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追放された運用保守担当、辺境都市の障害を全部直したら英雄になった  作者: 結城ログ
第15章:七十年前の応急処置〜暫定に、終わりを書け〜
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第159話 名を書かない紙

 宿場の広間は思っていたより広かった。


 街道が南で二つへ分かれる手前にある。継送の便が二日に一度停まり、荷を積み替える者が泊まっていく。梁は低い。床は土間ではなく板で、奥に炉が一つ切ってあった。


 セルマは入るなり足で床を測り始めた。


「輪に組んで十五は入るわ。四隅の椅子を出させなければね」


「寝床は」


「十一よ。足りないぶんは下の街から通ってもらうの。半日の下りだから、朝の便に乗れば間に合うわ」


「便の割りは」


「もう出してあるわ。ネスカの四度目に合わせて、南から先に上げるのよ」


 彼女は炉の脇まで歩いてから振り返った。


「言っておくけど、この下見の日は先に決めてあったのよ。あなたが峠から戻る前に割ったわ」


「存じています」


「言っておかないと、あなたが追いに来たように見えるでしょう」


 柱は入口の脇に立っていた。紙は目の高さに貼ってある。その下へ蓋の無い木の箱が打ちつけてあった。


 主人が帳場から控えを持ってきた。列は二つきりである。


「三枚受けました。下の街へ回してあります」


「名は」


「訊いておりません。……こちらが訊かなくても、名乗ろうとする人はおりますよ」


「そのときは」


「聞かなかったことにします。書く欄がありませんので」


 三行とも、柱の番号と受けた日だけが入っていた。


「読むだけで置いていかない人もおりますよ」


「その方は」


「控えには入りません。受けていませんのでね。……おれの帳面のほうには書いてあります。宿の商いの話ですから」


「分けておられるのですね」


「分けます。混ぜれば、あとで誰かが混ざったまま読みますよ」


「箱のほうは」


「夜のうちに空けます。朝まで入れっぱなしにはしませんよ」


 主人は筆の尻で戸の外を指した。


「読んでいったほうの人なら、まだこの辺りにおりますよ。三日前に薪の値を訊きに来ました」


「追いません」


「追わなくても来ますよ。柱を読む人は、たいてい二度来ます」


 コルトが下から上がってきたのは昼過ぎだった。荷は小さい。


「南の下りを二つ回ってきた」


「首尾は」


「一つは書いた。もう一つは寄合が割れてる。書かねえとは言ってねえ」


 彼は板の卓へ紙を一枚置いた。折り目が深く、端が擦れている。


「これだけだ。一枚しか持ってかねえ。長えのは読まれねえからな」


 書いてあるのは三つきりだった。溜めること。減らす順を先に決めること。二人で立つこと。


 戸が鳴ったのは日の落ちたあとである。


 外套の肩が濡れていた。背負っているのは長い荷で、革の帯で三つに縛ってある。継ぎ具の束に見える形だが、縛り目の位置が違った。


 男は荷を下ろさずに炉の手前で足を止めた。


「ヴァルターです」


「お久しぶりです」


「捕らえに来られたのではないのですね」


「下見に来ています。人は追っていません」


「宿の者がそう言っていました」


「そのとおりです」


 彼はそこで初めて荷を床へ置いた。


「柱の紙を読みました。北の宿のです」


「読まれましたか」


「名は訊かない、と書いてありましたね。……名を訊かないと書いてある紙を、私は初めて見ました」


 帳場のほうで硯を洗う音がした。


「一つ伺います」


「どうぞ」


「地面の下の一本には、いつまで、と書いてありますか」


「書いてありません」


「では同じです」


「まだ同じです。書ける場ができました」


 ヴァルターは湯に手をつけなかった。


「七十年前に切った者の名は、出たのですか」


「出ました。二つです」


「伏せるために切ったのですか」


「いいえ。あの晩に一つ落ちて、隣が同じ形で落ちています。三日続きました。……止めるために切っています」


「手控えが残っているのですか」


「三日ぶん残っています。写しをお渡しします」


 男は首を横に振った。


「見ません。……見れば、私は繋ぎ直せる理由のほうを探します。知りたいのは切った理由ではありません。さきほど伺ったほうです」


「いつまで、のほうですね」


「そうです。そこに何か続きがあるように聞こえました」


「そのあと、いつまで切ったままにするのかを書く欄が、どの紙にもありませんでした」


 男の目が動いた。


「無いのですか」


「裁可の紙にも設立の紙にも手控えにもありません。期限の欄が初めから設けてありません」


 彼は少し黙ってから腰を下ろした。


「私が言っているのはそこです」


「伺います」


「切ったことを恨んではいません。切るなら、いつ戻すのかを書いておくべきでした。書かなかったから、うちのほうは七十年待ったのです」


「そのとおりです」


「否まないのですね」


「否めません。書かれていませんでした」


 ヴァルターは膝の上で指を組んだ。


「二つと言われましたね」


「裁可した者と、綴りを持って街へ下りた者です」


「咎めの紙は」


「出ていません」


「出さないのですか」


「私は出せません。決める場は卓です」


 彼は炉の火へ目を落とした。


「席の無い人がそう言うと、逃げに聞こえます」


「聞こえるでしょうね」


 セルマが板の卓へ道の割りを広げた。


「道はこっちで割るわ。下りの三つなら、月に二度の荷に合わせられるの」


「金の出どころを調べたでしょう」


「調べたわ。数はもう出したのよ。二十年で誰も一枚も抜いていないわ。……それ以上は数から出ないの」


「儲けるためにやっていません」


「知っているわ。だから数を出したの」


 男は荷の帯へ手を掛けたが解かなかった。


「私の生まれた街は、人が半分になりました。……薪の話です。それだけの話です」


 炉のなかで薪が一本崩れた。


 コルトは炭を火床の端へ寄せた。


「うちも細ってた。去年の冬は核を起こしてねえ。凌いだ」


「凌ぎは凌ぎです」


「凌ぎだ。だが半分にはならなかった」


 彼は膝へ肘を置いた。


「溜めた。夜を削った。減らす順を先に決めた。……順を決めとかねえと毎晩もめる。もめてるうちに、誰かが火をつけに行くんだ」


「足りたのですか」


「足りねえよ。春まで薄暗かった。ただ、うちは誰も死んでねえ」


 男は答えなかった。


「型は紙一枚だ。持っていける」


「誰が持っていくのですか」


「おれが行く」


 ヴァルターはアシュレイのほうを見た。


「あなたではないのですね」


「私は行きません。私が行った街は、私が来ない年に止まりません」


 男は帯へ掛けた手を下ろした。


「街の名は言いません」


 コルトが先に答えた。


「言わなくていい」


 彼は炭を火床の端へ寄せ直した。


「南の下りを三つ回る。あんたの街がその中にありゃ、そこで会う。無くても、その隣までは行く」


「隣ですか」


「隣で足りなきゃ、そのまた隣だ。おれの足の続くとこまでだよ」


 ヴァルターはしばらく火を見ていた。


「一つだけ伺います」


「どうぞ」


「あなたの卓は、次の冬に間に合いますか」


 板のきしむ音が奥のほうで一度した。


「間に合わないかもしれません」


「そう答えるのですか」


「間に合うと申し上げれば、あなたは待ちます。待って間に合わなければ、次はもう誰の紙も読まないでしょう」


 彼は長く息を吐いた。


「先生なら、間に合わせると言われたでしょうね」


「言われたでしょうね」


「帳面は渡しません」


「求めていません」


「渡せば、先生の言葉ごと綴じられます」


「綴じます。綴じたものは引けるようになります」


「ですから渡しません。……引けるようになったものを、次に誰が引くかは分かりません」


「そのとおりです」


 男は荷の口を開けて束から紙を数枚抜いた。表を返さずに柱の下の箱へ入れる。何が書いてあるかは、こちらからは見えなかった。


「置いていきます」


「受けるのは宿です」


「柱に書いてありました。日と番号だけ控えるとも」


 主人が控えを持ってきて、その場で二つの列を埋めた。


 ヴァルターが発ったのは夜明け前だった。


 セルマは湯を注いでから戸の閂を見た。


「行かせるのね」


「行かせます」


「あの人、次の冬にまた継ぎ具を担ぐわよ」


「担ぐでしょう」


「止めないの」


「止められません。……止まるとすれば、あの街の紙に名が入ったときです」


 翌日の昼、下の街から触れてよい者が上がってきた。


 鍛冶の親方で、指が太く爪が短く切ってあった。主人が帳場の奥から束を出してきて卓へ置く。親方は腰を下ろしてから紐を解いた。


「先に読みます。出すか出さねえかはそれからだ」


「そうしてください」


 彼は一枚ずつ伏せたまま端をつまんで数えた。途中で手が止まる。


「一枚だけ違う」


「字がですか」


「紙だ。触ればすぐ分かる。これだけ硬え」


 親方はその一枚を伏せたまま卓の端へ寄せた。


「監査官さん。紙だけ見てもらえますか。字は見せませんよ」


「結構です」


「うちが出すと決めるまでは、あんたも他所の人だ」


「そのとおりです」


 アシュレイは端だけを持ち上げた。耳の落とし方が街の紙屋のものではない。簀の目が太く、綴じ穴が二つ残っている。


「官の綴り紙です。順の写しのいちばん古い一枚と同じ漉きに見えます」


「中身は文じゃありませんよ」


「伺えますか」


「数と、街の名が縦に並んでるだけです。ほかは何も書いてねえ」


「どちらが先に来ますか」


「数が先だ」


 アシュレイは端から手を離した。


「在り処の並びです」


「在り処ってのは」


「どこに何が据わっているかを並べたものです。……順を継いできた側が持てる紙ではありません」


 親方は紙の端をそろえ、紐を二重に回した。


「寄合は明日だ。うちが出すかどうかはそこで決める」


「日付をお願いします」


「入れる」


 彼が下りていってから、アシュレイは柱の紙の前にしばらく立っていた。


 七十年前に割られた片方は、制度の内側へ残された。もう片方は外へ出て、名を訊かない者たちの手を渡ってきた。並びの紙が外側に混じっているなら、割った手は両方を持っていたことになる。


 持っていた者は、片方を捨てなかった。


 どちらの側へ残すつもりだったのかは、まだどの紙にも書いていない。


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