第49話 王国標準運用保守規程
王城の中心に位置する、円形の『大評議室』。
王国の中枢を担う大貴族、各省庁の長官、そして監査院の最高幹部たちが集うこの厳粛な議場は、かつてないほどの紛糾に包まれていた。
「断じて認められん! 保守部門などにこれほどの権限を与えれば、我が国の魔導技術の発展は完全に停滞するぞ!」
「そうだ! 新規設備を導入するたびに、いちいち保守局の『レビュー』とやらを通さねばならないだと? それでは開発のスピードが他国に遅れをとるではないか!」
「それに、監査院がログの原本をすべて握るというのも危険だ! 監査院の権限が肥大化し、魔導庁への過剰な政治的介入を招く恐れがある!」
声を荒げているのは、開発推進派の貴族たちや、ダリウスが失脚した後もなお「開発至上主義」の夢から覚めない一部の重役たちだった。
彼らの怒りの矛先は、円卓の中央に提出された一冊の分厚い規程案――アシュレイ・グランとローデリク・フェインが起草した、『王国標準運用保守規程』の草案に向けられている。
王都魔導庁内部での組織改編案は通ったものの、それを「王国全土の標準ルール」として法制化するには、この大評議室での承認が不可欠だった。
「フェイン特別監査官。今回の王都の大規模障害において、ダリウスの暴走を止めた君たちの功績は認める。だが、それはあくまで『一時の危機対応』だ。王都の威信を傷つけるような事故の報告書を公式な記録として残し、さらには現場の平民技師の裁量を強めるなど、国家の秩序を揺るがす行為だ!」
重鎮の一人が机を叩き、ローデリクを鋭く睨みつける。
ローデリクは銀縁の眼鏡をスッと押し上げ、静かに反論しようとした。
だが、それよりも早く。
傍聴席の最前列に座っていたアシュレイ・グランが、ゆっくりと立ち上がり、議場の中央へと歩み出た。
「……開発のスピードが遅れる。それは、よくある誤解です」
煤の落ちた清潔な作業着を身に纏ったアシュレイの、氷のように静かで、しかしよく通る声が、喧騒に包まれていた大評議室をピタリと静まらせた。
「な、なんだ貴様は! 追放された一介の保守技師が、大評議の場で口を挟むな!」
「私は、本規程の起草者として、実務の観点からお答えしています。……皆様、勘違いをなさらないでいただきたい。私は、新規開発を否定しているわけではありません」
アシュレイは円卓の重鎮たちを真っ直ぐに見回した。
彼は決して、古い技術にしがみつく回古主義者ではない。都市の基盤を守り、未来へ繋ぐ実務者だ。
「新しい技術は、都市を豊かにし、人々の生活を向上させるために不可欠です。開発を止めることは、国家の死を意味します。……ですが」
アシュレイは言葉を区切り、一言一言に重みを込めた。
「開発を『続けるためにこそ』、強い権限を持った保守が必要なのです」
「詭弁だ! 保守の審査など、開発のブレーキにしかならんではないか!」
「ええ、その通り。保守はブレーキです。ですが、ブレーキのない馬車は早く走れるのではありません。……早く事故を起こし、二度と走れなくなるだけです」
その直喩に、反対派の貴族たちが押し黙る。
彼らの脳裏には、数日前に王都を襲った、あの恐ろしい暗闇と魔力炉の暴走の光景が焼き付いていたからだ。
「壊れた時に止められない開発は、発展ではなく『自爆』です。ダリウス前局長の開発は、システム全体の容量を計算せず、限界を超えたアラートを無視して走り続けた結果、王都の半分を破壊しかけました。……保守局のレビュー義務と、緊急停止権限は、開発を邪魔するためではなく、開発による『自爆』から国家を守るための、最低限の安全装置なのです」
アシュレイの徹底して論理的で、実務の重みに裏打ちされた正論。
それは、感情や政治的な駆け引きで反発していた重鎮たちの論理を、完全に粉砕した。
「……フェイン監査官」
円卓の最奥に座る、王国の宰相が重々しく口を開いた。
「その規程案の骨子を、もう一度、この場で読み上げたまえ」
「はっ」
ローデリクは一礼し、アシュレイと共に作り上げた、辺境と王都の血と汗の結晶である規程案を開いた。
「本規程は、以下の九項目を骨子とします」
ローデリクの澄んだ声が、大評議室に響き渡る。
「第一に、新規設備導入時の『保守局レビュー義務』。開発部門は独断での接続を禁じられ、必ず保守部門の安全審査を通過しなければならない。
第二に、システム全体の『容量設計と負荷試験の記録義務』。
第三に、非常時および平時における『優先供給基準(SLA)の事前合意』」
それは、アシュレイがイルダンの防衛隊や商人ギルドと激論を交わし、合意形成を図ったあの泥臭いルールの王都版だった。
「第四に、致命的エラー検知時の保守局による『緊急停止権限』の付与。
第五に、改ざんを防止するための『原本ログの監査院保管』。
第六に、『迷うなら上げろ』の原則に基づく、現場報告者の確実な保護」
エルリックたち現場の技師が、嘘をつかずに済むための防波堤。
「第七に、稼働資産だけでなく『停止資産・仮設資産・非常用資産』の厳密な台帳分類と期限管理」
ノラがイルダンで確立し、旧式安全核の復活に繋がった「見えない負債の可視化」の仕組み。
「第八に、全区画における定期的な『障害対応訓練』の実施。
そして最後に、これら運用を確実に維持するための『保守予算の最低保証』。……以上です」
ローデリクが読み終え、議場に深い静寂が訪れた。
誰も、反論できなかった。
なぜなら、この九項目はすべて、アシュレイが辺境都市イルダンと王都の二つの巨大な危機を、実際に救ってみせた「実績のある解決策」そのものだったからだ。
「……見事だ」
宰相が、深く息を吐き出して呟いた。
「単なる机上の空論ではない。王都の腐敗を切り裂き、辺境の現場で血肉を通わせた、極めて実践的な規程案だ。これを拒めば、我々は再び自らの手で国を焼くことになるだろう」
宰相は立ち上がり、大評議室の全員を見渡した。
「これより、本草案を王国全土のインフラ運用における暫定規程として承認する! 正式名称は仮に、『王国都市基盤運用保守標準規程・第一版』とする!」
「おお……っ!」
議場のあちこちから、感嘆と安堵のどよめきが漏れる。
それは、アシュレイ・グランという一人の男の評価が、一時の「英雄」という曖昧なものではなく、王国の「制度の正当性」として永遠に刻み込まれた瞬間だった。
彼を追放した評価軸そのものが、今、完全に正されたのである。
「アシュレイ・グラン殿」
宰相が、真っ直ぐにアシュレイを見た。
「この規程を『第一版』としたのには理由がある。……規程は作って終わりではない。各都市の事情に合わせ、現場で運用し、改善し続けなければならない。君なら、それがよく分かっているはずだ」
「ええ。運用保守に、完全な終わりはありませんから」
アシュレイは静かに頷いた。
「よって、君に新たな辞令を交付する」
宰相は、ローデリクから受け取った一枚の羊皮紙をアシュレイへ差し出した。
「君には、王都魔導庁の保守局長への復職は求めない。君の役割は、一都市に縛られるべきものではなくなった」
宰相は、かつて王都を追放された実務者に対し、最高の敬意を込めて告げた。
「これより君を、王都とイルダン、そして王国の全都市を横断して保守体制を監査し、整備を指導する、王国直属の特別職……『王国都市基盤・特別技術監査官』に任命する」
王都魔導庁という一組織の枠を超えた、国直属の特権。
アシュレイは差し出されたその辞令を、万感の思いを込めて両手で受け取った。
「謹んでお受けいたします。……ですが、宰相閣下」
アシュレイは辞令を胸に抱き、少しだけ口元を綻ばせた。
「本格的な王国の監査業務に入る前に、私は一度、辺境都市イルダンへ戻らなければなりません」
「ほう? 王都での新体制構築よりも優先すべき事態かね?」
「ええ。あそこにはまだ、私の帰りを待っている優秀な『チーム』がいます。それに……」
アシュレイは、手帳に記された最後の懸案事項――旧鉱山区画の不穏な影を思い浮かべた。
「この規程の第一版を、最初に適用してテストすべき現場が、あそこにはあるのです」
事後整理と制度化の戦いは、王国の承認という最大の勝利をもって完了した。
だが、実務者の仕事は立ち止まらない。
アシュレイ・グランは、王国のインフラを背負う新たな肩書を胸に、彼を待つ仲間たちのいる辺境へと、再び歩みを進めようとしていた。




