第50話 保守は雑務ではない
本来であれば、今日この日は、王都セントラルが一年で最も華やぐ『建国記念祭』の当日となるはずだった。
ダリウス・ヴァン・アスター前局長の計画によれば、王都の上空には過去最大規模の巨大な幻影が舞い、過剰なまでの光のパレードが街を覆い尽くしているはずだったのだ。
だが、現在の大広場に、派手な幻影演出はない。
空に浮かぶのは、朝陽を反射して柔らかく輝く、薄く強固な外縁結界だけだ。
建国記念祭の式典に代わって開かれたのは、装飾を一切排した『王都基盤復旧報告会』であった。
広場に集まった数十万の市民たちの前に提示されたのは、見栄えの良い魔法ではない。
地下深くから響いてくる、旧式安全核の力強く安定した稼働音。
泥水が逆流していた水路から、再び溢れ出した清らかな浄水。
そして、停止していた地下リフトが息を吹き返し、食料や物資を運ぶ物流網が完全に再開したという、確かな生活の息吹だった。
演壇に立った王国の宰相が、拡声の魔導具を通して、集まった市民と貴族たちへ向けて厳かに宣言した。
「王都の民よ。数日前、我々はこの王都が完全な暗闇と暴走の危機に瀕するという、かつてない事態に直面した。……その大規模障害の主因は、設備の老朽化などではない。新規開発局が安全基準を無視して強引に増幅器を接続し、現場からの警告を意図的に隠蔽したことにあったのだ」
広場が静まり返る。
ダリウスの罪と、システムの腐敗が、包み隠さず王国の公式見解として白日の下に晒されたのだ。
「そして、我々は過去に大きな過ちを犯していた。これまで新規開発ばかりを重用し、都市を支える保守部門に責任だけを押し付けてきた。……数年前の障害において、保守局へ責任転嫁を行い、当時の保守主任アシュレイ・グランを辺境へ追放した処分は、完全に不当なものであった」
宰相の言葉に、市民たちの間でどよめきが広がる。
だが、宰相はさらに力強く声を張り上げた。
「彼は辺境の地で、正しい運用のあり方を証明し、再びこの王都を救ってくれた。我々はこれを機に、国家の評価軸を根本から改める! 保守、監査、記録、そして再発防止こそが、王国都市基盤における真の中核業務であると、ここに正式に認めるものである!」
割れんばかりの拍手が、広場を包み込んだ。
それは、英雄に対する熱狂ではない。自分たちの当たり前の日常が、いかに尊く、いかに多くの裏方の手によって守られているかを知った人々の、心からの感謝の音だった。
アシュレイ・グランは、その拍手の輪から少し離れた回廊の影で、静かに腕を組んで演壇を見つめていた。
彼の表情は、相変わらず地味な作業着姿のままで、微塵も変わっていない。王都は彼を「王都を救った英雄」として壇上に祭り上げようとしたが、アシュレイはそれを固辞した。
彼が欲しかったのは、個人の名誉を示す称号ではない。二度とこのような悲劇を繰り返さないための、堅牢な「仕組み」だったからだ。
「……どうやら、私の言葉は正しく届いたようですね」
背後から声をかけられ、アシュレイが振り向くと、そこには王都監査院の特別監査官ローデリク・フェインが立っていた。彼の手には、新しく制定された『王国標準運用保守規程』の分厚いファイルが握られている。
「ええ。お見事でした、ローデリクさん。これで監査院の権限も強化され、原本ログの管理制度も本格的に進められますね」
「ダリウスのような輩に二度と手出しはさせません。監査院側で、改ざん不可能な原本ログ管理制度を即日稼働させます。……しかし、本当にこれで良かったのですか? あなたが新設された王都保守局のトップに座れば、この街のインフラは盤石になるというのに」
「私がトップに座ってすべてを指示するようでは、結局、私という個人への属人化に陥ります」
アシュレイは、演壇の横で胸を張って並んでいる二人の男――若手技師のエルリックと、ベテラン主任補佐のゲイルを指差した。
「新しい王都保守体制の中核として任命されたのは、彼らです。現場の痛みを知り、ダリウスの圧力下でも決して異常から目を背けなかった彼らこそが、この街のシステムを守る本物の実務者です。……私は彼らに、判断の基準を残しました。あとは、彼らが自分たちの手で運用を回していくはずです」
エルリックとゲイルは、現場の泥と煤にまみれた作業着のまま、誇らしげに市民の拍手に応えていた。
彼らはもう、上の機嫌を窺って嘘の報告書を書く必要はない。迷えば「異常あり」として堂々と声を上げ、システムを止める権限を持っているのだ。
アシュレイは手帳をポケットにしまい、小さく息を吐いた。
王都魔導庁で冷遇され、責任を押し付けられて追放された日々。あの頃、彼は保守という仕事をただの「修理屋」だと世間から見下されていることに、どこか諦めを感じていた。
だが、辺境都市イルダンでの泥臭い再建を経て、彼は一つの明確な答えに辿り着いた。
保守は、壊れた後に呼ばれる雑務ではない。
壊れる前から、当たり前の日常を守り続ける仕事である。
それが、アシュレイ・グランがこの世界に証明した、実務者としての究極の答えだった。
◆◆◆
報告会が終わり、夕暮れが近づく頃。
アシュレイは、王都の城門前に用意された馬車の前に立っていた。
彼が新たに得た肩書は『王国都市基盤・特別技術監査官』。王国全土を飛び回り、インフラの監査と指導を行う特任職だ。
だが、彼が王都に縛られることなく、最初の目的地として選んだのは、因縁の辺境都市イルダンへの帰還だった。
「主任! 本当に、本当に行っちゃうんですか……!」
見送りに来たエルリックが、名残惜しそうにアシュレイの前に立つ。
「ええ。王都のことは、あなたとゲイルさんに任せます。マニュアルにない異常が出たら、いつでも私の直通回線に連絡してください」
「任せてください! 主任が残してくれた『王国標準』のルール、俺たちが絶対に死守してみせます!」
「おう。たまには王都にも顔を出して、俺たちの仕事ぶりを監査しに来てくれよな、特任監査官殿」
ゲイルが豪快に笑い、アシュレイの肩をバンバンと叩く。
彼らと固い握手を交わし、馬車に乗り込もうとしたその時。
アシュレイの腰に提げていた通信魔導具が、けたたましい緊急のコール音を鳴らした。
発信元は、イルダン市庁舎の専用回線だ。
「……アシュレイです。どうしました、ミレナさん」
『グ、グランさん! 良かったです、繋がって!』
通信機から飛び出してきたのは、息を切らしたミレナの声だった。背後からは、リオネルの防衛隊が慌ただしく動く金属音が聞こえてくる。
『正式な緊急連絡です! 先日お伝えしていた、旧鉱山区画外で確認されていた不審者たちの動向ですが……リオネル副隊長の強行偵察によって、彼らの目的が判明しました!』
「目的、ですか」
『はい! 彼らはただの野盗ではありません。旧鉱山のさらに奥深く、王都の第一層にあったのと同じ……『古い安全核』と同系統の古代遺構を、ピンポイントで探して掘り起こそうとしています!』
その報告に、アシュレイの目がスッと細められた。
見送りに来ていたエルリックたちも、ただならぬ空気を察して息を呑む。
「……やはり。ただの偶然ではないということですね」
王都の地下で、アシュレイが見た古代の幾何学模様。
それが辺境都市イルダンの心臓部にも存在し、さらに外の世界の何者かが、その「古い仕組み」を意図的に探し集めている。
『ノラさんが過去の支出記録から、彼らのスポンサーらしき資金の流れを追っていますが、完全にダミー会社を経由していて尻尾が掴めません。……グランさん、彼らは一体、何をしようとしているんでしょうか?』
「分かりません。ですが、インフラの根幹に関わる遺物を無秩序に掘り起こせば、大陸全土の魔力網に致命的なエラーを引き起こす可能性があります」
アシュレイは馬車に片足をかけ、通信機に向かって力強く告げた。
「……すぐに戻ります。防衛隊には旧鉱山方面の警戒レベルを維持させ、ガルドさんたち職人班には、万が一の魔力逆流に備えてバイパスの準備をさせておいてください」
『はいっ! 臨時都市基盤責任者のお帰り、お待ちしています!』
通信が切れ、アシュレイは馬車の座席に腰を下ろした。
王都での巨大な戦いは終わった。だが、実務者の仕事に「完全な終わり」など存在しない。
一つのエラーを修正すれば、システムは次のフェーズへと移行し、新たな課題が必ず表面化するのだ。
アシュレイは、使い込まれた手帳を取り出した。
そして、王都での大規模障害の報告書の最後に、新しいインクで力強く一行の文字を書き加えた。
『応急対応、完了。』
『制度化、第一版制定。』
『課題:古い仕組みを、誰が何のために集めているのか。』
パタン、と手帳を閉じる。
追放された運用保守担当の男は、窓の外で遠ざかっていく王都の景色に背を向け、迷いのない眼差しで真っ直ぐに前を見据えた。
壊れた日常を直し、未来へと繋ぐための終わらない実務が、再び辺境の地から始まろうとしていた。




