第84話 図面の差分は、坑道の形をしていない
朝一番に来たのはガルドだった。
資料室の扉を開けると、ノラとミレナがすでに作業を始めていた。机の上に三種類の紙が広げてある。旧坑道図の十五年前の版、初回入坑の記録から起こした測定値の一覧、そして昨日ミレナが草案を仕上げた差分表だ。
「早いな」
「ガルドさんこそ。今日の作業に来てもらえると思っていました」
「昨日の書式を見て、一晩考えてたんだ。支保工の配置図も持ってきた」
ガルドが布袋から紙を出した。初回入坑時にガルドが手書きで起こした支保工の配置図だ。入口から十メートルまでの区間に立てた柱の位置と、各柱の番号と状態が書き込まれている。
「三枚を重ねたい。図面と測定値と、この配置図。何か見えてくるかもしれない」
ノラが目を上げた。
「重ねる、というのは?」
「入口から奥へ向かう線を、三枚で合わせてみる。坑道図は上から見た断面だ。測定値は入口付近の確認ポイントを平面に落としてある。支保工の配置図は、柱の位置を入口から何メートルかで示してある。……三枚で同じ縮尺に直して、線を重ねると何が見えるか」
ミレナが手帳を開いた。
「縮尺を合わせる作業は、私がやります。測定値の側の縮尺は分かっています。坑道図の縮尺は余白に書いてあります。合わせられます」
三人で作業を始めた。ノラが坑道図の縮尺を計算し、ミレナが測定値の一覧と照合してポイントを打ち直す。ガルドは支保工の配置図を横に置き、柱の位置を同じ縮尺に直す。一時間ほどかかった。
三枚が同じ縮尺になった段階で、ガルドが紙を重ねた。
入口から奥へ向かう中心線を合わせ、右手の壁と左手の壁の線を比べていく。
入口から三メートルほどまでは、三枚の線がおおむね重なった。数センチの差はあるが、補修の跡や岩盤の動きで説明できる範囲だ。
問題は、三メートルより奥だった。
十五年前の坑道図には、坑道の壁がほぼ直線で続いている。ところが、ミレナの差分表に入った測定値では、右壁の測定ポイントが、三メートルを過ぎたあたりから少しずつ外側にズレている。
ガルドが支保工の配置図を上に重ねた。
五番の柱の位置が、坑道図の壁線より外側に来ていた。岩盤に立てているはずの柱が、図面の壁より少し外に出ている。
ガルドは何も言わず、その線を指でなぞった。
ノラがランプを近づけた。
差分の形が、ぼんやりと浮かんだ。坑道の壁線と測定値の差の間に、細い帯のような空間がある。幅は広くない。人が通れる広さではない。ただ、まっすぐ伸びている。
「……これ」
ガルドが低く言った。
「坑道の形をしていない」
ノラが顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「坑道は、岩を掘って人が通る形で広げる。補修で形が変わるとしても、拡張するか縮むかだ。こういう形にはならない」
ガルドは指で細い帯の形を示した。
「この幅、この方向、この長さ。……人が通る道じゃない。何かを通すための空間だ。土管か、配線か、あるいは別の何かを通した跡、あるいは今も残っている穴だ」
ミレナが差分表の奥側の欄を見た。
「昨日の夜、ガルドさんの測定票の中に念のための値と書いてあった行がありました。幅が細い、と」
「俺の測定棒で拾った振動だ。坑道方向とは角度が合わなかった」
「それがここに当たるということですか」
「場所が合う」
ガルドは腕を組んで、三枚の重なった線を見た。
「坑道の壁の中に、坑道とは別の空間がある。……鉱山の坑道図には載らない。鉱山の測量は坑道を記録するためのものだから、その外側に何かあっても記録しない」
アシュレイが資料室に来たのは、三人の作業がひと段落した午前の中頃だった。
机の上の三枚の紙と、ガルドの言葉を聞いた後、アシュレイはしばらく黙っていた。
考えている顔だった。出てきた答えを整理している顔ではなく、問いを立て直している顔だ。
「旧坑道図は、鉱山区画を記録したものですね」
「そうだ、旦那。坑道の形、支柱の位置、排水溝。鉱山として使うための構造を記録してある」
「ということは、鉱山区画ではない構造は、最初から記録する対象に入っていなかった」
「そういうことになる」
アシュレイは差分の帯を指でなぞった。
「これは図面の間違いではなく、図面が記録しなかった部分だということですね」
「俺の見立てでは、そうだ」
アシュレイは手帳を開き、書き始めた。
【旧坑道図と現地測定値の差分、支保工配置図の照合。三メートル超地点より右壁線に一致しない細い帯状の差分を確認。幅は人の通行不可。ガルドの測定票の念のための値と方向・位置が一致。旧坑道図は鉱山設備を記録対象としており、別系統の構造は記録範囲外だった可能性あり。断定は保留。】
「ノラさん。この差分を、差分表にどう記録しますか」
「今日の段階では、測定値との差分が存在することを記録する。原因は未確認として残す。坑道の補修・拡張跡と一致しないという判断は、ガルドさんの職人判断として注記に入れる。それが記録として正確なところよ」
「ありがとうございます。ミレナさん、差分表の今日付の版を出してください。今日の作業で追加した内容を版番号を上げて管理します」
「はい。今日中に出します。版番号は三になります」
午後、コルテが資料室に来た。
市庁の側で差分整理の進捗を確認したいということだった。ミレナから連絡が入っていたのだ。
ノラが三枚の重なった紙を机に残したまま、コルテに説明した。差分の場所、ズレの方向、ガルドの判断。簡潔に、順番通りに話した。
コルテは一通り聞いて、少しの間、線の重なりを見た。
「……一つ確認させてください。今使っている古い図面ですが、使えない部分がある、ということですね」
「使える部分と、照合が必要な部分と、今日出た差分の部分に分かれています」
「であれば、古い図面はもう必要ないのではないですか。今日の差分が出たということは、古い図面が現実と合っていないと分かった。ならば、古い図面を廃棄して、今日の現地測定値から新しい図面を作り直せばいい。その方が、作業の根拠として使いやすいはずです」
コルテの言葉は感情的ではなかった。書類の更新という仕事の流れから出てきた考えだった。古い版が使えなくなれば新しい版に差し替える。それは文書管理の習慣として自然な発想だ。
アシュレイが口を開く前に、ノラが先に言った。
「廃棄する意味を確認させてください。コルテさん」
「はい」
「古い図面を廃棄した場合、今日ガルドさんが発見した差分の形は、何と比較したものになりますか」
コルテが止まった。
「差分というのは、何かと何かを比べた結果です。古い図面を捨てれば、差分の参照先がなくなります。今日出た差分が差分として残るためには、古い図面が残っている必要があります」
「……差分を、記録として残すために必要、ということですか」
「そうよ。それだけではないわ」
ノラはコルテを見た。
「古い図面は、旧鉱山区画が閉鎖されるまでの間、鉱山側が何を記録対象としていたかを示している。今日出た差分は、その記録対象の外側に何かがある可能性を示している。古い図面を捨てれば、その外側という概念自体が消える。何が記録されていなかったかは、記録されていたものがなければ分からないわ」
コルテはしばらく黙った。
「……廃棄すると、何が記録されていなかったかも分からなくなる、ということですね」
「そういうことよ」
コルテは紙の線の重なりを、もう一度見た。整理している顔だった。感情ではなく、自分の中の文書管理の習慣と、今日聞いた話の論理を照合している。
「……分かりました。廃棄はしない方向で市庁側に説明します」
「告知文への記載が必要な場合は、ミレナさんに相談してください」
「はい」
コルテが立ち上がりかけて、少し止まった。
「一つだけ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「今日の差分の結果、この区画の調査はどういう方向に変わりますか。分類が変わる、というような話になりますか」
アシュレイはコルテを見た。
「今日の時点では、差分が存在することと、坑道の補修跡とは形が合わないことを確認しました。この区画が何を含んでいるかについては、今の段階では断定できません。ただ、差分整理が進んだことで、第二次調査の目的が少し変わる可能性があります」
「変わるとは」
「坑道の内部を確認するだけでなく、この差分がどこに続くかを確認することが、追加の目的になるかもしれない。今日の差分は、奥にあるものが鉱山設備だけではない可能性を示しています」
コルテはそれを聞いて、少し姿勢を変えた。感情的に動揺しているわけではなかったが、情報の重さを受け取り直している顔だった。
「……市庁への報告は、今日の内容を共有してもらえますか」
「ミレナさんに記録をまとめてもらいます。今日中に写しを届けます」
「分かりました」
コルテが出て行った後、ガルドが腕を組んだまま言った。
「旦那。さっきの話、コルテには伝えたか」
「差分の結果は伝えました」
「そうじゃなくて。……この差分、場所が合う。初回調査の帰りに俺が言った話と」
アシュレイはガルドを見た。
「三メートル地点の支柱の下、隠してるって言ったやつです」
ガルドは机の上の三枚の紙を指で示した。
「あの支柱の下から、今日の差分の帯がつながってる可能性がある。支柱が岩盤じゃなく、何かの上に立ってた。今日の差分も、その何かの延長上にある」
アシュレイは手帳に書いた。
【初回調査時の三メートル地点支柱の所在と、今日の差分表の帯状空隙の位置・方向が対応する可能性あり。次回入坑時の確認対象として追記。】
「ガルドさん、今日の内容を支保工の確認リストに追記してください。三メートル地点を優先確認ポイントとして加えます」
「了解だ」
夕方、ミレナが差分表の版三を仕上げた。
今日の作業で追加したガルドの職人判断、三枚重ねで出た帯状差分の位置と方向、コルテへの説明経緯を備考欄に入れた。版番号、日付、作成者の名前を右上に入れ、直前の版との差分内容を一行でまとめた差分ログを下欄に付けた。
アシュレイが確認した。一か所だけ、差分ログの表現を直した。
「帯状差分の原因は今日の段階では未確認です。坑道の形をしていないとだけ書いてください。何かを通すための空間という表現は、仮説の段階なので今の版には入れない」
「はい。修正します」
ミレナがその行を書き直した。
修正後の版を確認したノラが、差分表に管理番号を振って台帳に入れた。
「版管理の記録に、今日の三枚照合の作業記録も添付する。使った図面の参照番号、測定値の確認者、支保工配置図の作成者を全部入れる。後から誰が見ても、今日の差分がどうやって出たか追えるようにする」
「お願いします」
ノラが台帳を閉じたとき、扉をノックする音がした。
ノラが顔を上げた。
「入っていいわ」
扉が開いた。ノラ自身だった、というわけではない。ノラが外から戻ってきた形だ。先ほど分析室へ預けていた採取物の確認に行っていた。
ノラは手に小さな記録紙を持っていた。
机に近づき、アシュレイの前に置いた。
「採取物の分析結果が出たわ。三点全部」
「内容は」
「一番と二番は想定内よ。床面の泥は坑道内の土と岩の混合物。支柱の削り粉は、使われていた木材の種類に合う反応が出た」
ノラは紙の三番目の行を指した。
「三番だけ、違う」
「壁面の魔力樹脂片ですか」
「そう。坑道の補修に使う魔力樹脂は、普通、支柱の接合部や壁の亀裂を埋めるために使う。耐圧性と接着性が必要になる素材よ。……ただ、この樹脂片は耐熱性が高い。それと」
ノラは少し間を置いた。
「魔力の遮断方向が一定している。一方向だけに遮断する反応が出る素材は、坑道の補修には使わない。外からの圧力を均等に受けるなら、方向を持たせる意味がない」
「一定方向に遮断するとしたら、何に使う素材ですか」
「坑道の壁を補修するためではなく、何かを通すものの周囲を包む素材として使う。流れているものの外側に被せて、漏れを防ぐ。都市の基盤設備に使うような素材ね。魔力配管の外装材に近い反応が出てる」
アシュレイは手帳を開いた。
今日の差分表の帯状の空間と、この樹脂片の反応が、頭の中で静かに並んだ。
つながるかどうかは、今日の段階では分からない。断定できない。ただ、同じ方向を向いている。
「採取物番号三番の分類を変えます。坑道補修材としての記録から、用途未確認の基盤系素材として再記録します。番号はそのまま。保全記録も引き継ぐ」
「了解した。変更記録を起こす。変更理由と変更日時を入れて、元の分類が何だったかも残す」
「ありがとうございます」
アシュレイはしばらく机の上の紙を見ていた。
差分表の版三。採取物番号三番の再分類記録。二つが並んでいる。
今日の作業が変えたのは、数字と分類だった。劇的なことは何もない。ただ、これまで「坑道の調査」だと思っていた作業が、少し違う問いを持ち始めた。
ここに何があるかはまだ分からない。ただ、鉱山の設備だけで説明するには、説明できない部分が増えてきた。




