第51話 静かな警報は、旧鉱山から来た
王都魔導庁における大規模な制度改革の決定と、アシュレイ・グランが『王国都市基盤・特別技術監査官』に就任したという報せは、瞬く間に辺境都市イルダンへと届いていた。
「グランさんが、王都の監査院直属の特任官に……。しかも、最初の視察先として、このイルダンにもうすぐ戻ってくるなんて!」
「ああ。王都の腐った役人どもを論破して、新しい保守の仕組みを国全体に認めさせたって話だ。やっぱりあの旦那は、タダ者じゃなかったんだな」
イルダンの役所内は、朝からどこか浮き足立った空気に包まれていた。
数ヶ月前まで、王都から左遷されてきたただの「落ちこぼれの保守官」として冷ややかな目で見られていた男が、今や王国全土の都市基盤を監査する特権を持って帰還するのだ。手のひらを返したように色めき立つ一部の役人たちを尻目に、若手事務官のミレナ・フォートは、自分のデスクで黙々と分厚い書類の束と向き合っていた。
「ミレナ君。グラン殿が戻られる前に、歓迎の祝賀会の手配をしておかなくてはな。君からも防衛隊や商人ギルドに声をかけておいてくれないか?」
すっかり機嫌を良くした年配の役人が話しかけてくるが、ミレナは羽ペンを止めることなく、静かに首を横に振った。
「お断りします。グランさんがそういう無駄な行事や見栄をどれほど嫌うか、ご存知ないんですか? そんな準備をする暇があるなら、昨日提出された各区画の監視表の処理を手伝ってください。まだ第三区画の水圧データの入力が終わっていませんよ」
「うっ……し、しかしだな、特任監査官殿を迎えるのに、いつも通りの殺風景な役所というのも……」
「『いつも通り』の業務が完璧に回っていることこそが、グランさんへの最大の歓迎です」
ピシャリと言い切るミレナの毅然とした態度に、役人は渋々といった様子で自分の席へと戻っていった。
ミレナは小さく息を吐き、再び目の前の『定期監視表』へと視線を落とした。
アシュレイが王都へ向かってからの一週間余り。イルダンの街は、彼が不在でも致命的な障害を起こすことなく、静かに、そして力強く脈打っていた。
それは、アシュレイという一人の天才がいたからではない。彼が残した『辺境都市イルダン・運用保守標準マニュアル』という仕組みと、それを実直に回し続けるミレナたち実務者がいたからだ。
「よし、第三区画は正常。第五区画の仮設照明も、魔力消費量に異常なし……っと」
送られてきたデータを順番に台帳の写しへと転記していく中、ミレナの手が一枚の羊皮紙の前でピタリと止まった。
それは、街の設備からの報告ではなく、北西の城壁外縁を巡回していた見回り隊員から提出された、手書きの報告書だった。
『発見者:北西部外縁見回り隊班。
状況:昨夜未明、旧鉱山区画の方角から、低くくぐもった地鳴りのような震動を感知。また、同区画から続く古い排水溝にて、赤茶色に濁った泥水が少量流出しているのを確認。封鎖済みの坑道入口付近の地面に、新しい轍らしき跡あり。
備考:魔物侵入の形跡や、結界への干渉はなし。風か獣によるものと思われる』
ミレナは、その報告書の文面を何度も目でなぞった。
旧鉱山区画。かつてイルダンが鉱山資源で栄えていた頃に掘り進められ、十年以上前に資源が枯渇して閉鎖されたはずの、完全な死蔵区画だ。現在は立ち入り禁止となっており、街の魔力網からも切り離されている。
「風か獣のせい……」
普通の役人なら、報告書の『備考』に書かれたその一文を見て、「魔物ではないなら問題ない」と判断し、書類を『対応不要』の箱へ放り込んで終わりにしていただろう。
だが、ミレナの頭の中には、アシュレイが徹底的に叩き込んだ実務者としてのルールが鳴り響いていた。
『――迷うなら、異常ありとして上げてください。誤報は直せますが、未報は街を壊します』
ミレナは報告書に書かれた事象を、頭の中で時系列と物理的な条件に分解して整理し始めた。
夜間の地鳴り。
古い排水溝から流れ出た濁った泥。
そして、使われていないはずの場所にある新しい轍。
「……おかしい。獣の群れが走っただけで、地鳴りがするほどの震動が起きるはずがないわ。それに、最近は雨も降っていないのに、どうして排水溝から泥水が流れてくるの? 新しい轍があるなら、誰かが意図的に荷馬車を近づけたということ……」
時間、場所、天候、そして物理的な痕跡。
それらが妙に一つの方向――「何者かが、使われていないはずの旧鉱山で、大規模な作業を行っている」という仮説へと綺麗に揃いすぎている。
ミレナは即座に立ち上がり、報告書の端に赤インクで『要確認(インシデント疑い)』のスタンプを力強く押し付けた。
「ミ、ミレナ君? どうしたんだ、そんな古い廃坑の報告書に赤印なんて押して。ただの獣の通り道だろう?」
「獣は荷馬車を引きません。これは明らかな異常の兆候です」
事勿れ主義の役人の言葉を切り捨て、ミレナは報告書を握りしめたまま、役所に設置されている魔導通信機の前に走った。
『――こちら北の防壁、副隊長リオネルだ。どうした、ミレナ。結界に異常か?』
「リオネル副隊長! 昨夜の巡回報告について確認です。旧鉱山区画での地鳴りと泥の流出ですが、現在その周辺はどうなっていますか?」
『ああ、その報告なら俺も目を通した。結界の外側だから直接的な脅威ではないと判断したが……。念のため、もう一度巡回隊を回してある』
「ありがとうございます。ですが、絶対に『中には踏み込ませない』でください」
ミレナの強い念押しに、通信機越しのリオネルが怪訝そうに息を呑む音が聞こえた。
『踏み込ませない? なぜだ。怪しい動きがあるなら、中を確認するのが筋だろう』
「状況が不明なまま不用意に踏み込めば、相手が罠を張っていた場合や、坑道が崩落しかけていた場合に二次被害が出ます。それに、現場の足跡や泥の流出経路といった『物理的な証拠』を踏み荒らしてしまう可能性があります。……外縁からの観察と、封鎖の強化だけに留めてください」
それは、かつてアシュレイが水路の異臭騒ぎの際に徹底した「入る前に危険を数え、証拠を保全する」という実務プロセスそのものだった。
ミレナの的確な指示に、リオネルはフッと感心したように鼻を鳴らした。
『……なるほどな。グラン殿の薫陶がすっかり染みついているようだ。分かった、部下には絶対に封鎖線を越えさせるなと厳命しておく。……だが、あの廃坑に今更何の用があるというんだ?』
リオネルとの通信を切った直後、役所の入り口からドカドカと荒々しい足音が響いてきた。
「おい、役所の嬢ちゃん! 聞いたぜ、旧鉱山の方で地鳴りがしたってな!」
煤にまみれた作業着姿の職人頭、ガルドだった。彼は手にした巨大なレンチを肩に担ぎ、厳しい顔つきでミレナのデスクに歩み寄った。
「ガルドさん! お仕事中じゃないんですか?」
「現場の若い衆から噂を聞いてすっ飛んできたんだよ。……いいか、嬢ちゃん。俺たち長年地下に潜ってる職人の耳を舐めるなよ。獣の群れの足音と、地下の空洞で重い支保工が軋む『地鳴り』の音の違いぐらい、嫌でも分かる」
ガルドはミレナの机の上に身を乗り出した。
「あれは自然の音じゃねえ。誰かが、あの廃坑の奥で『物理的に何かを掘って』やがる音だ。それも、素人の盗掘なんかじゃない、ある程度規模のデカい工事の音だ」
「工事……! でも、あそこは完全に閉鎖されたはずです」
「だから妙なんだよ」
ガルドに続いて、今度はヒールをコツコツと鳴らしながら、商人ギルドの実務責任者セルマが姿を現した。
彼女の鋭い切れ長な目は、いつになく真剣な光を帯びていた。
「セルマさんまで……」
「商人ギルドの耳は早いからね。……ミレナ。あんたが異常だと判断したのは正解だよ。実はここ数日、ギルドの正規ルートを通さずに、旧鉱山の方角へ向かっていく不審な荷馬車が何度か目撃されている」
セルマは腕を組み、冷徹な声で事実を並べた。
「積み荷は分からなかったそうだが、車輪の沈み具合からしてかなりの重量物だ。それに、馬車の車輪には泥がついていなかった。わざわざ轍を消すような偽装魔法をかけて走っていたらしい」
地鳴り。泥の流出。そして、偽装された荷馬車の出入り。
バラバラだった現場のピースが、ミレナの机の上で一つの明確な「事件の輪郭」を形成していく。
「……誰かが、役所の許可も得ずに、旧鉱山区画の奥で大規模な作業を行っている。それも、わざわざ痕跡を隠しながら」
ミレナが呟くと、後ろで聞いていた事勿れ主義の役人たちが慌てて口を挟んだ。
「お、おい君たち! そんな勝手な推測で大騒ぎをするんじゃない! もしそれが本当だとしても、我々だけでどうにかできる問題ではないだろう! アシュレイ技術顧問がもうすぐ戻られるんだ。彼が到着してから判断を仰げばいいじゃないか!」
「ダメです!」
ミレナは役人をキッと睨みつけ、はっきりと拒絶した。
「グランさんが戻られるのを『待つ』のではありません! 彼が戻ってきた時に、すぐに行動へ移せるよう、私たちが今ここで『事実を揃えておく』んです。それが、彼からこの街を任された私たちの実務です!」
ミレナの気迫に、役人は口をパクパクさせたまま引き下がった。
ガルドとセルマは、頼もしげに顔を見合わせてニヤリと笑う。
「言ってくれるじゃねえか。じゃあ、俺は職人を数人見繕って、遠巻きから地質と泥の成分を確認してくるぜ」
「あたしは商人ギルドの裏帳簿を洗って、最近大量の木材や油を買い占めた怪しい業者がいないか、物流の面から探りを入れておくよ」
「お願いします! 私は、旧鉱山区画の正式な『台帳』を確認して、彼らがどのルートから侵入した可能性があるか、構造を洗います!」
アシュレイ・グランという一人の英雄が不在であっても。
辺境都市イルダンは、それぞれが自立した実務者として、自らの役割を全うし始めていた。
◆◆◆
数十分後。
役所の最下層にある、カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込める『過去資料室』。
ミレナは、分厚い台帳の山に埋もれるようにして座る会計監査官、ノラ・クレメントの前に立っていた。
「ノラさん。旧鉱山区画の設立図面と、閉鎖時の記録を出してください。現場の痕跡と、元の構造を照らし合わせたいんです」
「旧鉱山の記録ね。……ちょっと待ってて」
ノラは丸眼鏡を押し上げ、机の横に積まれた古い木箱の中から、該当する年代の革張りの台帳を引きずり出した。
パラパラと重いページをめくる音が、静かな地下室に響く。
だが、ノラの指先が、あるページでピタリと止まった。
「……え?」
ノラの口から、微かな困惑の声が漏れる。
「どうしました、ノラさん? 図面、ありましたか?」
「図面は……あるわ。だけど……」
ノラは眉を深くひそめ、さらに別の書類の束――監査用の支出記録や、資産管理のインデックスを次々と引っ張り出しては、ページをめくる速度を上げていった。
その顔つきが、次第に血の気を失い、険しい監査官のそれへと変わっていく。
「ミレナ。あなた、旧鉱山は『十年以上前に閉鎖された』と言ったわよね?」
「は、はい。行政の記録では、資源が枯渇したため立ち入り禁止措置が取られたと……」
「おかしいわ」
ノラは、ドサリと分厚い台帳をミレナの前に広げ、その一部を強く指差した。
「ここを見て。旧鉱山区画の『閉鎖』を指示した行政の命令書らしき写しは、確かに挟まっている。……でも、その決定を下した際の『原本』が存在しないのよ」
「原本が、ない……? そんな、ボルトン前市長の時代に紛失したんじゃ……」
「それだけじゃないわ」
ノラの声は、薄ら寒くなるほど冷徹だった。
「閉鎖工事を行ったはずの現場確認者の署名がない。坑道入口を物理的に封鎖した責任者の名前もない。撤去したはずの魔力設備の一覧も白紙。……さらに言えば、アシュレイが先日導入したルールに従えば、ここは『停止資産』としての管理番号が振られていなければならないはずなのに、その番号すら割り当てられていないのよ」
それは、単なる書類の紛失や事務的なミスというレベルの話ではない。
「つまり……どういうことですか?」
ミレナが震える声で尋ねる。
ノラは丸眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、静かに、だが決定的な事実を告げた。
「旧鉱山区画は、『閉鎖済み』なんかじゃないわ。……行政の手によって、管理された記録が、最初から存在していないように『意図的に抹消されている(未管理状態にある)』のよ」
背筋に冷たい汗が伝うのを、ミレナは感じた。
誰も使っていない、閉ざされた廃坑。そう思い込んでいた場所は、そもそも台帳上から切り離され、誰の管理も監査も届かない「見えない空白地帯」として長年放置されてきたのだ。
そこで今、何者かが人知れず巨大な作業を進めている。
王都から帰還する特任監査官を待つイルダンに、新たな、そして極めて厄介な「見えない負債」が、静かにその口を開けていた。




