第26話 田舎から来た娘
翌日の昼過ぎ。
アルベルトは《月の雫》の前に立っていた。
昨夜とは違い、昼間の娼館は静かだった。
夜になれば客を迎えるこの場所も、昼間は働く女性たちにとって休息の時間になる。
扉を開けると、すぐに聞き慣れた声がした。
「あら。来たわね、アル」
「約束したからな」
受付の奥から現れたリリアは、昨夜とは違ってすっかり元気そうだった。
「本当に律儀ね」
「時間を指定したのはリリアだろ」
「それはそうだけど」
くすくすと笑う。
アルベルトはそんなリリアを見て、少し安心した。
「ミナは?」
「奥にいるわ」
「話はしてあるのか?」
「少しだけね」
「少しだけ?」
「アルベルトっていうおじさんが来るから、話くらいしてあげてって」
「誰がおじさんだ」
「五十歳」
「正論は反論しにくいな」
「でしょう?」
楽しそうに笑ってから、リリアは少しだけ表情を変えた。
「でも、あまり気負わないで」
「分かってる」
「ミナ、今はちょっと自信をなくしてるから」
「無理に聞き出したりしない」
「……そうだったわね」
リリアは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、お願い」
「ああ」
アルベルトは頷いた。
◇
案内されたのは、娼館の奥にある小さな休憩室だった。
簡素な机と椅子。
壁際には棚があり、茶器が置かれている。
窓から昼の柔らかな光が差し込んでいた。
「こちらよ」
リリアが扉を開ける。
「ミナ。アルを連れてきたわ」
「は、はい」
少し慌てた声が聞こえた。
アルベルトが部屋に入る。
そこには一人の若い女性が座っていた。
二十歳前後だろう。
柔らかな栗色の髪を肩のあたりまで伸ばしている。
女性らしい豊かな胸と、丸みを帯びた柔らかな身体つき。
整った顔立ちをしているが、今は少し表情が硬かった。
膝の上で両手を重ねている。
緊張しているのだろう。
「……はじめまして」
ミナが立ち上がった。
「ミナです」
「アルベルトだ」
「よろしくお願いします」
「ああ。よろしく」
そのとき。
ミナの言葉の最後に、ほんの少しだけ独特の響きが混じった。
「あ」
本人も気づいたらしい。
ミナが口を閉じる。
アルベルトは特に気にせず、向かいの椅子に座った。
「じゃあ、私は仕事に戻るわね」
リリアが言う。
「何かあったら呼んで」
「ああ」
「ミナも、無理しなくていいからね」
「はい」
扉が閉まる。
「……」
「……」
部屋に沈黙が落ちた。
ミナは明らかに居心地が悪そうだった。
アルベルトは机の上を見る。
「茶、飲むか?」
「え?」
「せっかくだし」
「あ……はい」
「俺が淹れていいのか?」
「え?」
「ここ、俺の家じゃないからな」
ミナが一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「……ふふ」
小さく笑う。
「何か変でしたか?」
「いや」
アルベルトは茶器を手に取った。
「勝手に使って怒られたら、リリアのせいにしようと思って」
「それはダメじゃないですか」
「そうか?」
「そうです」
今度は少し大きく笑った。
アルベルトは何も言わず、茶を淹れ始める。
◇
「……美味しいですね」
「そうか」
「はい」
二人で茶を飲む。
最初は本当に他愛もない話をした。
今日の天気。
市場の賑わい。
最近できたパン屋のこと。
ミナは最初こそ短く答えていた。
だが、少しずつ言葉数が増えていく。
「ミナは、この街には長いのか?」
「え?」
「少し訛りがあるから、こっちの出身じゃないのかなと思って」
ミナの表情が少し固くなった。
「あ……すみません」
「何が?」
「訛り」
「別に謝ることじゃないだろ」
「でも、変に思われることもあるので」
「そうなのか」
「……はい」
アルベルトは少し考える。
「どこの出身なんだ?」
「北のほうです」
「寒いところか?」
「冬はすごく寒いですよ」
「雪も?」
「いっぱい降ります」
その瞬間。
ミナの声が少し変わった。
「こっちは冬でもあんまり雪、降らへんですし」
言ってから。
ミナが固まった。
「あ」
アルベルトは普通に答えた。
「そうだな」
「……」
「どうした?」
「今、訛りが」
「ああ」
ミナが少し恥ずかしそうに俯く。
「気にしてたのか」
「……少し」
「俺は気にならないぞ」
「でも」
「むしろ分かりやすくていい」
「分かりやすい?」
「故郷の話になると出るんだな」
ミナが顔を上げる。
「……そう、ですね」
「面白い」
「面白い?」
「悪い意味じゃない」
アルベルトは茶を一口飲んだ。
「人間って、気が抜けると元に戻るだろ」
「……」
「無理に隠す必要もないんじゃないか?」
ミナは少し考えた。
「田舎者みたいじゃないですか」
「田舎者なんだろ?」
「……はい」
「ならいいじゃないか」
ミナが一瞬、呆然とした。
そして。
「……ふふ」
また笑った。
「アルベルトさん、変な人ですね」
「そうか?」
「普通、もう少し格好つけません?」
「五十歳にもなって格好つけても仕方ないだろ」
「五十歳なんですか?」
「そうだ」
「……もっと若いと思ってました」
「よく言われる」
「何歳くらいに見られるんですか?」
「最近は三十五くらい」
「それは若すぎません?」
「そうか?」
「はい」
ミナが笑う。
その笑顔は、最初に会ったときよりずっと自然だった。
◇
「田舎にはね」
いつの間にか。
ミナは自分から話していた。
「小さな川があるんです」
「へえ」
「夏になると、子供たちがみんな遊ぶんですよ」
「ミナも?」
「もちろん」
「泳いでたのか?」
「泳ぐというより、水遊びですね」
ミナが笑う。
「弟と一緒によく遊びました」
「弟がいるのか」
「二人います」
「多いな」
「一番下はまだ子供ですよ」
「ミナが都会に出てきたとき、寂しがったんじゃないか?」
その質問に。
ミナが少し笑った。
「……たぶん」
「たぶん?」
「出てくるときは、強がってましたから」
「弟らしいな」
「はい」
ミナは少し遠くを見る。
「でも、半年前に帰ったとき」
「うん」
「『姉ちゃん、都会の人になった?』って聞かれて」
「何て答えた?」
「なってへん、って」
アルベルトが笑う。
「即答か」
「はい」
「都会の人になりたいと思わなかったのか?」
ミナは少し考えた。
「最初は、思ってたかもしれません」
「そうか」
「都会に出て、ちゃんと働いて」
ミナの表情が少し懐かしそうになる。
「立派になろうって思ってました」
「最初は何の仕事を?」
「酒場の給仕です」
「へえ」
「食事も出す店だったので、給仕というか……何でも屋みたいな感じでした」
「忙しかっただろ」
「すごく忙しかったです」
ミナは笑った。
「毎日、朝から晩まで走り回ってました」
「大変そうだな」
「大変でした」
即答だった。
しかし。
「でも、楽しかったです」
その言葉だけは、とても自然だった。
「人と話すのが好きなんです」
「うん」
「常連のお客さんの顔を覚えたり」
「今日は疲れてそうだなって思ったら、少し多めに話を聞いたり」
「好きな料理を覚えたり」
ミナは話しているうちに、だんだん表情を明るくしていた。
「『ミナちゃんがいるなら寄っていこう』って言われたときは、すごく嬉しくて」
「人気者だったんだな」
「そんなことはないですよ」
「そうか?」
「はい。でも」
ミナは少し照れたように笑う。
「人と話す仕事は、好きでした」
アルベルトは頷いた。
「向いてたんじゃないか?」
「……そう、だったのかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間。
アルベルトは少しだけ引っかかった。
過去形。
まるで今は、自分がそうではないと思っているような言い方だった。
◇
「じゃあ、何で辞めた?」
アルベルトが尋ねると。
ミナは少し考えてから答えた。
「……もっと、一人ひとりと話してみたくなったんです」
「一人ひとり?」
「酒場は忙しいですから」
ミナが笑う。
「お客さんの話を聞いてても、次の注文が入ったら行かないといけない」
「まあ、そうだな」
「話の途中でも、仕事だから仕方ないですけど」
少しだけ言葉を探す。
「でも……もっとゆっくり話せたらなって思うことがあって」
アルベルトは黙って聞いていた。
「半年前に故郷へ帰ったんです」
「うん」
「久しぶりに家族に会って」
「都会の仕事はどうだって聞かれて」
ミナは笑った。
「楽しいって答えました」
「本当に?」
「はい」
即答だった。
「楽しかったです」
アルベルトは頷く。
「じゃあ、戻ってきてから?」
「……今の仕事を始めました」
少しだけ。
ミナの表情が変わる。
「知り合いに、ここを紹介されて」
「娼館を?」
「はい」
「迷わなかったのか?」
ミナはすぐには答えなかった。
「……迷いました」
「だろうな」
「すごく」
少し苦笑する。
「何日も考えました」
「それで?」
「やってみたいと思いました」
アルベルトはミナを見る。
「理由は?」
ミナは少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「……変だと思いますか?」
「何が?」
「娼婦になった理由です」
「聞いてないから分からん」
「……」
「変かどうかは、聞いてから決める」
ミナが小さく笑った。
「普通、そんな言い方します?」
「正直なだけだ」
「……そうですね」
ミナは少し考えた。
「人を癒やすことができる仕事だと思ったんです」
アルベルトは黙って聞く。
「もちろん……そういう仕事ですから」
少し言い淀みながらも。
「身体だけじゃなくて」
「お話をしたり」
「疲れてる人のそばにいたり」
「寂しい人と一緒にいたり」
ミナはゆっくり言葉を紡いでいく。
「酒場にいたときも」
「酔っ払って、ずっと愚痴を言って帰るお客さんとかいたんです」
「でも次の日に来て、『昨日は聞いてくれてありがとう』って言われると、それが嬉しくて」
ミナは微笑んだ。
「だから」
少しだけ頬を染めながら。
「今の仕事なら、もっと一人ひとりと向き合えるんじゃないかって思ったんです」
「……なるほどな」
「変ですか?」
「別に」
アルベルトは即答した。
「自分で選んだんだろ?」
「はい」
「なら、それでいい」
ミナが少し驚いた顔をする。
「他人が変だと言うことでもない」
「……」
「ミナがやりたくて選んだ仕事ならな」
ミナはしばらくアルベルトを見ていた。
そして。
「……ありがとうございます」
と、小さく言った。
◇
「最初の頃は」
ミナが続ける。
「結構、楽しかったんです」
その言葉に。
アルベルトは何も言わなかった。
ただ続きを待つ。
「もちろん、緊張はしました」
「そりゃするだろ」
「はい」
「でも」
ミナは笑った。
「色んなお客さんがいました」
「仕事の話ばかりする人」
「ずっと奥さんの愚痴を言う人」
「自慢話をする人」
「何も話さない人」
「色々だな」
「はい」
ミナは少し楽しそうだった。
「でも、それぞれ面白かったです」
「何で?」
「人が違うからです」
アルベルトは少し笑う。
「当たり前だな」
「当たり前ですけど」
ミナも笑った。
「でも、私はそれが好きでした」
そして。
「『ミナちゃんといると落ち着く』って言ってくれる人もいて」
「『また来る』って言ってくれる人もいて」
その言葉を口にしたとき。
ミナの表情が。
少しだけ曇った。
「……」
アルベルトは気づく。
しかし聞かない。
ミナ自身が話したくなるまで待つ。
「……でも」
しばらくして。
ミナが小さく言った。
「最近は」
膝の上で手を握る。
「そう思ってもらえてるのか、自信がなくなってきて」
「……」
「前は楽しかったのに」
「今は、お客さんの前に出るのが少し怖くて」
声が小さくなる。
「笑おうと思っても」
「これでいいのかなって考えてしまって」
アルベルトは静かに茶を置いた。
「ミナ」
「はい」
「話したくなければ、話さなくていい」
ミナが顔を上げる。
「今日は、ここまででも」
「……」
「俺は別に急いでない」
少し間を置いて。
「でも」
アルベルトは続けた。
「話したいなら聞く」
それだけだった。
答えを出さない。
励まさない。
否定もしない。
ただ。
話したければ聞く。
ミナはしばらく黙っていた。
「……」
やがて。
ゆっくり息を吸う。
「……もう少し」
「うん」
「もう少し、話してもいいですか?」
「ああ」
アルベルトは頷いた。
「いくらでも」
ミナは小さく笑った。
しかし。
その笑顔はどこか寂しそうだった。
「……実は」
そして。
ミナは自分の手を見ながら言う。
「少し前に」
「すごく嫌なお客さんを取ったんです」
静かな部屋に。
その言葉が落ちた。
アルベルトは、何も言わない。
ただ。
目の前の若い女性が続きを話せるように。
そこにいた。
◇
部屋の外。
リリアは仕事の途中で、休憩室の前を通りかかった。
中から聞こえるのは、ミナの声。
そして時々。
「うん」
「そうか」
「それで?」
そんなアルベルトの相槌。
リリアは足を止めることなく、小さく笑った。
「……やっぱりね」
扉の向こうで。
ミナはまだ話をしている。
誰かに答えを教えてもらうためではない。
自分の話を。
最後まで聞いてもらうために。
田舎から都会へ出てきた一人の娘は。
久しぶりに。
自分自身のことを、誰かに話していた。




