第27話 手順書は、読まれなければ存在しない
イルダンの街が活気を取り戻し始めてから、数週間が経過していた。
再建の噂を聞きつけて流入してきた人々を吸収するため、街の各所では居住区画の拡張や新しい店舗の改装工事が急ピッチで進められている。
だが、現場の仕事量が増えれば、当然ながらそれを処理する人間も増やさなければならない。
「……駄目だ。また旧い繋ぎ方をしやがった!」
役所の作業スペースに、職人頭のガルドの苛立った声が響いた。
彼は煤けた手で顔を覆い、ドカッと椅子に腰を下ろす。
「どうしたんですか、ガルドさん。またどこかの配管がショートしたんですか?」
若手事務官のミレナが、心配そうに声をかけた。
「ああ。最近新しく入れた補助の若い職人どもだよ。街の仕事が増えすぎて人手が足りねえから雇ったんだが、どいつもこいつも昔の『とりあえず動けばいい』って悪習が抜けきってねえ」
ガルドは机の上に置かれた、真新しい羊皮紙の束を指差した。
「作業がちょっとでも立て込むと、すぐに『その場で一番早い繋ぎ方』を選ぼうとしやがる。安全装置を迂回したり、適当な配線で魔力を引っ張ったりな。今朝も、危うく新しい魔力炉の回路を焦がすところだった」
「そんな……! あんなに時間をかけて、誰も間違えないように図面付きの『作業手順書』を作ったのに……。ちゃんと皆さんに配りましたよね?」
ミレナが悲しそうに肩を落とす。
彼女はアシュレイの指示のもと、誰もが安全に作業できるよう、この一ヶ月間、毎晩遅くまで残って手順書を書き上げていたのだ。
「配ったさ。だが、忙しい現場でいちいち紙を開いて文字を読んでる奴はいねえ。あいつらにとっちゃ、手順書なんてただの『役所の厄介なルール』でしかねえんだ」
「配ったのに、読まれていない……」
すっかり落ち込んでしまったミレナに、隣のデスクからノラが冷徹な声をかけた。
「当たり前よ。読まれない紙は、記録でもルールでもない。ただのゴミよ。現場が手順書を読まない前提で運用を組めなかった私たちの落ち度でもあるわ」
「ノラさんの言う通りです」
書庫の奥から、図面の束を抱えたアシュレイが姿を現した。
彼は手帳を取り出し、新しいページを開きながらガルドに向き直る。
「人間は、慣れと効率を優先する生き物です。作業に慣れてくれば、必ず手順を省略しようとする。手順書を現場に『置くだけ』では、運用にはなりません」
「じゃあ旦那、どうすりゃいいんだ? 一人一人に俺が張り付いて、後ろから首根っこ掴んで紙を読ませるか?」
「いいえ。紙を読ませるのではなく、『口と身体』を動かさせます」
アシュレイは手帳に『指差し確認』と『読み合わせ』という文字を書き込んだ。
「作業を始める前、そして重要な接続を行う直前に、二人一組で声を出して確認するルールを導入します。これから現場へ行きましょう」
◆◆◆
新興の居住区画の工事現場。
そこでは、若い補助職人たちが魔力管の配線作業を行っていた。
「おい、そっちの第三バルブ、早く開けてくれ! 次の管を繋ぐぞ!」
「わかってるよ! ええと、この青い線をこっちの古い端子に……」
若い職人が、手元の手順書を見向きもせず、自分の勘だけで太い魔導線を接続しようとしたその時。
「待て」
ガルドの低い声と共に、アシュレイが二人の間に割って入った。
「な、なんだよ。俺たち、急いで仕事してるんだぜ。役人の視察なら後にしてくれよ」
若い職人が不満げに顔をしかめる。
「急ぐのは結構ですが、今の接続は手順書通りですか?」
「手順書? ああ、あんなの読まなくても、青い線は青い端子に繋げばいいだけだろ? 今までずっとそうやってきたんだ。いちいち紙を開いてたら、日が暮れちまうよ」
彼の言い分は、現場の労働者としては典型的なものだった。
だが、アシュレイは無表情のまま、彼の手元にある青い端子を指差した。
「今日から新しいルールを徹底します。重要な接続を行う前は、必ず自分の指で対象を指し、口に出して確認してください」
「はぁ!? なんだよそれ、子供のお遊戯じゃないんだぞ! そんな面倒くさいことやってられるか!」
「面倒でもやってもらいます。事故を起こした後に紙を読むより、起こす前に口で揃えた方が早いからです。……やってください。『接続先、旧式青端子、極性確認』と」
アシュレイの有無を言わせぬ静かな圧力と、背後に立つ親方の睨みに、若い職人は渋々といった様子で右手を上げた。
「あー、わかったよ! やればいいんだろ、やれば! えーっと……『接続先、旧式青端子、極性、かくにん』……よしっ」
そう言って、彼が指差した古い端子を直視した瞬間。
彼の動きが、ピタリと止まった。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いや、ちょっと待ってくれ。この古い端子……青色だけど、刻印されてる魔力記号が『逆』だぞ……? 最新の規格と、プラスマイナスが逆転してる……」
若い職人の顔から、サッと血の気が引いていく。
彼が握っていたのは、高圧の浄化魔力が流れる主幹ケーブルだ。もし極性が逆のまま無理やり接続していれば、魔力が逆流し、彼の手元で大規模な爆発を起こしていたはずだった。
「ひっ……!」
「……それが、あなたが読まなかった手順書の三ページ目に『旧式端子の極性反転に注意』として書かれていた内容です」
アシュレイは淡々と告げた。
「色や形で思い込まず、必ず指を差し、口に出して『対象の真の姿』を確認する。視覚、聴覚、触覚を同時に使うことで、人間の『思い込み(ヒューマンエラー)』は劇的に減らすことができます」
若い職人は、震える手でケーブルを置き、その場にへたり込んだ。
周囲で見ていた他の職人たちも、冷や汗を流しながら沈黙している。あのままなら、現場全体が吹き飛んでいたかもしれないのだ。
「……わかったか、お前ら」
ガルドが、重々しい声で職人たちを見渡した。
「旦那の言う通りだ。紙に書かれた文字は、頭の中に入らなきゃただのインクの染みだ。だが、口に出せば『命綱』になる。今日から、指差し呼称と読み合わせをサボった奴は、俺の現場から叩き出す。いいな!」
「「「は、はいっ!!」」」
現場の空気が、完全に変わった。
役人の押し付けとして軽視されていた「地味で面倒な運用ルール」が、自分たちの命と街を守るための強力な盾であることを、彼らは身をもって理解したのだ。
「……お見事です、グランさん。これなら、私が書いた手順書も、ちゃんと意味を持ちますね」
少し離れた場所で見ていたミレナが、ホッと胸を撫で下ろして微笑む。
「ええ。運用とは『人間の癖』をシステムに組み込む作業です。これで一つ、大きなエラーの芽を摘むことができました」
アシュレイもまた、手帳に『手順の現場定着化完了』と書き込み、小さく息を吐いた。
――その時だった。
「よし! それじゃあ作業再開だ! まずは配電盤のメーターの読み合わせからいくぞ!」
気を取り直した若い職人が、大声でメーターを指差した。
「『第一メーター、出力正常!』」
「よし!」
「『第二メーター、電圧正常!』」
「よし!」
「『第三メーター……ん?』」
若い職人が、不思議そうに首を傾げた。
「おい、親方。この一番端っこの古いメーター……針が少しだけ動いてるぞ。これ、どこに繋がってる回線だっけ?」
その言葉に、アシュレイとガルドが同時に反応した。
「第三メーター? そこはもう三年以上前に封鎖したはずの、旧市街外れの回線だぞ」
ガルドが眉をひそめながら配電盤を覗き込む。
アシュレイも素早く歩み寄り、メーターの針を確認した。
確かに、微弱ではあるが、何かが魔力を吸い上げている反応が記録されている。
「ミレナさん。ここから先の旧市街外れに、現在稼働している役所の施設や、住民の許可証を出した家はありますか?」
「え? いえ、ありません。あの方角は昔の『鉱山区画』へと続く死線で、今は誰も住んでいないはずです……」
壊れているわけではない。
ショートしているような暴走の兆候もない。
だが、『誰も使っていないはずの古い設備』が、確実に何かを吸って生きている。
先ほどの『指差し呼称(読み合わせ)』を徹底したからこそ、偶然に見つかった奇妙な反応だった。
「……再建された街では、派手に壊れた設備よりも、こういう『放置されたもの』の方が厄介です」
アシュレイは手帳の新しいページに、その微弱な反応の数値を書き写した。
「少し、点検に向かいましょう。何が魔力を吸っているのか、突き止める必要があります」
静かに動き出した、記録にない死線。
直したはずの街に潜んでいた「盲点」が、運用が回り始めたことで初めて、その正体を現そうとしていた。




