第28話 初めての定期点検と「残っていた盲点」
アシュレイがイルダンへ赴任して、約三ヶ月。
基幹ルートの根本的な引き直しという大手術から数週間が経過し、街はついに「正常な日常」を取り戻しつつあった。
そして今日、イルダン再建における一つの大きなマイルストーンが達成されようとしていた。
都市全域の『第一回・定期点検』である。
「報告します! 北区画の結界出力、規定値内で安定! 居住区、商業区画の各配水バルブもすべて正常に動作しています!」
「職人ギルド側も異常なしだ! 工業炉の魔力管、目視と打音チェック終わったぜ!」
役所地下の中央制御室に、ミレナとガルドの声が響く。
これまでは「壊れた場所から悲鳴が上がってから直す」という泥縄式の対応だった街が、自らの意志で全域の健康状態をチェックし、異常がないことを確認できるようになったのだ。
これは、運用保守という観点において劇的な進歩だった。
「ご苦労様です。……ノラさん、台帳の数値と現場の報告にズレは?」
アシュレイが問いかけると、ノラは分厚い原本台帳から顔を上げ、満足げに頷いた。
「完璧よ。消費された魔力の総量と、各区画に割り当てた予算の数字が、一銅貨の狂いもなく一致しているわ。……こんなに綺麗な帳簿を見たのは、私がこの役所に入って以来初めてね」
防衛を担うリオネルも、腕を組んで深く息を吐いた。
結界が安定していることで、部下たちにもようやく十分な休息を取らせることができるようになっている。
定期点検は、見事に「異常なし」で終わる。
誰もがそう確信し、安堵の空気が流れかけた時だった。
「……皆さん、少し待ってください。一つだけ、数字が合いません」
アシュレイが、配電盤の隅にある小さな計器を指差した。
それは先日、作業員たちの「読み合わせ」によって偶然発見された、旧市街外れの回線だ。
「この三日間、念のために重点監視を行っていましたが……やはり、一日のうち数時間だけ、不自然な負荷の揺れが発生しています。ほんの微量ですが、確実に何かが魔力を吸っている」
「……どういうことだ、アシュレイ」
リオネルが鋭い目つきに変わる。
「外敵からの干渉か? 魔物が結界の外から魔力網に触れているなら、すぐに出撃するが」
「いえ、結界への干渉反応はありません。内部からの消費です」
「だが旦那、あっちの旧市街外れは昔の『鉱山区画』に続く道で、今は完全に廃れちまってる。俺たち職人も、最近あんな場所の設備は一切触っちゃいねえぞ?」
外敵の仕業でもなく、現場が使っているわけでもない。
つまり、「誰も使っていないはずのものが、勝手に生きている」ということだ。
「……原因を特定しましょう。このまま放置するのは、実務上リスクが高すぎます」
アシュレイは手帳と工具を手に取り、制御室を後にした。
◆◆◆
旧市街外れ。かつては鉱山で採掘された魔力石を運び込むために栄えていたというその一帯は、今やすっかりゴーストタウンと化していた。
崩れかけた石造りの倉庫群を抜け、アシュレイたちは微弱な反応が示すポイントへと辿り着いた。
「……これですね」
そこにあったのは、赤錆に覆われた巨大な旧式の『荷役用昇降機』だった。
十年以上前に鉱山が閉鎖されて以来、一度も動かされた形跡はない。歯車にはツタが絡まり、操作盤のガラスは割れて風化している。
完全に死んでいる設備だ。誰もがそう思う外観だった。
だが、アシュレイが持参した検電用の魔導具をその基部に近づけると、ピピピッ、と微かな反応音が鳴った。
「うわっ、本当に生きてる……! でも、動いてないのにどうして魔力を吸っているんですか?」
ミレナが不気味なものを見るように一歩下がる。
「……配線が物理的に切断されていないからです。主電源のバルブを閉め忘れたまま放置したせいで、待機魔力だけが延々と流れ込み続けている『ゾンビ状態』ですね」
アシュレイは工具を取り出し、昇降機の裏側にある配電ボックスをこじ開けた。
案の定、そこには古い規格の太い魔導線が、街の基幹ルートと繋がったまま残されていた。
「動いてもいないのに、魔力だけを無駄食いしてたってことか。なら旦那、こんなもん今すぐ線を引きちぎって、ぶっ壊しちまおうぜ。そうすりゃ解決だろ?」
ガルドが大槌を構えて前に出るが、アシュレイはそれを手で制した。
「それは駄目です。街の魔力網が安定し、全体に強い圧力がかかっている今、無計画に線を切断すれば逆流が起きて他の区画の設備を吹き飛ばします」
「げっ……マジかよ」
「それに」と、アシュレイは錆びついた昇降機を見上げた。
「再建されたこの街では、派手に壊れて止まった設備よりも、こうして『残骸のように生き残っている設備』の方が厄介なんです」
「厄介……ですか?」
「ええ。壊れた設備は目立つので、すぐに直せます。しかし、こういう『使われていないが繋がっている設備』は、誰も気に留めない。もし街全体で想定外の負荷がかかった時、一番古いこの回路が真っ先にショートし、街全体を巻き込んで大停電を引き起こす火種になる」
王都の大規模魔力障害も、発端は開発局が放置していた『古い実験用回路』からの漏電だった。
見えない負債。それこそが、運用保守において最も恐るべき敵なのだ。
「では、グランさん。どうすれば……」
「切り離し手順に則って安全に切断します。ですが、その前に『管理の手順』が必要です。……ノラさん」
アシュレイに呼ばれ、ノラが分厚い台帳を抱えて前に出た。
「ノラさんの台帳に、この昇降機は載っていますか?」
「……いいえ。ボルトンが予算を誤魔化すために古い記録を処分したせいか、私の原本にはこの資産は存在しないことになっているわ」
「それが一番危険です。物理的に存在しているのに、帳簿上に存在しない。……この設備を、正式に台帳に載せてください」
その言葉に、ミレナが目を丸くした。
「ええっ!? でも、もう使えないガラクタですよ? それを新しく稼働資産として登録するんですか?」
「『稼働』はしていません。だからといって『削除』して透明なものとして扱うのも間違いです」
アシュレイは手帳の白紙ページを開き、太い文字でこう書き込んだ。
『停止資産』
「設備を消すのではなく、状態を定義して管理するんです。ノラさんの台帳に『存在はしているが、現在は完全に停止させ、切り離している資産』として位置づけてください。そうすれば、将来この場所を開発する時や、この鉄くずを資材として売却する時、正確な判断が下せます」
アシュレイの説明に、ノラは大きく頷いた。
「……なるほど。透明な幽霊にしておくのではなく、死体なら死体として、棺桶の場所と名前を記録しておくわけね。とても合理的な考え方だわ」
ノラは即座に羽ペンを取り出し、新しい項目を台帳に書き加えた。
「ミレナ、あなたも現場の地図を更新しなさい。ここには『停止資産あり。勝手な通電禁止』と赤字で注意書きを入れておくこと」
「はいっ! すぐに写しにも反映させます!」
事務方の二人が見事な連携で情報を整理していくのを見届け、アシュレイは安全な手順で魔導線を切断し、絶縁処理を施した。
微弱な魔力の漏れが完全に止まり、古い昇降機は本当の意味で「管理された沈黙」に入った。
ただの点検と、古い配線の切断。
しかしそれは、イルダンの運用が「見えない負債をコントロールできる」段階にまで成熟したことを示す、輝かしい一歩だった。
「……これで、街の盲点は消えましたね」
アシュレイが工具を収め、全員で役所へ戻ろうとした、その時だった。
「おや、こんな街外れまでご苦労なこったね」
背後の物陰から、商人ギルドのセルマが姿を現した。
彼女の顔にはいつもの余裕のある笑みはなく、実務家としての険しい緊張感が張り付いている。
「セルマさん。こんな所でどうしたんですか?」
「あんたたちを探してたのさ。……保守官殿。この昇降機が繋がっていた先の『旧鉱山区画』について、少し不穏な情報が入った」
セルマは周囲を警戒するように視線を走らせ、声を潜めた。
「最近、鉱山側の商人がまた妙に動いてるんだ。ここ何年も取引なんてなかった連中が、イルダンが息を吹き返したって噂を聞きつけて、このゴーストタウンの向こう側で何かを嗅ぎ回っている形跡がある」
「鉱山側の商人……」
リオネルが、険しい顔で剣の柄に手を当てた。
「昨夜、俺が南門の外で見た密偵のような影。あれも、そいつらの手先というわけか」
「かもしれないね。とにかく、死んだはずの旧設備が魔力を吸っていたことと、外で動き始めた人間たち……。あたしの商人の勘が、何か厄介なことが繋がり始めているって告げてるのさ」
再建された街が放つ光は、確実に外の闇を刺激している。
アシュレイは手帳の『停止資産』の項目の横に、『旧鉱山側の動向に注意』と追記した。
「……警戒レベルを一つ上げましょう。リオネルさん、防衛隊の見回りの範囲を――」
アシュレイが次の指示を出そうとした、まさにその瞬間。
役所の方角から、息を切らした若い伝令が転がるように走ってきた。
「副隊長!! 保守官殿!! た、大変です!!」
「どうした、落ち着け! 旧市街に賊でも出たか!?」
「ち、違います! 王都からです!」
伝令の若者は、恐怖で顔を蒼白にしながら、震える手で一通の書状を掲げた。
「王都監査院からの、正式な到着連絡です! ……明日の昼、監査官の馬車が、このイルダンに到着すると……!!」
その言葉に、その場にいた全員の動きが凍りついた。
先日の「問い合わせ」に対するイルダン側の完璧な報告書。
それが功を奏したのか、あるいは王都側が痺れを切らしたのか。
どちらにせよ、猶予は完全に失われた。
旧鉱山の不穏な動きという内憂を抱えたまま、この辺境都市は、王都という巨大な外圧と直接対峙することになったのだ。
「……来ますか」
アシュレイは北の空――遠く離れた王都の方角を見上げた。
彼の目には、焦りも恐怖もない。あるのは、自分が三ヶ月かけて育て上げたこの街の「実務」に対する、絶対的な自信だけだった。
「迎え撃ちましょう。私たちが作り上げた、この街の『仕組み』で」
イルダンの再建フェーズは終わりを告げ、いよいよ王都との実務を懸けた頭脳戦の幕が上がろうとしていた。




