第164話 次に通る日
柱の紙は二枚のままだった。
変わったのは二枚目の罫である。日と番号の右へ細い列が一つ足してある。刷り直したものではなく罫を引き足しただけで、線が定規から少し外れていた。
帳場から控えが出てきた。主人がいちばん下の行へ今日の日を入れる。名の欄は無い。日だけである。
「三日空きましたよ」
「空きました」
「言づけは出しました。北の宿へ、まだ通らないと」
「出していただいて結構です」
「雨でしたか」
「渡しが二日止まりました。歩けたのは三日目の昼からです」
主人は筆を置いてから、空いている三つの升を指の背で押さえた。
「ここは消しますか」
「そこは消さずに置いてください」
「通らなかった日ですよ」
「通らなかった日が残っていないと、通った日のほうも読めません」
一枚目の紙には名が二つ入っていた。
春に見たときは下の欄が白かった紙である。上に男の名があり、下に女の名がある。役はどちらにも付いていない。
「夏に一人戻ってきましてね。前は冬に核の近くまで歩ける者が一人しかいなかったんです」
「書いたのはどなたですか」
「二人で書き合いました。自分のは自分で書かないと決まっているそうで」
「決まっています」
「妙な決まりだと言われましたよ、寄合で」
「言われるでしょうね」
主人は貼り直した端を掌で押さえた。糊がまだ湿っている。
「言われましたが、直りませんでした。書いてしまえば早いんですよ」
継送の便が着いたのは昼前だった。
荷運びが袋を三つ土間へ下ろして、表の宛先だけを読み上げていく。イルダン宛が二つ。監査院宛が一つ。主人が控えへ番号を写した。
二つ目の袋の表に、街の名が一つ入っている。夏の卓へ来なかった四つのうちの一つだった。
「開けますか」
「開けません」
「厚みで分かりますよ。止め手の紙です」
「開けなければ分かりません」
三つ目は監査院宛だった。イルダンの版で刷った札が貼ってある。隅の数字は版の番号で、柱に貼ってある紙へ刷ってあるものと同じ並びだった。
主人が控えへその番号も写した。写しながら一度だけ手を止める。
「同じ数字が三月ぶん続いてますね」
「続きます。版が変わるまでは同じです」
「変わったら分かるんですか」
「番号が変わります。変わった日が、その控えに残ります」
荷運びは紐を締め直して肩へ担ぎ上げた。残る三つの街からは、まだ何も出ていない。
柱の下の箱には紙が一枚入っていた。
控えには受けた日と柱の紙の番号だけが入っている。名の欄は初めから引いていない。紙は表を伏せたまま置いてあった。
「昨日の夕方です。顔は見ましたが訊いていません」
「訊かないでください」
「訊きませんよ。……三度目です、これで」
「寄合へ回してください」
「回します。うちは受けるだけですから」
日の傾く前に、この街の触れてよい者が坂を上がってきた。用水の見回りから戻ったばかりで脛まで泥がついていた。柱の一枚目の上の名がこの男だった。
土間へ入る前に、戸口で足の泥を二度落とした。落としきれてはいない。束を抱えた手のほうは乾いていて、紙に泥は付いていなかった。
「王都の紙が回ってきました。読みましたが分からない行があります」
束のいちばん上は刷り物だった。イルダンの版で刷ってある。番号は下の隅だ。目的の欄の四文字の下へ二行足してあった。
「四文字は消えていませんね」
「消しません。足しただけです」
「次に確かめ直す日、と書いてあります」
「半年後です。以後も半年ごとに書き足します」
「毎度書くんですか」
「書きます。前の行は残します。残っていないと、いつ何が変わったのかが読めません」
男は刷り物を膝へ置いて、下から一枚抜いた。
「もう一つあります。七十年前の紙のことです。うちの若いのが読みたがっています」
「請求できます」
「どこにあるんですか」
アシュレイは懐から紙を一枚出した。折り目が四つ付いている。
「ここに書いてあります」
「一枚きりですか」
「一枚きりです」
男は覗き込んで番号の並びを上から目で追った。
「原本、ザルテ」
「物置から出た街に置いてあります。番号と、開けた日と、開けた者の名が箱の蓋の裏に貼ってあります」
「写しは」
「監査院と統轄部とイルダンです。請求先はその右の欄です」
「あんたは持ってないんですか」
「持っていません」
男は紙を返してから、口の端だけを動かした。
「取り上げても何も出ないわけだ」
「出ません。この一枚を焼かれても、番号は監査院の綴りにあります」
ガルドが宿へ入ってきたのはその晩だった。
外套は肩だけ濡れている。継送へ乗せる控えを抱えていた。
「柱は四つとも貼ってあった。裏返しも無え」
「野は」
「そこだ」
彼は控えを框へ置いて、外套の肩を絞った。
「秋の雨で法が落ちた。継ぎ目の口が出てる」
「触りましたか」
「触るかよ。街の止め手を先に呼んだ。着くまで二日、窪みの手前で座ってた」
「二人で見ましたか」
「見た。日付と名が入ってる。……あんたの名は入れてねえぞ」
「入れないでください」
「入れてねえと言ってんだろうが」
四つ目の欄には切られている、と書いてあった。
「白いのが一枚減ります」
「減るな。残りは二枚だ」
「脇の日付は」
「増えてる。通った日と、通って何も見えなかった日だ。二つずつ足してある」
控えを袋へ戻す手が、紐の途中で止まった。
「峠から言づけが来てた。宿の主人の字だ」
「伺います」
「読み上げの当番が替わったとよ」
彼は框の板を掌で二度叩いた。
「……それだけしか書いてねえ」
「そうですか」
箱の底に、決まらなかったことの一覧の写しがある。夏の卓の日付が入っている。ノラの罫で、行は四つだった。
費え。統轄部の権限。領の役所との掛かり。掘る許しを誰が出すか。
統轄部の権限の行だけ、脇に糸の通った跡がある。冬の写しがそこへ綴じ込まれたままだ。
――この行は残しておいていただく。
主人が横から覗き込んだ。
「これは減っていくものですか」
「減るとは限りません」
「増えますか」
「増えます。何かを決めるたびに、決まらないものが出ます」
翌朝、荷を担ぐ前に紙を一枚書いた。
行は二つである。この宿を発つ日と、次に通る宿の柱の紙の番号。
「イルダンへですか」
「監査院です。写しがイルダンへ回ります」
「番号だけですね」
「番号と日だけです」
主人は帳場から道の割りを出して、線の上の並びを指で追った。セルマの字である。
「次は五十一番ですね」
「五十一番です」
「二日ですよ」
「二日で参ります」
荷は軽かった。折り目の付いた一枚と、着替えと、筆と墨だけである。控えは無い。綴りも無い。
土間には昨夜の灰がまだ残っていた。主人が刷毛を桶へ立てて、糊の壺に蓋をする。柱の紙は貼り直したばかりで、二枚目の端だけがまだ浮いていた。
浮いた端を指の腹で押さえてから手を離した。乾けば付く。乾くまでは触らないほうがいい。
表へ出る前に柱の一枚目の下をもう一度見た。夏の卓のあとに貼られた小さい紙が一枚ある。
――次に開くのは、ネスカの便が四度出たあと。街道の南の分かれの宿場。
主人が刷毛を洗う手を止めた。
「便は夏の終わりに一度出たそうですよ」
「あと三度ですね」
「三度です。……次にいらっしゃるのは、それより前ですか」
「分かりません。道の割りは季ごとに組み直します」
「では日は入れずに待ちますよ」
「待たないでください。欄を空けておいていただければ結構です」
主人は表まで出てこなかった。柱の前で刷毛を持ったまま、貼り直した端をもう一度見ている。
街道は北へ向かって乾いていた。
五十一番の宿までは二日である。便はあと三度出る。




