第89話 消された刻印は、名前ではなく分類だった
翌朝、ノラはガルドと共に南区画外縁の排水溝跡へ向かった。
アシュレイは朝の市庁問い合わせを一件処理してから後を追った。到着したとき、ノラはすでにしゃがんで石材の表面に紙を当てていた。拓本の二枚目だ、とガルドが後で教えてくれた。
「昨日との変化は」とアシュレイが聞いた。
「ないわね」とノラが言った。「ただ、朝の光の角度を変えて確認したの」
ノラが手鏡を石材の継ぎ目付近に当てた。光が斜めになると、削り跡の立体感が増した。ほんの指一本分ほどの範囲。周囲の石の肌とは明らかに違う。
「自然な欠けじゃない」とガルドが言った。「鑿の使い方が、建築用の工具とは違う。小さな平刃で丁寧に均した跡だ」
「何を消したと思いますか」
「刻印だな。形からして、丸い符号の一部。王国標準の設備分類符号は、円の中に何かを記す形式が多い。それの一部を削り落とした、そう見える」
アシュレイは石材全体を見た。削られているのは一箇所だけだ。他の部分は劣化があっても自然な形をしている。意図的に一点だけ手を加えた、そう見える。
「名前ではないということですか」
「所有者の名前や職人の銘なら、こんな場所には刻まない。設備の管理符号か、分類符号の位置だ」
ノラが拓本を伸ばして三人で見た。削り跡の輪郭が薄く浮き上がっている。
「分類符号を消したとすれば、何の目的ですか」
「分類符号が読めなければ」とノラが言った、「この設備が何に分類されるかを台帳に記載する根拠がなくなる。調査が来ても、符号が確認できなければ、単なる旧式街路設備として処理されるか、分類不能として流れる」
「分類できなければ、管理責任が曖昧になる」
「そう。鍵記録の攪乱を見たとき、誰かが入坑の事実を隠そうとしたのだと考えてた。でも今見えてるのは、別の方向よ」
アシュレイは一拍置いてから言った。
「入ったことを隠すのではなく、この設備が何であるかを台帳の外に置き続けるため、ということですか」
「ええ。存在しない設備には、点検義務が発生しない。修繕予算が付かない。責任部署が確定しない。分類さえ消しておけば、それが長く続く」
「いつ消したかは分かりますか」
ガルドが屈んで削り跡をもう一度触った。
「削り跡の新旧は判断しにくい。石材の劣化具合からすると、設備は相当古い。ただ削られた部分だけは、周囲より摩耗が少ない。風化を受ける前に何かで覆われていた可能性もある」
「証拠として整理できますか」
「できるわ」とノラが言った。「拓本二枚、削り跡の位置、ガルドの工具所見、王国標準符号様式との照合を記録する。ただし削られた符号がどの分類に当たるかは、現時点では復元できない」
「照合はエルリックさんに依頼できます」
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午後、市庁の小会議室にローデリクを呼んだ。
ノラの記録票と拓本の写しを持参した。ローデリクは資料を読みながら、何度か眉を上げた。読み終えてから、静かに言った。
「分類符号の削除、ですか」
「削り跡の形から推定しています。確定ではありません」
「ただ、坑道差分線の延長上に位置するという点と合わせると、偶然とは考えにくい」
「そう見ています」
「監査上、問題があります」とローデリクが続けた。「もしこの設備が台帳外に置かれていたとすれば、設備の管理責任が正式に確定していないことになります。意図的なものであれば、管理責任の故意的な回避が疑われます」
「どの部署が対応することになりますか」
「まず、市庁の資産管理部門に照会が必要です。この地点の土地台帳と設備台帳を確認して、記録があるかどうかを見ます。記録がなければ、未登録資産として新たに分類手続きが発生します」
「分類が変わると、責任部署も変わりますか」
「変わる可能性があります。旧街路設備であれば土木部門の管轄。都市基盤系統と判定されれば、魔力基盤の管理部門が関与することになる。それに伴い、封鎖の判断権も変わります」
「変化を嫌う向きが出ます」
「出ます。責任範囲が広がることを避けたい部署が慎重論を出すのは予想されます。ただ監査上は、今の段階で未登録点として記録し、分類確定前に廃棄・移転・立入を制限するのが正しい手順です」
「いまのところ、廃棄・移転はしていません。注意点の追加として掲示しています」
「それで構いません。ただ、今後分類が変わった場合、掲示内容も変える必要があります。住民側には事前にそのことを伝えておく方がいい」
アシュレイは手帳に書き留めた。住民への事前通知が必要なこと。資産管理部門への照会が次のステップになること。
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夕方、エルリックからの通信が届いた。対応したのはゲイルだった。
「排水溝跡の件、資料を手配しました。地方都市規格の分類符号様式の抜粋と、旧式安全核の表示符号の写しを送ります」
「ありがとうございます。照合をお願いできますか」
「拓本の写しを送ってもらえれば確認します。エルリックは今日から査察対応に入っています。照合は私が先に見ます」
ゲイルの声は低くて速い。資料を扱い慣れた人間の話し方だった。
「了解しました。今日の拓本を送ります」
「もう一つ確認したいことがあります。削られた部分の形以外に、道具の痕跡は残っていますか」
「削り方の工具所見をガルドが記録しています。細い平刃を使ったという見解です」
「道具の痕跡が残っているなら、工具の種類から製作時期を絞れる場合があります。ガルドさん自身が鉱山関連の作業経験があると聞いています。所見を書面で残してもらえれば証拠として使えます」
「ガルドに依頼します」
「資料は今夜中に送ります。ただし確定的なことが言えるかどうかは、見てみなければ分かりません。憶測で結論を出したくないので、もう少し時間をください」
「慎重にお願いします」
通信を閉じてから、アシュレイはガルドに分類符号照合のための工具所見書を依頼した。ガルドは「今夜書く」と短く言って作業に戻った。
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夜、ノラが影響範囲の整理票を持ってきた。
「旧排水溝跡の分類が変わった場合、三つの可能性があるわ」
ノラが表を開いた。
「一つ目、旧街路設備として台帳に登録される場合。土木部門の管理に入り、旧鉱山区画の問題とは別の枠で扱われる。住民への影響は最小限よ」
「二つ目は」
「旧都市外縁基盤系統の休眠設備候補として分類される場合。このケースでは、旧鉱山区画と同じ管理線に入る可能性があるわ。封鎖範囲の再定義が必要になる場合もある」
「三つ目は」
「分類が確定できない場合。この場合は危険未確認基盤資産として暫定分類し、継続調査の対象に置く。今の段階では、これが最も正直な扱いね」
「三番目が現実に近いですね」
「そう思うわ。エルリックさんの照合結果が届いてから、どの方向に向かうかが絞れる」
アシュレイは表を見た。三つの選択肢。どれも今夜決められるものではない。
「今夜できることは」
「証拠の整理票を完成させるわ。アシュレイは資産管理部門への照会文書を起票して。明日ローデリクさんに確認してもらう」
ノラが手帳を閉じて立ち上がった。
「一つ、確認させて」
「どうぞ」
「分類符号を消した理由が、設備を台帳外に置くためだったとすれば、それを行ったのはいつのことだと思う?」
「今は分かりません」
「旧鉱山区画が封鎖される前か、後か。それによって、誰がどのタイミングで動けたかが変わる」
アシュレイは少し考えた。
「旧鉱山区画の封鎖は、今回の調査が始まる前から続いています。ただ、この排水溝跡は封鎖区域の外にある」
「封鎖の内外と関係なく、アクセスできた人間がいた」
「そう見えます。削り跡が新しいか古いかを、ガルドの所見書で確認できれば判断材料になります」
ノラは頷いた。
「エルリックさんの照合結果とガルドの所見書、両方が揃ったら、もう一度整理するわ」
「お願いします」
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作業室に一人残って、アシュレイは資産管理部門への照会文書を書き始めた。
南区画外縁の旧排水溝跡について、台帳照合の依頼。設備の性質、分類符号の有無、所有権の帰属。照会の根拠は、旧鉱山区画調査に関連する候補点として認定した点にある。
書き終えたとき、ゲイルから短い返信が届いた。
「資料を確認しました。地方都市規格の分類符号様式、第七型に近い形が残っています。用途の分類は、都市外縁補助核用の設置基点符号に当たります。暫定的な判断ですが、符号の残形からはそう読めます」
アシュレイは手帳に書き写した。
都市外縁補助核用設置基点符号。
消された刻印は、名前でも所有者印でもなかった。この設備が「旧都市外縁基盤系統に属する」ことを示す、分類のための符号だった。
差分線、採取物の遮断方向、接続候補の方向。バラバラに見えた点が、少しずつ同じ線に乗り始めている。
ただし、まだ答えではない。設備が何であるかは分からない。誰が削ったかも分からない。分かったのは、消されたのが「存在の証拠」ではなく「分類の証拠」だったということだけだ。
翌朝、ゲイルが届けると言った地方都市規格書の写しを待ちながら、アシュレイは照会文書に署名をして机の上に置いた。
通信の末尾に、一言だけ追記があった。
「写しを見てください。該当設備区分には、単独稼働禁止という注意書きがついています」
アシュレイはその一行を、もう一度読んだ。
単独稼働禁止。
坑道の深部には、一人では入れないものがある。同じことが、設備にも記されていた。




