第48話 イルダンからの正常報告
「……現場から上がってくるその膨大な『異常』の報告を、一体誰が受け取って、誰が判断するんですか?」
王都魔導庁の地下、都市基盤保守局の詰所。若手技師エルリックの切実な問いかけに、室内は重い沈黙に包まれた。
『迷うなら異常ありとして上げろ』という新しい報告原則が定まったことで、現場の技師たちは長年の「嘘をつかなければならない」という呪縛から解放された。だが、それは同時に、これまで隠蔽されてきた無数の小さなエラーが、一気に報告のテーブルへ乗せられることを意味する。
現場の一次ログを吸い上げ、それが誤報か本当の危機かを切り分け、修理の優先順位を決め、予算を確保して指示を出す。その『判断の要』が不在のままでは、システムはすぐにパンクしてしまう。
「だからこそ、アシュレイ技術顧問」
沈黙を破ったのは、同席していた王都監査院のローデリクだった。
「あなたに新設される保守局のトップに立っていただきたいという声が、王都上層部で日増しに強くなっているのです」
ローデリクは銀縁眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「長官も言っていたでしょう。この巨大な王都の魔力網の痛みを一番よく知り、各局との調整を押し切れる胆力と実務能力を持つのは、あなたしかいない。……あなたが判断のトップに座れば、この街の運用は必ず正常化する」
ゲイルをはじめとする現場の技師たちも、「アシュレイ主任が上に立ってくれるなら、俺たちは死ぬ気で働くぜ」と期待の眼差しを向けている。
誰もが、アシュレイという「一人の有能な英雄」に、王都の未来を委ねようとしていた。
だが、アシュレイの表情は少しも晴れなかった。
「……お断りします。それは、最も危険な選択です」
「なぜです! あなたなら、あのダリウスのような過ちは絶対に犯さないはずだ!」
「私個人のモラルの問題ではありません、ローデリクさん。……一人の有能者に依存する運用は、いずれ必ず破綻します」
アシュレイは手帳を開き、白紙のページをペンでトントンと叩いた。
「私が一人でトップに座り、すべての判断を下すシステムを作ったとしましょう。では、私が病気で倒れたら? 別の任務で王都を離れたら? ……その瞬間、現場から上がってくる無数の報告を処理できる人間がいなくなり、王都は再び『判断停止』の暗闇に沈みます。属人化は、遅効性の猛毒です」
「だ、だが、今の王都にはあなた以外に全体を統括できる人間がいないのも事実だ! では、誰が判断を下すというのだ!」
ローデリクが焦燥感から声を荒げた。
アシュレイがそれに答えようとした、その時だった。
「――失礼いたします! 王都監査院のフェイン特別監査官はいらっしゃいますか!」
詰所の扉が開き、監査院からの使いの者が、息を切らして駆け込んできた。
「イルダン市庁より、定期連絡便が到着しました! フェイン監査官と、アシュレイ顧問宛ての『月例報告書』です!」
「イルダンから……?」
ローデリクが怪訝な顔で分厚い封筒を受け取る。
アシュレイが王都へ向かってから、すでに一週間以上が経過していた。彼が不在の間、あの辺境都市は暫定的な新体制で動いているはずだ。
「……まさか、何かトラブルが起きたのか? アシュレイ殿が不在の間に、また魔物の大群でも……」
ローデリクが急いで封を切り、中に入っていた分厚い羊皮紙の束を広げた。
アシュレイもその横から書類に目を通す。
だが、その内容は、ローデリクが予想したような派手な救援要請ではなかった。
むしろ、逆である。
「……これは」
書類を読み進めるローデリクの目が、驚愕に見開かれていく。
「何が書いてあるんですか、監査官殿」
ゲイルが身を乗り出して尋ねる。ローデリクは震える手で羊皮紙を持ち上げ、信じられないというような声で読み上げ始めた。
「……『南門外の仮設区画にて、小規模な魔力過負荷が発生』」
「過負荷だと!? やっぱり、アシュレイがいないとあの街の継ぎ足しインフラは回らないんじゃ……」
「待て、ゲイル。続きがある」
ローデリクは息を呑み、報告書の詳細なタイムラインを読み上げた。
「『〇八時二十分、南区画の事務官ミレナが、監視表の定点観測にてメーターの微細な振れを検知』。……現場の悲鳴を、事務方が見事に拾い上げている」
「『〇八時二五分、連絡を受けた職人頭ガルドが現場確認。仮設水場と照明の配管が異常発熱していることを特定』」
「ガルドの親父が、すぐに駆けつけたのか……」
アシュレイの脳裏に、かつて「紙なんて読まねえ」と言っていたガルドが、ミレナの監視表の数値を信じて素早く動く姿が浮かんだ。
「『〇八時三十分、会計監査官ノラが仮設資産帳簿と照合。流入した流民の増加による、想定上限を超えた魔力使用であると特定』」
ノラの冷徹な分析が、ただの「故障」ではなく「キャパシティ・オーバー」であるという根本原因を一瞬で突き止めている。
「『〇八時四十分、副隊長リオネルが防衛優先度(SLA)を確認。防衛用の結界から予備魔力を回すことは規定違反と判断し、これを却下』」
「素晴らしい……。感情に流されず、事前に決めたSLAの『絶対保証ライン』を死守したのか」
アシュレイは思わず、感嘆の息を漏らした。かつては感情で動いていた武人が、完全にシステムの番人として機能している。
「『〇八時四十五分。商人ギルドのセルマが、工業区画の物流用リフトの使用時間帯を一時的に午後へずらし、浮いた分の魔力を仮設区画へバイパス供給するよう調整』」
利益に厳しいセルマが、自らの権限で経済活動をコントロールし、街の致命傷を防ぐための調整弁の役割を果たしている。
「……結果」
ローデリクは、報告書の最後の一文を、震える声で読み上げた。
「『〇九時〇〇分。アシュレイ・グラン不在のまま、被害なしで完全収束』」
詰所に、静寂が降りた。
エルリックやゲイルたち王都の技師は、その報告書の意味するものを理解し、言葉を失っていた。
辺境都市イルダン。
かつては誰も全体を把握しておらず、問題が起きれば互いに怒鳴り合い、責任を押し付け合っていたあの崩壊寸前の街が。
アシュレイ・グランという『絶対的な判断の要』が不在であるにも関わらず、それぞれの実務担当者が自らの権限とルールに従い、完璧な連携で障害を未然に防いでみせたのだ。
「……どうですか、ローデリクさん」
アシュレイは、誇らしげな、しかし極めて穏やかな声で問いかけた。
「私一人が王都に縛り付けられ、すべての判断を下す体制が、本当に正しい都市の姿だと思いますか?」
「…………」
ローデリクは眼鏡を外し、深く、深く息を吐き出した。
そして、傍聴していた技師たちへ向かって、イルダンの報告書を高く掲げた。
「これは、アシュレイ・グランという英雄個人の成果ではない。……彼が遺した『仕組み』の成果だ」
ローデリクの宣言は、王都の技師たちの胸に重く、熱く響いた。
「アシュレイ技術顧問の言う通りだ。我々は、またしても『一人の天才』に寄りかかろうとしていた。それではダリウスの時と何も変わらない。王都が本当に必要としているのは、アシュレイ殿という個人の頭脳ではない。彼がイルダンで証明した、この『自走する仕組み』を王都へ導入することだ!」
王都側が、ついに「仕組みの価値」を真の意味で理解した瞬間だった。
アシュレイはエルリックとゲイルの肩に、それぞれ手を置いた。
「エルリック。ゲイルさん。現場の一次ログを吸い上げ、切り分け、判断するのは、私ではなくあなたたちです。あなたたち自身が、王都の新しい『判断の要』になるんです」
「俺、たちが……?」
「ええ。イルダンのミレナさんやガルドさんと同じように。私がこの王都で最後にやるべき仕事は、あなたたちが迷わずに判断を下せる『王国標準』のルールブックを完成させ、あなたたちに運用を引き継ぐことです」
エルリックの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
自分たち末端の技師が、街の運命を左右する判断を下す。それは重責だが、同時に、技術者としてこれ以上ない最高の誇りだった。
「……やります。俺たちで、この王都の魔力網を、二度とあんな死体みたいな緑色にはさせません」
エルリックが涙を拭い、決意に満ちた顔で頷いた。ゲイルも「おう、任せとけ」と力強く笑う。
これで、王都の再建の方向性は完全に定まった。
アシュレイの評価は、一時の英雄扱いではなく、彼が構築した「制度の正当性」として王国に根付こうとしている。
「……さて。素晴らしい報告書でしたが」
アシュレイは、ローデリクが読み終えた報告書の最後のページ――『追記事項』と書かれた小さな欄に目を落とした。
そこには、防衛隊のリオネルからの、短い、だが不穏な報告が記されていた。
『――旧鉱山区画外で確認されていた不審者たちの動きが活発化している。彼らは、古い安全核と同系統の遺構を意図的に探しているらしい――』
「……旧式の安全核と同系統の遺構、ですか」
ローデリクが、険しい顔でその一文を覗き込む。
「王都の地下第一層にあったマスターコアと、イルダンの中央魔力炉の最下層にあったコア。……それと同じものを、外の世界の何者かが探している」
アシュレイは手帳を開き、新しい課題としてその事実を書き留めた。
王都の制度化が終わっても、次の火種がまだ残っている。
王国全体の地下深くに張り巡らされた、忘れ去られた大昔のインフラ網。それを巡る見えない影の動きが、確実に活発化し始めている。
「事後整理と制度化は、もう少しで第一版の完成に漕ぎ着けられます。……ですが、実務者の仕事に終わりはありませんね」
アシュレイは手帳をパタンと閉じ、窓の外に広がる王都の夜空を見つめた。
直した都に、壊れない仕組みを残すための戦いは最終盤に入った。しかしその先には、王国全土を巻き込む新たな「未知のエラー」が、静かに口を開けて待っていた。




