第160話 四文字の目的
統轄部には客を通す卓が無い。
机が六つ、壁へ向けて並べてある。棚は天井まで届いていて、綴りの背が年ごとに立ててあった。埃は無い。書記官が三人、それぞれの机で頁を繰っている。
いちばん奥の一つだけ、頁を開いたまま筆が止まっている。
「半年の書き直しでございますね」
ミレナが控えを開いて訊いた。若い書記官が顔を上げる。
「今日が期日です」
「もう書かれましたか」
「これからです」
頁の脇に細い罫が貼り足してあった。四つ並んだ欄の一つ目に几帳面な字で一行だけ入っている。知らない、とある。日付と名がその下に付いていた。
「今日は何と入れられますか」
「同じです。半年で分かることではありませんので」
書記官は筆先を硯の縁で整えた。
アシュレイはその手を止めるように一歩前へ出た。
「少しだけ待っていただけますか」
「今日のうちに、ということですか」
「今日のうちにです」
アシュレイは荷から一枚を抜いて机の端へ置いた。官の綴り紙で、簀の目が太い。
奥の戸が開いた。
マーロウは外套を着ていなかった。袖の口に墨の汚れがある。机の上を見てから紙のほうへ寄ってきた。
「どこの紙です」
「街道の下の街です。宿の柱の下へ置かれたものを、その街が受けました」
「置いた者は」
「控えておりません」
「そういう罫を引かれましたな」
「引きました。原本は街に置いてあります。これは街の名で回ってきた写しです」
男は紙を持ち上げなかった。目だけを走らせている。
「番号と街の名だ。……うちの割りです」
「同じでしょうか」
「同じです。罫は二本。番号が先で在り処が後です」
マーロウは棚からいちばん古い綴りを自分で抜いてきた。書記官を呼びもしなかった。
ミレナが控えへ番号を入れてから、二枚を上から順に指で追った。
「頭の十行は揃っております。……こちらの写しは途中で切れておりますね」
「下は白いのですね」
「白うございます。罫だけが最後まで引いてございます」
彼女は指を止めて、机の縁で控えを開き直した。
「街の名が二つ、いまはございません」
マーロウが自分の綴りの同じ行へ指を置いた。
「こちらは線を引いて脇へ書き足してあります。合わさった街と、人のいなくなった街だ。私の前の前の代の字です」
「そちらの一枚は直っておりません」
「直っておりません」
アシュレイは二枚のあいだへ控えを広げた。
「同じ頃に写されたものが、片方だけ動いています」
紙をめくる音が二つの机で止まった。
「外にも出ていたのですか」
「出ていました。持てるはずのない側が持っています」
「では、うちが数えていたのは何のためです」
答える前に廊下で靴の音がした。
ローデリクが革の函を抱えて入ってきた。後ろにハーケンがいる。函から出したのは一枚きりの紙だった。
「書庫から借り出してまいりました。借り出しの欄に、返す日を入れてあります」
「返す日を入れましたか」
「入れました。空のままにしておくと、七十年です」
設立の紙が裁可の紙の写しの隣へ並んだ。番号は裁可の下へ二桁が付いている。日付は同じだった。
アシュレイは目的の欄へ指を置いた。四文字きりである。
「切った日に、同じ裁可で在り処を数える部署が作られています。順序は紙の上では同じです」
マーロウは椅子を引かずに立ったままだった。
アシュレイは紙の縁から指を離した。
「ここから先は、その紙のどこを読んでも載っていません」
「では、何をお話しになる」
「書いてあることの並べ方です。並べたところで証にはなりません」
「聞きます」
「上を切った者は繋ぎ順を消しました。消せば、確かめずに繋ぎ直す者は出ません。ですが確かめる者も、どこに何があるかを失います」
指を四文字の上へ戻した。
「片方は捨てられませんでした。……この四文字は、忘れさせるための四文字ではありません。確かめる日が来たときに、片方が残っているようにするための四文字です」
書記官の一人が筆を置いた音がした。
「外の一枚も同じです。順を渡された者が確かめに行くには、在り処が要ります。切った者は両方へ残しています」
「どちらが本物です」
「どちらもです。片方だけでは落ちますので」
マーロウは綴りの縁を握らなかった。声も変わらなかった。
「では、うちは正しかったのですか」
「あなたの部署は、確かめる側の半分を七十年落とさずに持っていました」
「そう書かれるのですか」
「書きます。……もう一つも同じ紙へ書きます」
アシュレイは新しい紙を引いた。
「何のために数えているかを知らないまま数えていました。知らない片方は、誰も取りに来ません。この七十年が長くなったのは、そこです」
ハーケンが窓際で腕を組んだ。
「褒めと責めを一枚に載せますか」
「載せます。分けて出せば、読む者が片方だけ持ち帰ります」
マーロウは頁へ目を落としたままだった。
「その一本の扱いは、誰が決めます」
「卓です」
「あなたは出せませんな」
「出せません」
「では、まだ何も決まりません」
男はそこで初めて顔を上げた。
「私は同じことを申し上げます。……全員が当事者であるなら、誰も止めない」
「変えられないのですね」
「変えません。理由が分かっても、決める者が十五で割れることは変わりません」
アシュレイは設立の紙の下端を指で示した。
「目的の欄の下へ、二行足していただきたいのです」
「四文字は消しません」
「消しません。足すだけです」
ノラの引いた罫割りを思い出しながら、二行を口に出して読み上げた。ミレナが写す。
――在り処だけを数えるのは、上を切った日に繋ぎ順を消し、確かめる者が出たときに要る片方を残したためである。上が在らぬことは確かめられた。日付は番号で引ける。
――次に確かめ直す日は半年ののち。以後も半年ごとに書き足す。
ハーケンが窓際から動いた。
「一つ目は事実です。二つ目が様式ですね」
「様式です」
「では条件を付けます。前の行を消して書き直さないこと。下へ足しなさい。……前の行が残っていれば、いつ何が変わったかが読めます」
「書き直さなかった期は」
「書き直さなかったと書きなさい。空けたままにされると、次の者はどこから手を付ければよいのか分かりません」
ローデリクが手元へ書き取った。
「補則の文へ落とします。期は資格の綴りと同じにします。半年ごとの提出と揃えておけば、片方だけ忘れることがありません」
ミレナは版下の寸法を測ってから顔を上げた。
「刷りはこちらの版でお願いいたします」
「うちで刷れとおっしゃるのですか」
「はい。イルダンの版で刷れば、イルダンの紙になります。……直すときも、こちらへ来なければ直せなくなります」
マーロウは書記官へ顎を向けた。若い男が版下を受け取って寸法を控えた。
名簿のいちばん古い頁は開いたままだった。
「書きなさい」
書記官の筆が止まった。
「同じと申し上げましたが」
「今日は違う。……前の行は消すな。下へ入れなさい」
筆が下りた。知らない、と書かれた一行の下へ二行目が入っていく。書き終えてから日付と名が付いた。半年前と同じ几帳面な字だった。
アシュレイは紐の端を指へ巻いてから手を止めた。
「決まらなかったことの一覧の写しに、脇書きが一行ございました」
マーロウは名簿を閉じにかかった。
「この行は残しておいていただく、と書きました」
「取り下げないという意味に読みました」
「違います」
綴りの背が棚の並びへ戻された。
「あの卓は、いつか潰れます。人が替わり、便が細り、誰かが議題を二つ持ち込んだ日に割れる。……潰れた日に、決まらなかったことの頁を読む者が出ます」
「読ませるために残されるのですか」
「そうです。なぜ潰れたのかが一行で掴めれば、次に作る者は同じ形で作りません。……残る紙というのは、そういう置き方をするものです」
「潰れる前提で置かれるのですね」
「置きます。名簿も棚に置きます。査察の権も返上しません」
返す言葉は要らなかった。ローデリクが借り出しの控えへ返す日を読み上げ、函の紐を掛けた。
書記官たちが版下を回して寸法を写している。刷り上がりは十日後だという。
マーロウは窓の下の長机で名簿の綴りへ紙帯を掛けた。掛け終えてから、顔を上げずに言った。
「その一つきりの受け皿は、あと何年もちますか」
部屋の音が一つぶん遅れた。
「お答えできません」
「測っておられぬのですか」
「測っています。年に何度か、王都で測っております」
「では何年です」
「並べた者がおりません」
男は紙帯の端を指で押さえたまま動かなかった。
「読んだ者は一人もいないわけですな」
「おりません」
帯の記録は監査院の棚に年ごとで綴じてある。測った日と、そのときの針の位置が入っている。測った手は何人もいた。
順に並べて見た者だけが、七十年、一人もいなかった。




