第44話 原本ログを守る者
ベルマン補佐官が国家のインフラに対する背信行為で拘束され、特別監査室から引きずり出された後。
分厚い石壁に囲まれた室内には、魔導印字機の不規則な駆動音と、重苦しい沈黙だけが残されていた。
「……ベルマン個人の罪は立証できた。ダリウスの隠蔽も、あのインクの消費量と生ログの照合で言い逃れはできないだろう」
王都監査院の特別監査官ローデリク・フェインは、机の上に広げられた『王都魔力網・公式稼働台帳』を忌々しげに見つめながら、重い息を吐いた。
「だが、ベルマンの言う通りだ。システムを管理する人間が、都合の悪いエラーを『規則』として白紙化し、見栄えの良い報告書を作ることが正義とされている。この王都の根腐れした評価制度が変わらない限り、第二のダリウス、第二のベルマンは必ず現れる」
ローデリクの言葉に、現場技師のエルリックとゲイルも暗い顔で頷いた。
どれだけ現場が悲鳴を上げ、一次ログを残そうとも、それを集約して公式記録とする権限が上層部にある限り、「真実」は彼らのペンの先一つで書き換えられてしまうのだ。
「王都には、ログの原本と写し、そして監査用の控えを『物理的・権限的』に分離して保管する仕組みが存在していません」
アシュレイ・グランは、改ざんされた公式台帳のページを静かに閉じた。
「記録の生成から保管、そして監査まで、すべてを魔導庁の内部、それも開発局のトップが掌握できる構造になっている。これでは、泥棒に金庫の鍵と台帳の両方を預けているようなものです」
「だが主任、どうすればいいんですか?」
エルリックが食い下がる。
「魔導庁のシステムを変えろと言っても、何十年もこのやり方で回ってきた巨大な組織です。現場の俺たちが『これからは正しいログを残します』と宣言したところで、上の人間が承認しなければ、また握り潰されるだけじゃ……」
「だから、仕組みを変えるんです。属人的な良心やモラルに頼るのではなく、物理的に『改ざん不可能な文書管理構造』を設計し、王国の標準運用保守規程として上層部に叩きつける」
アシュレイは作業着のポケットから使い込まれた手帳を取り出し、白紙のページを開いた。
「辺境都市イルダンで整備した文書管理思想を、この王都へ持ち込みます。……通信機を貸してください」
◆◆◆
監査室の魔導通信機が、特殊な暗号回線を通じて遥か遠くの辺境都市イルダンへと繋がった。
『――こちらイルダン市庁舎、臨時都市基盤責任者室です。グランさん、無事でしたか!』
通信機から飛び出してきたのは、若手事務官ミレナの明るく、そしてどこか頼もしい声だった。
『王都の大規模障害、こちらにも情報が入っています。ダリウス局長を拘束したと聞いて、みんなでガッツポーズしてましたよ!』
「ええ、ミレナさん。そちらの留守番も完璧だと聞いています。……今、ノラさんはいますか?」
『はい、代わりますね』
少しの衣擦れの音の後、今度は冷徹で理知的な会計監査官、ノラ・クレメントの声が響いた。
『アシュレイ。そっちの状況は? まさか、また一人で泥を被ろうとしてるんじゃないでしょうね』
「王都の病巣は物理的なものではなく、制度的なものでした。公式台帳の改ざんを防ぐための、新しい文書管理システムを設計しようとしています。……お二人の助言が欲しい」
アシュレイが現在の王都の「記録が一元管理され、上層部に都合よく書き換えられている」状況を説明すると、通信の向こうでノラが呆れたように鼻を鳴らした。
『馬鹿みたい。一つしかない台帳を、使っている本人が管理するなんて、横領してくださいと言っているようなものじゃない。イルダンでボルトンたちがやっていた古典的な不正と全く同じね』
「ええ。だから、イルダンで導入した『原本と写しの分離』と『更新ルールの徹底』を王都にも適用したい」
だが、その提案に横から待ったをかけたのは、現場のベテランであるゲイルだった。
「おいおい、アシュレイ。気持ちは分かるが、イルダンと王都じゃあ規模が違いすぎるぞ。王都は区画数も、設備数も、部署の数も桁違いだ。イルダンみたいに、事務官が自分の足で現場の写しを回収して回るなんて、物理的に不可能だ。承認経路だって複雑に絡み合ってやがる」
王都の魔導庁は巨大な官僚機構だ。関わる人間が多すぎれば、単純な情報のバケツリレーはすぐにどこかで滞り、結局は機能不全に陥ってしまう。
『規模が大きいからこそ、ルールはシンプルに、権限は明確に分断すべきよ』
通信機越しに、ノラが迷いなく断言した。
『王都の魔力網なら、各区画の魔導印字機から送られてくる「一次ログ(生データ)」は、自動取得できるはずよね?』
「はい。フィルターを外せば、現場の計器の数値をそのまま印字することは可能です」
エルリックが答える。
『だったら、その「一次ログ」こそが絶対の原本よ。原本は魔導庁の人間には一切触らせず、ローデリク監査官のいる「王都監査院」が直接受信し、厳重に保管するの。改ざん検知の魔法をかけた封蝋付きの書庫でね』
ノラの監査官としての鋭い提案に、ローデリクが目を輝かせた。
「なるほど……。運用者(魔導庁)と監査者(監査院)で、データの保管場所を物理的に切り離す。監査院が原本を持っていれば、魔導庁の上層部が後から都合の良い数字に書き換えようとしても、すぐに差分として発覚するわけか」
『ええ。その上で、保守局の現場班が日常業務で使うための「運用写し」を別途作成するのよ』
今度は、ミレナの声が弾んだ。
『写しの配布と管理なら、私の専門です! 王都の規模なら、各区画の拠点ごとに「記録管理担当」を一人ずつ置くべきですね。現場で使われる写しには、必ず監査院が発行した「通し番号」と「原本更新日時」を刻印させます!』
ミレナはイルダンで培った実務経験を元に、淀みなく王都仕様の設計図を描いていく。
『現場の技師が写しを受け取る時は、必ず受領印を押させる。工事や点検が終わったら、その結果を書き込んだ写しを、区画の管理担当経由で監査院へ送り返す。回覧ルートを一方通行にして、どこで情報が止まっているかを可視化するんです!』
「……すげえ。あのおどおどしてたミレナ嬢ちゃんが、王都のシステム設計を堂々と仕切ってやがる……」
ゲイルが目を丸くして呟いた。
アシュレイの指導のもと、辺境で泥にまみれて育った彼女たちは、今や王都のエリート官僚すら凌ぐほどの、本物の「運用保守の実務家」へと自走する進化を遂げていたのだ。
「完璧です、お二人とも。イルダンの思想が、王都の規模に見事に拡張されました」
アシュレイは手帳に、彼女たちの意見を取り入れながら、王都版の新たな文書管理構造の草案を書き上げていった。
「これより、王都魔導庁における『三層ログ管理』を草案化します」
アシュレイは書き上げた図解を、ローデリクたちに提示した。
「第一層、『原本ログ』。これはシステムの生データであり、改ざん防止処理を施した上で、監査院が一括して自動取得し、保管する。魔導庁の人間は閲覧権限のみとし、編集は不可とします」
「第二層、『運用写し』。これは保守局および現場班が日々の点検・修繕に使用するデータです。原本から発行され、通し番号と受領印による履歴管理を徹底する。現場の『迷うなら上げる』という非公式だった報告原則も、この運用写しを通じて正式なルールとして組み込みます」
「そして第三層、『公開報告』。これは第一層と第二層のデータを元に、個人情報や不要な技術詳細を省き、行政や市民向けに要約したものです。建国記念祭などの大規模な事業を行う際は、必ずこの公開報告を元に容量設計の妥当性を審査させる」
原本、写し、要約。
それぞれが独立した役割を持ちながら、一つの真実を支え合う強固な情報のピラミッド。
「素晴らしい……!」
ローデリクは感嘆の声を上げ、草案が書かれた羊皮紙を震える手で受け取った。
「これなら、誰も一存で記録を捏造できない。ダリウスのような人間が、威信のために現場の悲鳴を握り潰すことも不可能になる。……アシュレイ技術顧問。いや、イルダンの皆様。これこそが、王都が長年見失っていた『正しい組織の形』です」
エルリックも、熱い涙を瞳に浮かべて力強く頷いた。
「これなら俺たち現場も、堂々と本当の異常を報告できます! もう、嘘の青信号に怯えながら管を撫で回さなくて済むんですね……!」
小さな、しかし決定的な実務の勝利だった。
物理的なシステムを直すだけでなく、それを記録し、守り続けるための「壊れない仕組み」の草案が、今ここに誕生したのだ。
「ありがとうございます、ミレナさん、ノラさん。この草案をもって、王国の制度化へ向けた最終調整に入ります」
『ええ、頑張って、グランさん!』
『王都の連中に、辺境の監査の恐ろしさを叩き込んでやりなさい!』
二人の頼もしい激励とともに、通信機が切れる。
アシュレイは工具入れのベルトを締め直し、ローデリクを見据えた。
「草案はできました。ですが、これを王国の『標準規程』として正式に承認させるには、魔導庁の上層部や王国会議を通さなければなりません」
「ええ。分かっています」
ローデリクも、監査官としての鋭い顔つきに戻り、草案をしっかりと鞄に収めた。
「ダリウス一派が失脚したとはいえ、魔導庁にはまだ『新規開発こそ至上』と信じて疑わない古い体質の重役たちが残っている。彼らがこの制度案をすんなりと受け入れるとは思えません」
その予感は、数日後に開かれた「王都基盤復旧に関する緊急合同会議」の場で、最悪の形で的中することになる。
◆◆◆
王都魔導庁、最上階の大会議室。
ダリウス拘束の事後処理と、今後の都市基盤の運用方針を決定するための重要な会議に、王都の各局の重役たちが顔を揃えていた。
監査院代表として出席したローデリクが、アシュレイたちと作り上げた「三層ログ管理」の草案を提出し、その正当性と必要性を説明し終えた直後だった。
「――断じて認められん!」
円卓の向かい側から、バンッと机を叩く音が響いた。
立ち上がったのは、ダリウスの後任として新規開発局のトップ代行に就任した、保守派の重役の一人だった。
「フェイン特別監査官。ダリウス前局長の暴走は確かに遺憾であったが、だからといって、魔力網の『原本ログ』の管理権限をすべて監査院に渡すなど、言語道断だ!」
「事実、魔導庁内部での管理が隠蔽を生んだのです。権限の分離は不可欠です」
ローデリクが冷静に反論するが、重役の男は顔を真っ赤にして反発した。
「魔導庁のシステムは、我々魔導庁の所有物だ! その心臓部であるログデータを外部の監査機関に握られては、魔導庁の『自律性』が完全に失われる! 新しい設備を一つテストするのにも、いちいち監査院の顔色を窺わねばならなくなるではないか!」
それに同調するように、他の局の重役たちからも次々と不満の声が上がり始めた。
「そうだ。保守局ごときが『運用写し』で我々の開発計画に口を出せるようになるなど、組織の階級秩序を乱す行為だ!」
「保守はあくまで開発を補助する雑務部門にすぎない。彼らに停止判断やログの管理権限など、与えすぎれば開発が遅滞する!」
権限の喪失への恐怖。そして、長年染み付いた「保守部門を下に見る」歪な階級意識。
技術的な正しさ(ロジック)を提示しても、彼らは自分たちの「特権」を守るために、感情と政治の論理で猛反発してきたのだ。
会議室が紛糾し、ローデリクが孤立無援になりかけたその時。
傍聴席に控えていたアシュレイ・グランが、ゆっくりと立ち上がり、円卓へと歩み寄った。
「……自律性、ですか。随分と都合の良い言葉ですね」
アシュレイの冷徹な声が、会議室の騒騒しさを一刀両断する。
「自ら壊したシステムの復旧を現場に押し付け、嘘の記録で現実を塗り固めることを『自律性』と呼ぶのであれば、そんなものはただの『無責任な独裁』です」
「な、なんだ貴様は! 追放された一介の実務者が、重役会議に口を出すな!」
重役が激昂するが、アシュレイは微塵も怯むことなく、その冷ややかな視線で円卓の男たちを射抜いた。
「権限構造の問題にしたいなら、正面から受けて立ちます。……新規開発局が自己承認で危険設備を接続できる制度そのものを、今ここで終わらせる」
問題はもはや、技術やログの管理方法だけではない。
王都の、保守局は誰の下に置くべきかという「組織のあり方」そのものを問う、最後の決戦が始まろうとしていた。




