない。
「……何だ?」
「いえ」
ミナが小さく笑う。
「ちゃんと見ていてほしくて」
「何を?」
「私が」
少しだけ息を吸う。
「自分で決めて、今、ここにいることを」
アルベルトは黙った。
「……」
「分かった」
ミナが少し安心したように笑う。
そして。
そっとアルベルトへ近づいた。
「アルベルトさん」
「何だ?」
「今日は」
「私が、あなたを癒やしたいです」
その言葉には。
先ほどまでの迷いがなかった。
「仕事だからじゃなく?」
「……仕事でもあります」
ミナは少し困ったように笑う。
「でも、今はそれだけじゃないです」
「そうか」
「はい」
アルベルトは頷いた。
「なら、任せる」
「……はい」
ミナが嬉しそうに笑った。
◇
それから。
ミナは自分なりに、アルベルトをもてなした。
焦ることはなかった。
何かを急ぐこともなかった。
時々。
「大丈夫ですか?」
と尋ねる。
アルベルトが答える。
「大丈夫だ」
すると。
ミナは少し安心したように笑う。
何度か。
「嫌じゃないですか?」
と確認する。
「嫌なら言う」
「はい」
そんなやり取りを繰り返しながら。
ミナの表情は。
少しずつ変わっていった。
最初は。
失敗しないように。
怒らせないように。
そう考えていた。
だが。
いつの間にか。
アルベルトがどうすれば心地よく過ごせるか。
何をすれば喜んでくれるか。
そんなことを考えるようになっていた。
「……」
ふと。
ミナが笑う。
「どうした?」
「いえ。何か久しぶりだなって」
「何が?」
「こうやってお客さんのことを考えるの」
アルベルトも少し笑った。
「思い出したみたいだな」
「……はい」
ミナは頷く。
「思い出しました。 私、やっぱり人を喜ばせるのが好きです」
その声は。
とても穏やかだった。
◇
しばらくして。
客室の中は静かになっていた。
窓の外から差し込む光も、少し傾いている。
ミナはアルベルトの隣に座っていた。
少しだけ疲れた様子。
しかし。
その表情は晴れていた。
「……」
「どうした?」
「いえ」
ミナは小さく笑う。
「不思議です」
「何が?」
「今日の朝まですごく怖かったのに、今はまた仕事をしたいと思ってます」
「そうか」
「はい」
ミナは自分の手を見る。
「私、ずっと自信を取り戻さなきゃって思ってました」
「……」
「前みたいにちゃんとできるようにならなきゃって。 でも、違ったんですね」
「何が?」
「自信がなくてもできることはあった」
アルベルトが少し笑う。
「俺の言葉を使ったな」
「いい言葉だったので」
「そうか」
「はい」
ミナは笑う。
そして。
少しだけ真面目な顔になる。
「アルベルトさん」
「ん?」
「私」
「もう少しだけこの仕事を頑張ってみます」
「……」
「まだ怖くなることもあると思います。
自信がなくなることもあるかもしれません。
でも、今度はそのたびに『私は何のために、この仕事をしてるんだろう』って思い出します」
アルベルトは頷いた。
「それでいい」
「はい」
ミナは嬉しそうに笑った。
「……それから」
「何だ?」
ミナは少しだけ頬を赤くする。
「今日のこと」
「忘れないでくださいね」
「忘れない」
「本当ですか?」
「ああ」
「……」
「何だ?」
「約束ですよ」
「約束だ」
ミナは満足そうに笑った。
◇
しばらくして。
二人は客室を出た。
廊下で待っていたリリアが、二人を見る。
「……」
ミナを見る。
「どうだった?」
その問いに。
ミナは少しだけ考えた。
そして。
笑った。
「……楽しかったです」
リリアが目を少し見開く。
「そう」
「はい」
「本当に?」
「はい」
今度は。
迷わず答えた。
「楽しかったです」
リリアは少しだけ微笑む。
「よかったわね」
「はい」
ミナは頷いた。
そして。
隣にいるアルベルトを見る。
「アルベルトさん」
「何だ?」
「また」
少しだけ照れながら。
「……お客さんになってくれますか?」
アルベルトは少し笑った。
「ミナが望むなら」
「はい」
その答えに。
ミナは嬉しそうに笑った。
以前のように。
誰かを癒やすことが好きだった頃のように。
そして。
ほんの少しだけ。
以前よりも自分を好きになれたような笑顔だった。




