第27話 嫌なお客さん
「……少し前に」
ミナは、自分の膝の上に置いた手を見つめたまま言った。
「すごく嫌なお客さんを取ったんです」
アルベルトは何も言わなかった。
ただ、静かに続きを待つ。
「最初から、ちょっと機嫌が悪そうな人でした」
「うん」
「部屋に入ってからも、ほとんど話してくれなくて」
ミナは少しだけ息を吐いた。
「でも、そういうお客さんもいますから」
「何も話したくない人もいる」
「はい」
「だから、無理に話しかけないようにして」
「でも、居心地が悪くならないようにって思って」
そこでミナの声が少し小さくなる。
「……たぶん、私なりに頑張ったんです」
「うん」
「いつも通りに」
アルベルトは頷いた。
ミナはしばらく黙っていた。
言葉を選んでいる。
「最初は」
「私の話し方が気に入らなかったみたいで」
「訛りか?」
「……多分」
ミナは小さく頷いた。
「『その喋り方、何なんだ』って」
アルベルトの表情は変わらない。
ただ、目だけが静かだった。
「私、昔から少し訛りがあるので」
「うん」
「仕事を始めてからは、なるべく気をつけてたんです」
「でも、緊張したりすると出ちゃうことがあって」
ミナは苦笑した。
「その人にも」
「『田舎者丸出しだな』って言われました」
「……」
「別に」
ミナは急いで続けた。
「それだけなら、まだよかったんです」
アルベルトは少しだけ眉を動かした。
「まだ?」
「はい」
ミナの指先が、ぎゅっと握られる。
「私が黙ってしまったからだと思います」
「……」
「気にしてるのが分かったんでしょうね」
ミナは笑おうとした。
しかし、うまく笑えなかった。
「そこから」
「色々言われました」
アルベルトは何も促さない。
ミナが言葉にするまで待つ。
「『愛想もない』とか」
「『暗い』とか」
「『そんな顔で客を取るな』とか」
淡々と話そうとしている。
だが。
声が少し震えていた。
「それで」
ミナは一度、唇を噛んだ。
「……私」
「ちゃんと笑おうとしたんです」
「うん」
「でも、上手くできなくて」
「そしたら」
そこで言葉が止まる。
アルベルトは待った。
「……」
「ミナ」
「はい」
「急がなくていい」
その言葉に。
ミナが少しだけ顔を上げた。
「……はい」
深く息を吸う。
「その人、私の顔を見て『そんな作り笑いされても、気持ち悪いだけだ』」
ミナの声が止まった。
部屋の中が静かになる。
アルベルトは何も言わない。
「それから」
「胸を見て」
「田舎から出てきたくせに、これくらいしか取り柄がないんだろって」
ミナの指が震える。
「だったら、せめてちゃんと客を満足させろって」
「……」
「私」
ミナは俯いた。
「何も言えませんでした」
「うん」
「何をしても」
「何を言っても」
「余計に怒らせる気がして」
「だから、ただ」
「早く終わってほしいって」
その言葉を言った瞬間。
ミナの肩が小さく震えた。
アルベルトは黙っていた。
ただ。
彼女が泣き出してもいいように。
目の前に布を置いておく。
「……ありがとうございます」
ミナはそれに気づいて、小さく言った。
「どういたしまして」
「普通、何か言いません?」
「何を?」
「……その」
「可哀想だったな、とか」
「ミナは今、何か言ってほしいのか?」
その質問に。
ミナが黙った。
「……分かりません」
「そうか」
「はい」
「なら、今は何も言わない」
ミナが少しだけ笑った。
涙が目に溜まっていた。
「アルベルトさんって」
「本当に変な人ですね」
「今日、二回目だな」
「すみません」
「また謝った」
「……」
ミナは小さく息を吐いた。
◇
「そのお客さんが帰った後」
少ししてから。
ミナは再び話し始めた。
「最初は」
「嫌な人だったなって思ったんです」
「うん」
「本当に、それだけでした」
ミナはゆっくりと言葉を続ける。
「でも」
「次の日」
「別のお客さんを取るときに」
「急に怖くなって」
「何が?」
「また何か言われるんじゃないかって」
アルベルトは頷いた。
「それで?」
「笑おうとしても」
「これでいいのかなって考えてしまって」
「話してても」
「訛りが出てないかなって気になって」
「お客さんの顔を見て」
「怒ってないかなって」
「ずっと考えてました」
ミナは自分の手を見る。
「そしたら」
「今度のお客さんに『暗いな』って言われたんです」
「……」
「そのとき」
「すごくショックでした」
「前のお客さんのことがあったから?」
「はい」
「やっぱり」
「前の人だけじゃなかったんだって思って」
ミナの声が少しずつ小さくなる。
「私って」
「本当に暗いんだって」
「愛想がないんだって」
「この仕事に向いてないんだって」
「思ってしまって」
アルベルトは静かに聞いている。
「次のお客さんも」
「その次のお客さんも」
「失敗したらどうしようって考えてしまって」
「前みたいに話せなくなって」
「笑えなくなって」
「そしたら」
ミナは少し自嘲するように笑った。
「本当に、前よりお客さんに怒られるようになりました」
「……」
「自分でも分かるんです」
「前と違うって」
「前は」
「お客さんの話を聞くのが好きだった」
「どんな人かなって思って」
「話すのが楽しかった」
ミナの声が震える。
「でも今は」
「この人に嫌われないかなって」
「怒らせないかなって」
「そればかり考えてしまって」
「……」
「それで」
「余計に上手くいかなくなって」
ぽつり。
ミナの涙が膝の上に落ちた。
「分からなくなったんです」
アルベルトは黙っている。
「私」
「何がしたくて、この仕事を始めたんだろうって」
「……」
「人を癒やしたいって思ったのに」
「今は」
「お客さんの前に出るのが怖くて」
「自分が嫌になって」
ミナは俯いた。
「故郷にも」
「帰りたくないんです」
「……」
「半年前」
「家族に『都会で頑張ってる』って言ったから」
ミナの肩が震える。
「なのに」
「今の私は」
「全然頑張れてなくて」
アルベルトは静かに息を吐いた。
そして。
「ミナ」
「……はい」
「一つ聞いていいか?」
「はい」
「その客に言われたこと」
「全部、本当だと思ってるのか?」
ミナが顔を上げる。
「……」
「田舎者だ」
「愛想がない」
「暗い」
「この仕事に向いてない」
アルベルトは、一つずつ並べる。
「全部」
「本当だと思ってるのか?」
ミナは答えられなかった。
「……分かりません」
「分からない?」
「はい」
「でも」
ミナは言葉を探す。
「何人かのお客さんに」
「似たようなことを言われました」
「最初の人と同じように?」
「……」
「違うだろ?」
ミナが顔を上げる。
「……」
「二人目の客は何て言った?」
「暗いって」
「それだけか?」
「……はい」
「三人目は?」
「愛想が悪いって」
「田舎者だとは?」
「……言われてません」
「胸しか取り柄がないとは?」
「……」
「言われてません」
ミナの目が少し揺れる。
アルベルトは責めるような口調ではなかった。
ただ、事実を確認しているだけだった。
「最初の客が言ったことと」
「後の客が言ったことを」
「ミナの中で全部繋げてないか?」
「……」
「『一人に言われた』ことが」
「『みんなが思っている』ことになってないか?」
ミナの唇が小さく震えた。
「でも」
「前より上手くできなくなったのは、本当です」
「そうだろうな」
アルベルトはあっさり言った。
「え?」
「怖いんだから」
ミナが目を瞬かせる。
「怖いと思いながら仕事をすれば」
「前と同じようにできなくなるのは普通だ」
「……」
「それを『やっぱり自分は駄目なんだ』って結論にするのは早い」
ミナは黙っていた。
「ミナ」
「はい」
「今のミナは、前のミナと同じ状態じゃない」
「……」
「前は、お客さんを楽しませようと思ってた」
「うん」
「今は、怒らせないようにと思ってる」
「……はい」
「同じようにできなくて当然だ」
ミナの目から、また涙が溢れた。
「……」
「すみません」
「何で謝る?」
「分からないです」
「そうか」
アルベルトは笑った。
「なら、それでいい」
「……」
「分からないことを、今すぐ分かろうとしなくていい」
ミナは布で涙を拭いた。
◇
「でも」
しばらくして。
ミナが小さく言った。
「もう一度」
「前みたいにできるか、分からないです」
「うん」
「お客さんの前に出たら」
「また怖くなるかもしれません」
「そうだろうな」
「……否定しないんですね」
「嘘をついても仕方ない」
ミナが少し笑った。
「アルベルトさんは」
「大丈夫だって言わないんですね」
「大丈夫かどうか、俺には分からないからな」
「……」
「でも」
アルベルトは少しだけ考えた。
「一つだけ、確実に言えることがある」
「何ですか?」
「話を聞いた限り」
アルベルトはミナを見る。
「ミナは、人と話すのが好きだ」
ミナの目が少し開く。
「酒場でも」
「今の仕事でも」
「客のことを覚えるのが好きだった」
「話を聞くのが好きだった」
「疲れてる人を元気にするのが好きだった」
ミナの唇が震える。
「それは」
「一人の客に言われたことでは消えないだろ」
「……」
「少なくとも」
アルベルトは笑った。
「俺には、そう見える」
ミナはしばらく何も言わなかった。
そして。
「……私」
「うん」
「本当に」
「この仕事が好きだったんでしょうか」
「それはミナが決めることだ」
「……」
「ただ」
アルベルトは続ける。
「嫌いになったかどうかも」
「まだ決めなくていい」
ミナは目を伏せた。
「……はい」
「今は、少し疲れてるだけかもしれないしな」
その言葉に。
ミナの目から涙が零れた。
「……」
「どうした?」
「いえ」
「何か変なこと言ったか?」
「違います」
ミナは涙を拭う。
「……誰も」
「そう言ってくれなかったので」
アルベルトは少し黙った。
「そうか」
「はい」
そして。
ミナは少しだけ笑った。
「私」
「自分が駄目になったと思ってました」
「うん」
「でも」
「疲れてるだけかもしれないって」
「考えたことなかったです」
「今はそれでいい」
アルベルトは茶を飲む。
「疲れてる人間は」
「休めばいい」
「……」
「答えを急ぐ必要もない」
ミナはゆっくり頷いた。
「はい」
その顔は。
まだ完全に明るくなったわけではない。
問題が解決したわけでもない。
明日になれば。
また不安になるかもしれない。
客を前にすれば。
体が固くなるかもしれない。
それでも。
昨日までとは少しだけ違っていた。
自分はもう駄目だ。
そう決めつけていた心に。
ほんの少しだけ。
別の可能性が生まれていた。
◇
「……あの」
帰る前。
ミナがアルベルトを呼び止めた。
「ん?」
「今日は」
「ありがとうございました」
「ああ」
「話を聞いてもらえて」
「……よかったです」
「そうか」
アルベルトが立ち上がる。
「また話したくなったら、リリアにでも言え」
「え?」
「呼ばれたら来る」
「……」
「もちろん、時間が合えばだが」
ミナは少し驚いた顔をした。
そして。
「……はい」
笑った。
今度の笑顔は。
最初よりも、ほんの少しだけ自然だった。
「アルベルトさん」
「何だ?」
「……また来てくれますか?」
その問いに。
アルベルトは少し笑う。
「リリアがいるからな」
「……そうですよね」
「でも」
ミナが少し寂しそうな顔をした瞬間。
「ミナにも会いに来る」
「え?」
「話の続きを聞く約束をしただろ」
ミナは目を丸くした。
そして。
ゆっくりと。
「……はい」
と頷いた。
その表情には。
久しぶりに。
少しだけ未来を楽しみにするような色があった。
気が付けば、評価とリアクションが付いている。
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