第163話 街の名の欄
「空いています」
コルトは肩の紐を下ろさなかった。
広間は西日で埋まっている。卓は輪に組んだままで、椅子だけが半分下げてあった。開いているあいだは気づかなかったが、板の継ぎ目は窓のほうへ向かって少し反っている。
「おれが訊いたのは、そこじゃねえ」
彼は荷を框へ下ろした。
「明日、南へ下りる。型を持ってあの男の生まれた街まで行くんだ。……着いてから訊きてえことが出たら、どこへ出せばいい」
「イルダンへお出しください」
「あんたはイルダンにいるのか」
「おりません」
「そんならイルダンじゃねえだろ」
ノラは輪の外の卓で帳面を開いていた。頁を三枚繰って手を止める。
「聞こえたでしょう。今日のうちに埋めなさい」
七つ目の行は罫だけが引いてある。役の名と、日付と、街の名の欄。埋まっていないのは最後の一つだけだった。
「半年空いてるのよ」
「承知しています」
「訊かれると言ったわね」
「言われました」
ガルドが壁の側から寄ってきた。編み上げの紐を締め直している。
「イルダンって書きゃ済むだろうが」
「書けます」
「なら書けよ」
「書くと、この卓がイルダンの卓になります」
ガルドは框へ腰を下ろした。
「なんでだ」
「私はこの卓の紙を全部読みます。常駐する街があれば、その街の紙を先に読みます。先に読むつもりが無くても、先に届くのはその街の紙です」
「王都は」
ローデリクが柱の脇から答えた。まだ綴りを開いていない。
「同じです。もっと早く届きます」
「じゃあ書ける街がねえじゃねえか」
「ありません」
ノラは筆の尻で欄の枠を叩いた。
「どこにもいません、と書くの」
「書けません」
「書けないわね。ここは街の名を書く欄よ」
アシュレイの荷の口から写しが一枚出てきた。宿の柱に貼ってある紙のもので、上の隅に番号が入っている。
アシュレイはそれをノラの手の届くところへ寄せた。
「街の名の代わりに、これを書かせてください」
ノラは写しを引き寄せた。
「番号じゃないの」
「番号です。次に通る宿の、柱の紙の番号です」
「通ったら」
「書き換えます。その次の宿の番号へ」
「動くのね」
「動きます」
筆が卓の上で寝かされた。
「動く欄は、うちの罫にはまだ無いわ」
「作っていただきたいのです」
「困るのはこっちよ。書き換えたら前の番号が消えるじゃないの。いつどこにいたのかが、あとから引けなくなるわ」
「消しません。下へ足します。前の番号は残したままにしてください」
ノラは眉だけを動かした。
「量る人と同じことを言うのね」
壁際でハーケンが一度顔を上げた。何も言わずにまた元の向きへ戻る。
ローデリクが控えの背を立てて開いた。
「監査院の綴りには居所の欄がございます。街の名で刷ってあります」
「刷り直していただけますか」
「直します。欄の名を居所から、次に通る宿へ替えます。番号だけの欄になりますが」
「読めますか」
「読めます。番号が同じまま日が空けば、そこで止まっているということです」
「そこにいるか、着いていないかのどちらかです」
「どちらかは分かりません」
「分からなくて結構です。分からないと分かるだけで足ります」
主人が椅子を壁際へ寄せ終えて帳場へ戻りかけた。足を止めたのは番号という言葉のところだった。
「うちの柱は、もう二枚で埋まっていますよ」
「増やしません。二枚目の紙へ列を一つ足していただきます」
「何を書きます」
「通った日です。名は要りません。日だけです」
「通らなかった日は」
「空けておいてください」
主人は帳場の縁へ手を掛けた。
「空けたままですか」
「空いた日が続いたら、次の宿へ言づけてください」
「探しには出ますよ」
「出ないでください」
「出ませんか」
「言づけだけで結構です。人が出れば、その宿の荷が一日止まります」
主人は糊の壺を棚から下ろして脇へ抱えた。
「言づけの先は」
「次の宿です。その先も宿です」
ガルドが顎を上げた。
「倒れてても、その日にゃ誰も気づかねえぞ」
「気づきません」
「それでいいのか」
「よくありません」
アシュレイは一歩だけ前へ出た。
「毎日私の顔を見る者を決めると、その者の街に私が居ることになります。欄から居場所を外すというのは、代わりを払う話です」
「払うのはあんたじゃねえ。見つけるのが遅れりゃ、困るのはこっちだ」
「困らせます」
「言い切りやがった」
ガルドは舌を鳴らしてから立ち上がった。
「柱を見て回るのはおれだ」
「お願いします」
「日の欄が空いてりゃ、空いてたと次の宿で言う。あんたにゃ言えねえからな。居ねえやつには言えねえんだ」
ミレナが控えの束を抱えて框の前へ来た。写しの数を数え終えた顔である。
「お荷はどちらへお送りいたしましょう」
「送らないでください」
「控えもでございますか」
「控えも要りません。原本はイルダンに置きます。写しは監査院と統轄部と、街に」
「お手元には何も残りませんが」
「一枚だけ作っていただけますか。どこに何の写しがあるかを書いた紙です。請求先まで入れてください」
「一枚でございますか」
「一枚です。それを失くしても、取りに行く先が変わるだけです」
ミレナは束を框へ置き、いちばん上の紙の裏を返した。
「版のことを申し上げてもよろしゅうございますか」
「伺います」
「次の刷りから、版はうちの若い手が組みます。わたくしは見るだけにいたします」
「読み合わせは」
「二人でいたします。組んだ者と見た者の名を、下へ入れます」
「では、あなたが動けない日でも刷れますね」
「刷れます。……刷り損じは増えると思います」
「増えて結構です」
コルトが框の端で待っていた。
「話を戻すぞ」
アシュレイが向き直った。
「おれが訊きてえことができたら、どこへ出す」
「あなたの街からお出しください。番号に丸を付けて判を押していただければ足ります」
「あんたは出せねえのか」
「出せません」
「なんでだ」
「席がありませんので」
「不便だな」
「不便です」
「直さねえのか」
「直しません。私が出せる形にすると、急ぎの話が全部こちらへ来ます。来た話は、私のいる街で決まります」
コルトは首の後ろを掻いた。
「面倒くせえ作りだ」
「作りは面倒です。使うほうは簡単にしてあります」
ハーケンが壁を離れて輪のほうへ歩いてきた。輪の内側へは入らない。
「一つ伺わせてください」
「どうぞ」
「横断監査官は一人ですね」
「一人です」
「番号を書かれても、柱に日を控えさせても、その一人が居なくなれば止まります。半年前にあなたが潰した形と、同じ形です」
「同じです」
「では、どうなさいます」
アシュレイの目がノラの帳面へ動いた。
「止め手の紙と同じ様式を、監査官の綴りへ入れていただきたいのです」
「同じ様式と申されますと」
「次に立つ者の名を二つ。役は入れません。名だけです」
「書くのは」
「私ではありません」
ノラが顔を上げないまま言った。
「わたしが一つ書くわ」
ローデリクが函の紐を解いた。
「もう一つは私が書きます。監査院の綴りは私の手で開けます」
「二人で相談はしないでください」
「しません」
「読み合わせも要りません」
「要りませんね」
ハーケンが手元の綴りを起こした。
「あなたは読まれますか」
「読みません」
「なぜです」
「読めば、私が選んだことになります」
「では私が確かめます。二つ入っているかどうかだけを見ます」
「確かめてください」
ハーケンは控えへ日付を入れた。筆を置いてから輪の外の卓のほうを見た。
「……それは、私にも同じことが言えますね」
「量る側は一人です」
「一人です。半年ごとに受け取るのも、白いままを認めないと申し上げるのも、いまは私しかおりません」
「入れられますか」
「入れます。私の綴りにも二つ。書くのは私ではない者に頼みます」
彼はそこで一度だけ息を継いだ。
「面白くはありませんが」
「面白くありません」
ノラは七つ目の行の下へ罫を三本引いた。
「代わりに払うものを書いておくわ。あとで同じことをやりたがる人が出るもの」
「三つあります」
「言いなさい」
「毎日私の顔を見る者がいません。原本を一枚も持ちません。卓へ議題を出せません」
筆が三行を追った。
「三つ目は前から書いてあるわよ」
「書いてあります。消さないでください」
「消さないわ。……消したら、あなたが楽をしたことになるじゃないの」
夏のぶんの道の割りをセルマが卓へ出した。線はもう入っている。
「遠いところから回すわ。下りの長い街は雨の前に入れておいたの」
「便のある日に合わせてください」
「合わせるわ。合わせないと宿が替われないもの」
「一巡りは」
「書かないわよ。日数を書いたら、遅れた日に嘘になるわ」
「では書かないでください」
「書かないわ。次に通る宿は、そのつど道の割りで示すわね」
ミレナが控えを繰って番号を読み上げた。
「南へ二日の宿でございます。柱の紙は三十二番でございます」
ノラが街の名の欄へ筆を下ろした。三十二と入れて、脇へ今日の日付を付ける。
「入れたわ」
「入りました」
「五つが四つになったわね」
「四つです」
彼女は行の下へ細い罫をもう一本引いた。番号を継ぐための一段である。
「言っておくけれど、これは埋まったんじゃないわ。動く欄になっただけよ」
「動かなくなったら」
「そのときは誰かが訊くわ。訊く先はもうあるでしょう」
ノラは頁を閉じた。
主人が柱の二枚目を外して帳場へ運んでいく。列を一つ足すのだという。日の暮れる前に貼り直すと言って糊の壺を開けた。
アシュレイは荷の紐を結び直してから、欄の番号をもう一度読んだ。
「次に通るのは」
セルマが道の割りの上へ指を置いた。
「南へ二日よ。明るいうちに出れば、暗くなる前に着くわ」
頁のいちばん下には、次に卓を開く日だけが先に入っていた。




