第64話 休眠業者は、なぜ資材を買えたのか
朝の資料室は、いつにも増して静かだった。
ノラが昨日から手元に置いていたのは二枚の書類だ。一枚は市庁の業者登録台帳の写し、もう一枚は商人ギルドから提出された業者取引台帳の写し。内容は同じはずのものだが、並べると明らかに違う。
ノラはランプを引き寄せて、もう一度じっくりと比較した。
市庁の台帳では、「カステル鉱山補修」の業者登録状態は「休眠」となっている。更新日は三年前。その欄の下に小さく「廃業届出受理、同日付にて取引停止通知送付済み」と書かれていた。
ギルドの台帳では、同名の業者が「有効」のままになっている。更新日は五年前から変わっていない。
(通知を送付した。しかし届いていない。あるいは、届いたが台帳に反映されていない。)
どちらかが嘘をついているわけではないかもしれない。それが問題だ、とノラは思った。
午前の打ち合わせには、アシュレイ、ノラ、ミレナ、そしてセルマが集まった。
ノラが二枚の写しを机に並べると、全員がそれを覗き込んだ。
「市庁の台帳では、カステル鉱山補修は三年前に休眠扱いとなり、同日付で取引停止通知を送付している。ギルドの台帳では、同業者は今も有効のまま。……どちらかに嘘があるわけじゃないとしたら、送った通知がギルド側で台帳に反映されていないということになる」
「そんなことがあるのか」
セルマが眉を寄せた。感情ではなく、実務者としての純粋な疑問だった。
「台帳の更新というのは、通知を受け取ったら自動的に更新されるわけではない。担当者が受け取って、記録して、台帳を書き直す。その手順のどこかで止まっていれば、通知は来ているのに台帳は古いまま、という状態が起きる」
「……うちの担当者を責められないね。通知がどういう形式で来るかも、うちの台帳更新ルールがどうなっているかも、把握していなかった可能性がある」
「それはギルドだけの問題でもありません」
アシュレイが口を開いた。
「市庁側は通知を送付したとだけ記録している。ギルド側が受け取ったかどうかを確認した記録はない。つまり、どちらも自分の管轄の処理は完了させたつもりでいる。でも連携していない」
ミレナが手帳に書き留めながら言った。
「送った側は届いたと思っている。受けた側は更新した記憶がない。……どちらも悪意はないのに、台帳にズレが生じている」
「その通りです。これが今回の話の一つ目の問題です」
アシュレイは指を一本立てた。
「市庁とギルドの業者台帳が同期されていない。これは制度上の不備であって、不正ではない。ただ、この不備があったから、休眠業者の名義が使えた」
「もう一つの問題は」とノラが続けた。「その名義が実際に使われた側に、意図があったかどうかよ」
問題の二つ目は、支払いの記録だった。
セルマが昨日提出した記録の中から、カステル鉱山補修名義の取引をすべて抜き出すとこうなった。取引件数は一年半の間に五件。支払いはいずれも現金一括ではなく、複数の小口振替。一件あたりの金額を小さく分散させている。受領者の署名は、五件すべてで違う名前だった。
「一件ごとに受領者が変わっている」
ミレナが声を落とした。
「通常の業者取引だと、担当者が決まっていて、大体同じ人が受け取りますよね。これは……」
「意図的に痕跡を薄くしようとした可能性がある」
ノラが断言するように言った。
「ただし、断定はしない。受け取りを毎回別の人間に頼んでいた業務上の理由があるかもしれない。だからこそ、受領者全員の照会が必要になる」
「名義、支払い、受領者。三点が全部別の問題として動いている」
アシュレイは手帳に書いた。
【カステル鉱山補修取引の照合軸:①名義(休眠業者の不正利用か制度不備か)②支払い(小口振替の意図)③受領者(毎回異なる署名の理由)】
「まず今日できることを片付けましょう。市庁とギルドの台帳のズレを確認します。ミレナさん、市庁側の通知送付記録と、ギルド側の受取記録の更新日を突き合わせてください」
「はい。もう台帳の写しは手元にあります」
ミレナが書類を広げ、比較を始めた。
問題が起きたのは、午後に入ってからだった。
市庁の庶務担当を呼んで確認を取ろうとしたところ、先方から明確な反発が来た。
担当者は四十代の中堅役人で、名をタウルスという。丁寧な物腰だが、目に確かな警戒がある。
「カステル鉱山補修の取引停止通知については、三年前に正式な書類を作成し、ギルドへ送付しています。市庁側の手続きは完了しております。それ以上については、こちらに責任はないかと」
「責任の話をしているわけではありません」
アシュレイは落ち着いた声で返した。
「送付したという記録はあります。ただ、送付方法と受取確認の記録が残っていないため、ギルド側の台帳が更新されなかった経緯を確認したいのです」
「送付した以上、受け取った側が台帳に反映しなかった問題ではないですか」
「送付した側が受取確認を取らなかった問題でもあります」
タウルスが少し黙った。
「……通知の送付方法は、当時は書留ではなく、通常便でした。受取確認は取っていません」
「その方法が当時の標準だったわけですね」
「そうです。取引停止通知は大量に出ます。全件に受取確認を求めると、業務量が膨大になりますので」
「分かりました。それは制度上の問題であって、あなたが手順を破ったわけではない」
タウルスが少し表情を緩めた。
「ただ、その方法では通知が届いたかどうかの確認ができない。結果として台帳が同期されなかった。この構造を今後どうするかという話を、後で市庁内で検討してもらいたい。今日はそこまでです」
タウルスは少し考えてから、頷いた。
「……承知しました。ただ、ギルド側が受取確認を怠ったという点についても、公平に扱っていただきたい」
「もちろんです。ギルド側にも同じことを伝えます」
セルマへの確認は、その夕方に行った。
アシュレイがタウルスとの会話の内容を説明すると、セルマは黙って聞いていた。
「つまり、市庁は通知を出した。うちは受け取った可能性があるが、台帳に反映した記録がない。どちらの手順にも問題があった」
「そういうことです」
「うちのギルドが非を認めることになる」
「非というよりは、改善すべき手順があったということです。意図的に台帳を更新しなかったわけではない」
セルマは少し間を置いた。
「……分かった。ギルド側の確認は私がやる。受取記録が残っているかどうか、探させる」
「ありがとうございます。もう一点だけ」
「何だい」
「今後の対応として、市庁が業者の登録状態を更新した際、ギルド側にも写しを定期的に届ける仮運用を始めたい。頻度は月一回程度で、受取確認の記録を残す形で。どうですか」
セルマはしばらく窓の外を見ていた。
「……手間が増える」
「増えます。ただ、今回のようなズレが再発した場合、どちらの台帳を信じるかで揉める手間に比べれば、小さい手間です」
「それは認める」
セルマは椅子の背にもたれた。
「月一回の写しを受け取る担当者を決めて、受領印を押す。それだけ守れれば回るね」
「それで十分です」
「分かった。こちらは受ける。市庁側も同じ手順を守ることを条件に」
「バルガス市長を通じて正式に取り決めます」
翌朝、ミレナが台帳の比較を仕上げてきた。
両者の更新日を並べた表は、一目で分かるようにできていた。
「市庁の通知送付記録は三年前。ギルドの台帳更新日は五年前のまま。通知が来てから二年間、ギルド側で台帳が更新されていない」
「受取記録は」
「ギルドの受付帳に、三年前の日付で市庁からの書状の受取記録がありました。ただし、それが業者登録更新に関するものだという分類がされていない。通常書類の束の中に混じっていた状態です」
つまり書状は届いていた。ただ、担当者が内容を確認せず、台帳更新へ繋げる手順がなかった。
「受け取ったが、誰もそれが台帳更新の必要な通知だと気づかなかった」
「そういうことです」
「悪意はなかった」
「なかったと思います」
アシュレイは手帳に経緯をまとめた。
【送付:市庁、三年前、通常便・受取確認なし。受取:ギルド、同時期、受付帳に記録あり。台帳更新:なし。原因:受取書類の内容分類なし、更新担当への引継手順なし。】
「報告書にまとめてください。市庁とギルドの双方への説明資料になります」
「はい」
ミレナがすでに次の羊皮紙を引き寄せていた。
カステル鉱山補修名義の取引については、その日のうちに一時凍結の通知が出た。
ノラが凍結命令の文書を作成し、アシュレイが署名し、バルガス市長が承認した。セルマを通じてギルド側にも同じ文書の写しが届けられた。
「凍結の対象は、カステル鉱山補修名義で発注された既存取引の全件です。解除条件は、受領者の照合と、名義利用の経緯が確認できた時点とします」
ノラが淡々と読み上げた。
「解除の判断は誰がしますか」
「ノラさんと私の連名で確認し、バルガス市長の承認を経て解除します。単独の判断では動かしません」
「了解しました」
もう一つ、台帳の定期配布については、バルガス市長を通じて市庁側の担当者に取り決めを通達した。月一回、業者登録状態の更新差分をギルドへ送付する。ギルド側の受領担当者が受取確認の押印をし、翌月の送付時に前回の受取確認を確認する。
「これで、同じ原因では再発しません」
ミレナが通達文の写しを台帳に綴じながら言った。
「ただ、問題の二つ目はまだ残っています」
「受領者が毎回違うという件ですね」
「はい。それは台帳の不備とは別の話で、誰かが意図的にやっていた可能性がある。こちらは照会が必要です」
「ローデリクさんを通じて動かします。今日中に依頼文を書きましょう」
夕方、ガルドが資料室を訪ねてきた。
珍しく書類を手に持っている。アシュレイが目を向けると、ガルドは机の上の取引一覧を示した。
「俺に聞かせてくれ」
声は静かだが、いつもより真剣な顔だった。
「カステルの名義で買われた資材、全部でどれくらいの量だ」
ミレナが一覧を確認した。
「木材が四十本、魔力樹脂が二十キロ、ランプ油が六十リットル、携帯食料が二十人分相当。……五件合計です」
ガルドはその数字を聞いて、しばらく黙った。
「……入口の補強だけなら、木材は十本で足りる。ランプ油も、点検なら一回五リットルで済む」
「それは」
「入口の補強だけのためなら、この量は多すぎる」
ガルドは一覧に視線を落としたまま、低く続けた。
「この量は、人間が奥まで入って、一定の期間そこに留まるための量だ。食料も同じ。二十人分というのは、全員が一斉に入るためじゃなく、交代で数週間かけて作業するための量に近い」
静寂が部屋に広がった。
「つまり」とミレナが言いかけた。
「盗掘じゃなく、計画的な作業だ」
ガルドが短く言い切った。
「何のための作業かは俺には分からん。ただ、資材の量は嘘をつかない。あの坑道の奥で、相応の人数が、相応の時間をかけて、何かをやっていた」
アシュレイは手帳に書いた。
【資材量の照合:入口補強に対して過剰。推定作業規模:複数人・複数週。目的:未確定。次の照合軸:作業人数・滞在日数・補強距離の仮算出へ。】
「ガルドさん。資材の種類と量から、作業の規模をもう少し具体的に推定できますか。人数と日数の仮算出で構いません」
「ああ。明日までに出す」
ガルドは書類を置いて立ち上がり、扉へ向かった。
「グラン。帳簿の仕事は俺には分からんが、こういう数字の読み方は職人の方が早い。必要なら使え」
「ありがとうございます」
扉が閉まった後、ミレナが手帳に次の項目を書き足した。




