第3話 怒鳴られると、何も言えなくなる
その日は、朝から忙しかった。
「次の方、どうぞ!」
リゼは笑顔で冒険者を迎える。
少し前までなら、受付に立つだけでも緊張していた。
けれど最近は、ほんの少しだけ余裕が出てきた。
依頼書を受け取り、内容を確認する。
「薬草採取の依頼ですね。採取場所は西の森。納品数は――」
そこまで確認して、リゼは顔を上げた。
「こちらの依頼で間違いありません」
「ああ」
「では、こちらをお願いします」
依頼書を返す。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
冒険者が出ていく。
リゼは小さく息を吐いた。
今日も大丈夫。
少しずつだけど、ちゃんとできるようになっている。
「リゼさん」
「はい!」
先輩受付嬢から声が飛んできた。
「さっきの依頼なんだけど、場所が変更になったから修正しておいて」
「え?」
「西の森の奥で魔物が増えたらしくて。採取場所が東側に変更」
「分かりました!」
リゼはすぐに依頼書を確認する。
「……東側ですね」
「そう。掲示板のほうもお願い」
「はい!」
リゼは立ち上がった。
ところが。
その変更は、まだ一部の受付にしか伝わっていなかった。
朝の混雑。
次々とやってくる冒険者。
別の受付が、変更前の依頼書を渡してしまう。
そして――
「この依頼、受けたいんだけど」
「はい。確認しますね」
リゼの前に、一人の若い冒険者が立った。
依頼書を受け取る。
「薬草採取……西の森ですね」
「ああ」
リゼは一瞬だけ迷った。
さっき変更されたはず。
だが、手元の依頼書は変更前のもの。
掲示板の修正はまだ途中だった。
「……少々お待ちください」
リゼは先輩に確認する。
「この依頼ですが、採取場所は東側に変更ですよね?」
「ええ。さっき伝えたでしょう?」
「はい」
「じゃあ変更しておいて」
「分かりました」
リゼは依頼書を書き直した。
「お待たせしました」
「何が?」
「採取場所が変更になりました」
「は?」
冒険者の眉が寄る。
「さっき西の森って言っただろ」
「申し訳ありません。先ほど変更になりまして――」
「だったら最初から言えよ!」
「……っ」
大きな声。
その瞬間。
リゼの身体が固まった。
「こっちは予定組んでんだぞ!」
「……」
「聞いてんのか?」
聞こえている。
ちゃんと聞こえている。
なのに。
声が出ない。
頭の中が真っ白になる。
怖い。
どうしよう。
謝らないと。
でも――何を?
「す、すみません……」
やっと、それだけが口から出た。
「すみませんじゃねえよ!」
「……っ」
肩が跳ねる。
指先が震えた。
周囲の視線が集まってくる。
何か言わなければ。
説明しなければ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
――まただ。
昔からそうだった。
強い声を向けられると、身体が動かなくなる。
頭が働かなくなる。
何も考えられなくなる。
だから、冒険者にはなれなかった。
訓練で怒鳴られたときもそうだった。
頑張ろうと思っても、身体が固まった。
だったら。
誰かを支える側になればいい。
そう思って、受付嬢になった。
なのに。
「おい!」
男が受付台を叩く。
「――っ!」
リゼは目を閉じた。
そのときだった。
「その辺にしておけ」
低い声が響いた。
「……あ?」
男が振り返る。
ギルドの入口から、一人の男が歩いてくる。
アルベルトだった。
「アルベルト……さん」
リゼの声は震えていた。
「話は聞こえた」
アルベルトはリゼの隣まで来る。
そして、彼女を庇うように立った。
「依頼場所が変更されたんだろ?」
「だからなんだよ!」
「変更前の依頼書が残っていた。受付側の伝達にも問題があった」
「……」
「それに、こいつは今、変更内容を確認している」
アルベルトは淡々と話す。
怒鳴らない。
威圧もしない。
ただ、事実を並べていく。
「予定が狂ったのは気の毒だ」
「だったら――」
「だが」
アルベルトの声が少しだけ低くなる。
「この子を怒鳴る理由にはならん」
男が黙った。
「……でもよ」
「文句があるなら、ギルドの運用について言え」
アルベルトは受付の掲示板を見る。
「依頼場所の変更が全員に共有されていない。それはギルド側の問題だ」
「……」
「この子一人に責任を押しつける話じゃない」
静かな声だった。
だからこそ、妙に説得力があった。
「……チッ」
男は舌打ちする。
「分かったよ」
「そうしてくれ」
男が依頼書を掴み、受付から離れていく。
しばらくして、ギルドの喧騒が戻ってきた。
リゼは俯いたままだった。
「……」
身体が震えている。
情けない。
また何もできなかった。
また誰かに助けてもらった。
「リゼ」
「……はい」
「顔を上げなくていい」
「……」
アルベルトは、それ以上急かさなかった。
「今、頭の中が真っ白だろ」
「……どうして」
「分かるからだ」
リゼはゆっくり顔を上げた。
「……私」
声が震える。
「私、ちゃんと説明しようとしたんです」
「ああ」
「でも、怒鳴られたら……何も分からなくなって……」
「そうか」
「また……何も言えませんでした」
目に涙が浮かぶ。
「私、受付嬢なのに……」
「それは違う」
アルベルトが即座に否定した。
「……え?」
「受付嬢だから、怒鳴られても平気でいろってことにはならない」
「でも……」
「それに、今回の件はお前だけのせいじゃない」
「……」
「変更の伝達が不十分だった。依頼書も変更前のままだった」
アルベルトは一つずつ整理する。
「お前が悪かったところがあるとすれば、確認した内容をその場でもう少し早く説明できればよかった。それくらいだ」
「……それくらい」
「ああ」
「でも、私……」
「全部自分のせいにするな」
その言葉に、リゼは黙った。
「怒鳴られたら固まるのは、すぐには変わらないだろ」
「……はい」
「なら、まずは怒鳴られない方法を考えればいい」
「怒鳴られない方法……?」
「一人で対応しない。誰かを呼ぶ。後ろにいる先輩に合図する。それだけでもいい」
「……」
「助けを呼ぶのは、仕事を放り出すことじゃない」
リゼは目を瞬かせた。
「……迷惑じゃないですか?」
「何が?」
「先輩を呼んだら……」
「新人が先輩を頼るのは普通だろ」
アルベルトはそう言って、少しだけ笑った。
「俺だって、分からないことがあれば人に聞く」
「……アルベルトさんでも?」
「五十年生きていても、分からないことなんていくらでもある」
「……ふふ」
リゼの口から、小さな笑いが漏れた。
さっきまで震えていた身体から、少しだけ力が抜ける。
「笑ったな」
「す、すみません!」
「なんで謝るんだ」
「……」
まただ。
すぐに謝ってしまう。
けれど今度は――
「まあ、いい」
アルベルトは怒らなかった。
「今日はもう大丈夫だ」
「……はい」
「水でも飲んでこい」
「でも、仕事が……」
「五分くらいなら誰も困らん」
「……はい」
リゼは席を立った。
まだ足は少し震えている。
けれど。
さっきとは違った。
自分を責める気持ちの中に、ほんの少しだけ別の感情が混ざっている。
――助けてもらった。
でも、それだけじゃない。
アルベルトは、自分を「できない新人」だとは言わなかった。
ちゃんと失敗したところは教えてくれた。
それでも、全部を自分のせいにしなくていいと言ってくれた。
「……変な人」
水を飲みながら、リゼは小さく呟いた。
怖い人がたくさんいる冒険者の世界で。
あの人の前にいると――
どうしてか、少しだけ息がしやすい。
その日の帰り。
リゼはギルドの入口で、アルベルトの姿を探していた。
けれど、もう帰ったらしい。
「……残念」
ぽつりと呟いてから、自分で驚く。
「……え?」
どうして残念なんだろう。
まだ会ってから、そんなに時間が経っていない。
それなのに。
今日、助けてもらったことを思い出すと――
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。




