第159話 名を書かない紙
宿場の広間は思っていたより広かった。
街道が南で二つへ分かれる手前にある。継送の便が二日に一度停まり、荷を積み替える者が泊まっていく。梁は低い。床は土間ではなく板で、奥に炉が一つ切ってあった。
セルマは入るなり足で床を測り始めた。
「輪に組んで十五は入るわ。四隅の椅子を出させなければね」
「寝床は」
「十一よ。足りないぶんは下の街から通ってもらうの。半日の下りだから、朝の便に乗れば間に合うわ」
「便の割りは」
「もう出してあるわ。ネスカの四度目に合わせて、南から先に上げるのよ」
彼女は炉の脇まで歩いてから振り返った。
「言っておくけど、この下見の日は先に決めてあったのよ。あなたが峠から戻る前に割ったわ」
「存じています」
「言っておかないと、あなたが追いに来たように見えるでしょう」
柱は入口の脇に立っていた。紙は目の高さに貼ってある。その下へ蓋の無い木の箱が打ちつけてあった。
主人が帳場から控えを持ってきた。列は二つきりである。
「三枚受けました。下の街へ回してあります」
「名は」
「訊いておりません。……こちらが訊かなくても、名乗ろうとする人はおりますよ」
「そのときは」
「聞かなかったことにします。書く欄がありませんので」
三行とも、柱の番号と受けた日だけが入っていた。
「読むだけで置いていかない人もおりますよ」
「その方は」
「控えには入りません。受けていませんのでね。……おれの帳面のほうには書いてあります。宿の商いの話ですから」
「分けておられるのですね」
「分けます。混ぜれば、あとで誰かが混ざったまま読みますよ」
「箱のほうは」
「夜のうちに空けます。朝まで入れっぱなしにはしませんよ」
主人は筆の尻で戸の外を指した。
「読んでいったほうの人なら、まだこの辺りにおりますよ。三日前に薪の値を訊きに来ました」
「追いません」
「追わなくても来ますよ。柱を読む人は、たいてい二度来ます」
コルトが下から上がってきたのは昼過ぎだった。荷は小さい。
「南の下りを二つ回ってきた」
「首尾は」
「一つは書いた。もう一つは寄合が割れてる。書かねえとは言ってねえ」
彼は板の卓へ紙を一枚置いた。折り目が深く、端が擦れている。
「これだけだ。一枚しか持ってかねえ。長えのは読まれねえからな」
書いてあるのは三つきりだった。溜めること。減らす順を先に決めること。二人で立つこと。
戸が鳴ったのは日の落ちたあとである。
外套の肩が濡れていた。背負っているのは長い荷で、革の帯で三つに縛ってある。継ぎ具の束に見える形だが、縛り目の位置が違った。
男は荷を下ろさずに炉の手前で足を止めた。
「ヴァルターです」
「お久しぶりです」
「捕らえに来られたのではないのですね」
「下見に来ています。人は追っていません」
「宿の者がそう言っていました」
「そのとおりです」
彼はそこで初めて荷を床へ置いた。
「柱の紙を読みました。北の宿のです」
「読まれましたか」
「名は訊かない、と書いてありましたね。……名を訊かないと書いてある紙を、私は初めて見ました」
帳場のほうで硯を洗う音がした。
「一つ伺います」
「どうぞ」
「地面の下の一本には、いつまで、と書いてありますか」
「書いてありません」
「では同じです」
「まだ同じです。書ける場ができました」
ヴァルターは湯に手をつけなかった。
「七十年前に切った者の名は、出たのですか」
「出ました。二つです」
「伏せるために切ったのですか」
「いいえ。あの晩に一つ落ちて、隣が同じ形で落ちています。三日続きました。……止めるために切っています」
「手控えが残っているのですか」
「三日ぶん残っています。写しをお渡しします」
男は首を横に振った。
「見ません。……見れば、私は繋ぎ直せる理由のほうを探します。知りたいのは切った理由ではありません。さきほど伺ったほうです」
「いつまで、のほうですね」
「そうです。そこに何か続きがあるように聞こえました」
「そのあと、いつまで切ったままにするのかを書く欄が、どの紙にもありませんでした」
男の目が動いた。
「無いのですか」
「裁可の紙にも設立の紙にも手控えにもありません。期限の欄が初めから設けてありません」
彼は少し黙ってから腰を下ろした。
「私が言っているのはそこです」
「伺います」
「切ったことを恨んではいません。切るなら、いつ戻すのかを書いておくべきでした。書かなかったから、うちのほうは七十年待ったのです」
「そのとおりです」
「否まないのですね」
「否めません。書かれていませんでした」
ヴァルターは膝の上で指を組んだ。
「二つと言われましたね」
「裁可した者と、綴りを持って街へ下りた者です」
「咎めの紙は」
「出ていません」
「出さないのですか」
「私は出せません。決める場は卓です」
彼は炉の火へ目を落とした。
「席の無い人がそう言うと、逃げに聞こえます」
「聞こえるでしょうね」
セルマが板の卓へ道の割りを広げた。
「道はこっちで割るわ。下りの三つなら、月に二度の荷に合わせられるの」
「金の出どころを調べたでしょう」
「調べたわ。数はもう出したのよ。二十年で誰も一枚も抜いていないわ。……それ以上は数から出ないの」
「儲けるためにやっていません」
「知っているわ。だから数を出したの」
男は荷の帯へ手を掛けたが解かなかった。
「私の生まれた街は、人が半分になりました。……薪の話です。それだけの話です」
炉のなかで薪が一本崩れた。
コルトは炭を火床の端へ寄せた。
「うちも細ってた。去年の冬は核を起こしてねえ。凌いだ」
「凌ぎは凌ぎです」
「凌ぎだ。だが半分にはならなかった」
彼は膝へ肘を置いた。
「溜めた。夜を削った。減らす順を先に決めた。……順を決めとかねえと毎晩もめる。もめてるうちに、誰かが火をつけに行くんだ」
「足りたのですか」
「足りねえよ。春まで薄暗かった。ただ、うちは誰も死んでねえ」
男は答えなかった。
「型は紙一枚だ。持っていける」
「誰が持っていくのですか」
「おれが行く」
ヴァルターはアシュレイのほうを見た。
「あなたではないのですね」
「私は行きません。私が行った街は、私が来ない年に止まりません」
男は帯へ掛けた手を下ろした。
「街の名は言いません」
コルトが先に答えた。
「言わなくていい」
彼は炭を火床の端へ寄せ直した。
「南の下りを三つ回る。あんたの街がその中にありゃ、そこで会う。無くても、その隣までは行く」
「隣ですか」
「隣で足りなきゃ、そのまた隣だ。おれの足の続くとこまでだよ」
ヴァルターはしばらく火を見ていた。
「一つだけ伺います」
「どうぞ」
「あなたの卓は、次の冬に間に合いますか」
板のきしむ音が奥のほうで一度した。
「間に合わないかもしれません」
「そう答えるのですか」
「間に合うと申し上げれば、あなたは待ちます。待って間に合わなければ、次はもう誰の紙も読まないでしょう」
彼は長く息を吐いた。
「先生なら、間に合わせると言われたでしょうね」
「言われたでしょうね」
「帳面は渡しません」
「求めていません」
「渡せば、先生の言葉ごと綴じられます」
「綴じます。綴じたものは引けるようになります」
「ですから渡しません。……引けるようになったものを、次に誰が引くかは分かりません」
「そのとおりです」
男は荷の口を開けて束から紙を数枚抜いた。表を返さずに柱の下の箱へ入れる。何が書いてあるかは、こちらからは見えなかった。
「置いていきます」
「受けるのは宿です」
「柱に書いてありました。日と番号だけ控えるとも」
主人が控えを持ってきて、その場で二つの列を埋めた。
ヴァルターが発ったのは夜明け前だった。
セルマは湯を注いでから戸の閂を見た。
「行かせるのね」
「行かせます」
「あの人、次の冬にまた継ぎ具を担ぐわよ」
「担ぐでしょう」
「止めないの」
「止められません。……止まるとすれば、あの街の紙に名が入ったときです」
翌日の昼、下の街から触れてよい者が上がってきた。
鍛冶の親方で、指が太く爪が短く切ってあった。主人が帳場の奥から束を出してきて卓へ置く。親方は腰を下ろしてから紐を解いた。
「先に読みます。出すか出さねえかはそれからだ」
「そうしてください」
彼は一枚ずつ伏せたまま端をつまんで数えた。途中で手が止まる。
「一枚だけ違う」
「字がですか」
「紙だ。触ればすぐ分かる。これだけ硬え」
親方はその一枚を伏せたまま卓の端へ寄せた。
「監査官さん。紙だけ見てもらえますか。字は見せませんよ」
「結構です」
「うちが出すと決めるまでは、あんたも他所の人だ」
「そのとおりです」
アシュレイは端だけを持ち上げた。耳の落とし方が街の紙屋のものではない。簀の目が太く、綴じ穴が二つ残っている。
「官の綴り紙です。順の写しのいちばん古い一枚と同じ漉きに見えます」
「中身は文じゃありませんよ」
「伺えますか」
「数と、街の名が縦に並んでるだけです。ほかは何も書いてねえ」
「どちらが先に来ますか」
「数が先だ」
アシュレイは端から手を離した。
「在り処の並びです」
「在り処ってのは」
「どこに何が据わっているかを並べたものです。……順を継いできた側が持てる紙ではありません」
親方は紙の端をそろえ、紐を二重に回した。
「寄合は明日だ。うちが出すかどうかはそこで決める」
「日付をお願いします」
「入れる」
彼が下りていってから、アシュレイは柱の紙の前にしばらく立っていた。
七十年前に割られた片方は、制度の内側へ残された。もう片方は外へ出て、名を訊かない者たちの手を渡ってきた。並びの紙が外側に混じっているなら、割った手は両方を持っていたことになる。
持っていた者は、片方を捨てなかった。
どちらの側へ残すつもりだったのかは、まだどの紙にも書いていない。




