第162話 夏の卓
炉に火は入っていなかった。
夏の入口の宿場は朝のうちだけ風が通る。板の床は乾いていて歩くたびに継ぎ目が鳴った。卓は三つとも輪に組んである。四隅に椅子は置いていない。
ガルドは言われる前にイルダンの椅子へ腰を下ろした。
「早いですね」
「前に座らされた席だ。二度目は勝手に座る」
入口の柱には紙が二枚貼ってあった。止め手の名の紙と、日と番号だけを控える紙である。その下の箱は蓋が無い。
主人が帳場から出てきて箱の底を掌で示した。
「昨夜のうちに空けてあります。今朝の受けはありませんよ」
ミレナが控えへ書き入れてから顔を上げた。
「十五の街から十八人でございます」
「二人で来ているのは」
「ネスカとメレンと、下りの長い街でございます」
ローデリクは柱の脇へ立った。椅子を勧めた主人へ首を振っただけで綴りは開かなかった。
ハーケンは帳場の側の壁に沿って立っている。半年前は来ないと先に書いて寄越した男である。
マーロウは開く前から入口の内側にいた。外套は持っていない。
ノラは輪の外の自分の卓へ罫の帳面を積んだ。
「読み上げは省くわ。条件の十八行は写しが回っているでしょう」
誰も何も言わなかった。
「一つ目。議題を一つ足すかどうか」
ミレナが束を持ち上げて数を読んだ。
「出すに丸が一つ。出さないに丸が四つ。丸の無い紙が四つ。返っていないのが十でございます」
ノラは丸の付いた一枚を輪の上へ回した。
「文は無いわ。番号の二つ目に丸。判が一つ。裏は白いの」
紙は端から端まで回って、下りの長い街の男のところで止まった。日に焼けた首の太い男で、寄合の親方だと名乗った。
「おれが押した」
「読んで押したの」
「読めねえよ。読める者がいねえ街だ」
男は紙を隣へ渡した。
「中身は監査官が読んで、うちの箱へ戻していった。番号だけ教わって押した。……うちの物置にあった紙のことを、よそで決められるのは困る」
「困るのね」
「困る。七十年うちにあったんだ」
ノラは筆を持ち替えた。
「足す。足さない。どちらでもない。三つのうち一つを言いなさい。遠いほうから回すわ」
四人目で椅子が鳴った。
ドランの書記が立ち上がっていた。行の揃った紙をいつも寄越す街である。
「四行目です」
輪の音が一度に止まった。
「ほかの話が始まったら帰ってよい、と書いてあります。うちは書いた側です」
「書いたわね」
「決める者を決める話だと聞いて出てきました。地面の下の一本の扱いは、その話ではありません」
男は座らなかった。詫びる言い方でもなかった。
「帰るとは申しません。四行目を守るなら、うちは立ちます」
荷の脇から声が落ちた。
「その行はうちだ」
ネスカの男が膝の上で手を組んでいた。
「決める者を決める話だけだ、と書いた。おれが言って、隣のこいつが書いた」
「同じことを申し上げています」
「同じじゃねえ」
男は輪の内側へ顎を向けた。
「切った紙は七十年前にある。切った者の名も出た。それでも誰も終わらせてねえ。……終わらせる者が決まってねえからだろう」
書記は返さなかった。
「なら決める者を決める話だ。うちの行に引っかからねえ」
入口の内側でマーロウが動いた。輪へは入らず、いちばん広いところで足を止める。
「私は十九のどれでもありません」
「述べるのですね」
「述べます」
男は紙を開かなかった。
「全員が当事者であるなら、誰も止めない」
ノラの筆が止まった。
ドランの書記が初めてこちらを見た。
「……その言葉は、前は集めろの話でした」
「今日も同じことを申し上げております。足せとも足すなとも申しません」
書記はしばらく立っていた。それから椅子を引いて腰を下ろした。
「足すほうです。決める者を決めていないから、誰も止めないのでしょう」
回りは最後まで行った。
ミレナが数を控えへ入れる。
「足すが十一。足さないが一。どちらでもないが三でございます」
「決め方は書いてないわ」
「決め方は今日は要らねえ」
ネスカの男が荷の紐を締め直した。
「割れてねえからだ。割れた日に揉めりゃいい」
ノラは数だけを写して、帳面の頁を繰った。
「二つ目。地面の下の一本をこの先どう扱うか」
しばらく誰も口を開かなかった。
「監査官。何が分かった」
アシュレイは輪の外に立ったままだった。
「三つです。上を切ったのは、その晩の落ち方を隣までで止めるためです。裁可した者と、綴りを持って街へ下りた者の名が出ました。名は台帳の出どころの欄に入れています」
「咎めたのか」
「咎めの紙は出していません」
「なぜ出さねえ」
「監査院に権限がありません。咎める欄を作るかどうかを決めるのは、ここです」
ドランの書記が手元の紙を見たまま訊いた。
「読めないものは」
「王都の一枚の残りです。下がっているのは並べれば出ます。いつ尽きるかは出ません」
「何年だ」
「読めません」
「読めんのですか」
「読めません」
メレンのテオが膝の帳面を開いた。
「うちは十日ごとに測っています。測り方はいただきました」
「季の初めの十一日目です。十日目は雪解けの見回りと重なると、そちらから直しが入りました」
「入れました」
コーレンの椅子でゲイルが背を反らせた。
「起こさねえ、でいいだろ。起こす話は誰もしてねえんだ」
「根拠は」
「あるのか」
「あるわ。番号で引けるの」
ノラは出どころの欄の写しを抜いて、そのまま読み上げた。
――上は在らぬと確かめた。この順で起こしてはならん。
「これは四十年抱えていた人の字よ。半日待って針が戻るのを見て、外した者として名を書いた人だわ」
輪の中で誰かが息を吐いた。
「うちの街の紙にも名がある」
ガルドが框のほうを見ずに言った。
「掘り返すな、も入れとけ。横は繋がったままだ。上より横のほうが人が当たる」
「掘り返さない、ね」
「そう書け」
バルクスのエルリックが行の揃った紙を出した。
「三つ目に王都の一枚が要ります。型には、下がり方が変わったら報せると入っています。報せたあとが入っていません」
「報せてどうなるんだ」
「そこが決まっていません」
ネスカの男が荷を膝で押さえた。
「開けばいいだろ。変わった日に開くと書いとけ」
「開けますか」
「開ける。便は月に一度だが、出るときは出る」
ノラは三行目まで引いてから筆を置いた。
「四つ目は無いの」
下りの長い街の親方が卓を掌で叩いた。音は大きくなかった。
「終いの日を書いとけ」
「終いの日」
「うちの物置は、読めねえ紙を七十年置いた。誰も捨てねえし誰も読まねえ。……いつまで置くと書いてなかったからだ」
男は自分の手を見た。
「同じにするな。いつ読み直すかを先に書いとけ」
「いつよ」
「そこはおれには分からん」
ドランの書記が引き取った。
「三度目です。三度目の夏の入口の卓で読み直す」
「なぜ三度なの」
「書いた者が半分残っています。全部入れ替わってからでは、なぜ書いたかが誰にも分かりません」
ノラは四行目の罫を長く引いた。
書き終えてから、輪の内側へ向けて読み上げた。
――切られたままとして扱う。起こさない。
――横は繋がったままとして扱う。掘り返さない。
――王都の一枚は別立てのまま、年に四度、同じ形で測って並べる。下がり方が変わったら、その日に卓を開く。
――この扱いは暫定である。次に見直すのは三度目の夏の入口の卓。それより早く開く条件は三行目のとおり。
誰も直させなかった。ミレナが番号を振り、写しの数を数え始める。
ドランの書記が最後に一つだけ訊いた。
「暫定と書いて、また七十年になったら」
「見直す日を書いています。それより早く開く条件も書いています」
アシュレイは輪の外から答えた。
「七十年前の紙に無かったのは、その二つです」
ノラは頁を繰って、決まらなかったことの一覧を開いた。
「白いままの三枚と王都の一枚。……王都のぶんは三行目に入ったわ。三枚はどうするの」
「白いままだ」
カルネの供給担当が刷り物の端を折った。
「うちの脇にも日付が二つ入っています。通った日と、通って何も見えなかった日です。増やしていけばいい」
「それを扱いと書くのね」
「書いてください」
壁に沿って立っていた男が初めて動いた。
「私は認めていません」
ハーケンは輪へは近づかなかった。
「白いまま置くことを、半年前も認めていません。今日も同じです」
「様式は」
「守られています。……今日は扱いが書かれました。私が数えるのは欄です。扱いは欄ではありません」
彼はそれだけ言って壁へ戻った。
ノラは頁の上から順に筆を置いていった。決まらなかったことの行は、地面の下の一本と、白い欄の二つが外れた。
「七つが五つになったわ」
「五つですね」
「読むわよ。費え。統轄部の権限。領の役所との掛かり。掘る許しを誰が出すか」
筆が下で止まった。
「それと、七つ目」
統轄部の権限の行の脇には、冬に返ってきた写しの一行がそのまま綴じてある。マーロウは頁のほうを見なかった。外套を受け取ってから、輪の内側を一度だけ見回して出ていった。
写しはその日のうちに配られた。ミレナが十五ぶんを揃え、監査院と統轄部で十七になり、来なかった四つを足して二十一になる。
人が減って、板の床の音が高くなった。
荷を担ぎ直したコルトが、輪の外で足を止めた。
「訊いていいか」
「どうぞ」
「前の卓の紙に、決まってねえのが七つあったろ」
彼は紐を肩へ掛け直した。
「……七つ目は、まだ空いてるのか」




