第52話 アシュレイ不在の封鎖判断
イルダン市庁舎の会議室は、かつてないほど張り詰めた空気に包まれていた。
長机を囲むように座っているのは、辺境都市の再建を担ってきた実務のトップたちだ。若手事務官のミレナ、会計監査官のノラ、見張り隊副隊長のリオネル、職人頭のガルド、そして商人ギルド支部長のセルマ。
彼らを取り囲むように、市庁の一部役人や商人ギルドの関係者、旧鉱山周辺に農地を持つ住民代表が立って同席している。
「……以上が、昨夜から今朝にかけて旧鉱山区画外縁で確認された事象です。地鳴り、泥水の流出、そして不審な轍。これらは自然発生的なものではなく、人為的な作業の痕跡である可能性が極めて高いと考えられます」
ミレナが手元の資料を読み上げ、顔を上げた。
その報告を聞いた会議室の空気は、見事に真っ二つに割れていた。
「人為的な作業だと? そんな馬鹿な。あそこは十年以上前に閉鎖された完全な廃坑だぞ」
「だが、実際に音がして泥が出ているんだろう? もし毒でも流れてきたら、うちの畑はどうなるんだ!」
住民代表が不安そうに声を上げる。
「待ってくれ。だからといって、周辺の街道まで丸ごと立ち入り禁止にするのは横暴だ!」
商人ギルドの関係者が、机を叩いて反発した。
「旧鉱山横の抜け道を使えば、東の村までの輸送時間が半日で済むんだ。あそこを封鎖されれば、迂回で丸一日かかる。荷が遅れれば損失が出るんだぞ!」
「そうだ! だいたい、そんなに危険ならなぜ今まで放置していたんだ!」
住民と商人がそれぞれの不満を口にし、場が紛糾し始める。
そんな中、事勿れ主義の役人の一人が、咳払いをして口を開いた。
「まあまあ、落ち着きたまえ。確かに不気味な現象ではあるが、まだ実害は出ていない。それに、アシュレイ技術顧問がもうすぐ王都から戻られる予定だ。彼が到着してから、改めて判断を仰げばいいじゃないか。それまでは様子見ということで……」
責任を先送りしようとする役人の言葉。
かつてのイルダンなら、これで会議は終わり、「誰も責任を取らないまま放置される」のが常だった。
しかし、今のイルダンの実務者たちは違う。
「様子見などしている暇はない!」
声を張り上げたのは、防衛を担うリオネルだった。
彼は実直な武人らしい鋭い視線で、役人たちを睨みつけた。
「街の外縁で所属不明の集団が活動している可能性があるんだぞ。防衛隊の責任として、これ以上の接近を許すわけにはいかない。直ちに周辺を危険区域として封鎖するべきだ。……そして、俺が精鋭数名を率いて内部へ偵察に入り、直接状況を確認してくる」
リオネルの提案は、軍人としては極めて全うなものだった。見えない脅威があるなら、封鎖して実態を確かめる。
だが、その勇猛な提案を、野太い声が真っ向から叩き斬った。
「やめとけ、副隊長。あんたたちが死にてえなら止めねえがな」
腕を組んでいた職人頭のガルドが、鼻を鳴らす。
「いいか。旧鉱山ってのは、何年も手入れされてねえ地下の空洞だ。支柱の強度がどうなっているか、地盤がどれだけ緩んでいるか、俺たち職人にも分からねえ。そんな場所に、鎧を着た重装備の兵士がドカドカ踏み込んでみろ。ちょっとした震動で坑道ごと崩落するぜ」
「だが、実態が分からないまま放置するわけにもいかないだろう!」
「実態を知るために、現場をぶっ壊しちゃ世話ねえだろうが。……それに」
ガルドは卓上の見取り図を指で小突いた。
「今、入り口付近には新しい轍や足跡、泥の流れといった『何者がどう動いたか』の証拠が残ってる。あんたたちが踏み荒らせば、その貴重な物理的な証拠が全部パーになるんだ。入る前に、まず現場を保全するのが先決だ」
アシュレイが水路の汚染事件の時に見せた、「入る前に危険を数えろ」という実務の鉄則。ガルドはそれを完全に自分のものとして理解していた。
リオネルもハッとして、自らの性急な提案を恥じるように小さく頷いた。
「……確かに、その通りだな。武人の勘だけで動くのは、保守のやり方じゃない。偵察は取り下げる。外縁の封鎖に専念しよう」
リオネルとガルドが実務的な合意を形成する中、商人たちの不満はまだ収まっていなかった。
「現場に入らないなら、なおさら道を塞ぐ必要はないだろう! 俺たちの損失はどうしてくれるんだ!」
「うるさいね。あんたたち、計算もできないのかい」
商人ギルドの実務責任者であるセルマが、冷ややかな一瞥を投げかけた。
「旧鉱山横の道を半日から一日迂回する。確かにそれによる燃料費や時間の損失は痛い。……だけどね、もしあんたたちの荷馬車が不用意に近づいた振動で坑道が崩落したり、有毒な泥が街道にまで溢れ出したりしたらどうなると思う?」
「そ、それは……」
「街道そのものが完全に使い物にならなくなり、復旧に一週間はかかる。そうなれば、物流が死んで街の経済が止まる。……『一日の遅れ』と『一週間の完全停止』。商売人なら、いま道を止める方が安いってことくらい計算しな!」
感情論ではなく、冷徹なリスクとコストの比較(SLAの考え方)。
セルマの理詰めの一喝に、反発していた商人たちもぐうの音も出ず、押し黙った。
「セルマさんの言う通りです」
ミレナが立ち上がり、会議室の全員を見渡した。
「私たちは、アシュレイさんが戻られるのを『ただ待つ』のではありません。彼が到着した時、すぐに原因究明と対応に移れるよう、今の状態を『壊さずに保全する』のです。……調査を始めるための封鎖ではなく、調査前に現場を壊さないための封鎖です」
その毅然とした言葉に、もはや反論する者は誰もいなかった。
だが、実務は「全員が納得した」だけで終わらせてはいけない。
「方針は決まったわね。なら、口約束で終わらせないわよ」
会計監査官のノラが、分厚い羊皮紙の束を引き寄せ、羽ペンを猛烈な速度で走らせ始めた。
「封鎖命令は口頭指示では無効よ。今から正式な『暫定封鎖命令書』を作成するわ。……封鎖範囲、発令時刻、発令理由、責任者、解除条件、および写しの配布先。すべてを定義して、この私が原本を厳重に保管する」
「ノラさん、解除条件はどう記載しますか?」
「『王都監査院・特別技術監査官アシュレイ・グランの現地確認、および危険性なしとの承認が下りるまで』よ。これで、誰かが勝手に封鎖を解くことはできなくなる」
ノラのペンが止まると同時に、ミレナも自分のデスクに広げていた書類の束を素早く整理した。
「では、私はこの命令書を元に、住民向けの『封鎖区域のお知らせ』と、商人ギルド・防衛隊向けの『迂回および巡回指示書』の写しを作成します。……皆さん、情報が確実に届いた証明として、必ずここに受領印をお願いします!」
ミレナが用意した写しの端には、以前の教訓を活かした『通し番号』と『受領印』の枠がしっかりと印刷されていた。
各代表者が次々と印を押していく。
「よし。防衛隊はこれより、指定された範囲に封鎖線を敷く。部下には『絶対に内側へ足を踏み入れるな。外から見て異常があれば記録しろ』と徹底させる」
「俺は現場に行って、どこまでなら近づいても地盤に影響が出ねえか、安全距離の限界線を引いてやる。柵を立てる位置も俺が指示しよう」
「あたしはギルドに戻って、全隊商に迂回ルートを通達する。……まったく、忙しい日になりそうだね」
誰か一人が絶対的な命令を下したわけではない。
防衛、現場、物流、記録、監査。それぞれの専門家が、自分たちの職責において何が最適かを判断し、見事な連携で一つの「初動対応」を組み上げたのだ。
臨時会議は、迅速かつ完璧な形で終了した。
◆◆◆
数時間後。
イルダンの北西、旧鉱山区画の入り口付近。
そこにはすでに、真新しい木製の柵が立てられ、ミレナが作成した『立ち入り禁止・証拠保全区域』の掲示が風に揺れていた。
柵の外側にはリオネルの部下たちが等間隔で配置され、何人たりとも近づけないよう厳重な警備網を敷いている。
「ご苦労。異常はないか」
「はっ! 副隊長! 先ほど遠くから様子を窺おうとする者が数名おりましたが、封鎖線を見て引き返していきました!」
リオネルの問いに、若い隊員が敬礼して答える。
そのやり取りの横で、職人頭のガルドは封鎖線の内側に入らず、外側のギリギリのラインから、目を細めて坑道の入り口をじっと観察していた。
「……ガルド。何か分かるか?」
リオネルが尋ねると、ガルドは腕を組み、忌々しげに舌打ちをした。
「……あそこだ。坑道の入り口を支えてる、あの太い支保工の柱を見てみろ」
ガルドが指差した先。
十年以上放置され、風雨に晒されて真っ黒に朽ち果てた木材が並ぶ中で、入り口の奥にある数本の支柱だけが、妙に白茶けて見えた。
「……あの木材、古くねえな。表面の削り跡も新しい」
ガルドの低い声が、静かな風の中に溶ける。
「十年も放置された廃坑の入り口が、あんなに綺麗に保たれてるわけがねえ。……誰かがごく最近、ここを『支え直して』やがる。それも、中へ安全に入るために、計算された職人の手際でな」
獣の仕業でも、自然現象でもない。
明確な意図を持った何者かが、未管理の闇を利用して、イルダンの足元に侵入している。
「……油断するなよ、副隊長。グランの旦那が戻ってくるまで、絶対にここを死守しろ」
「ああ。分かっている」
眠っていた遺構は、すでに何者かの手によって開きかけられている。
アシュレイ・グランという「仕組みの構築者」の帰還を、辺境都市の現場は固唾を呑んで待ち構えていた。




