第158話 訊かない決まり
柱の前に八人立っていた。
峠の宿の土間である。荷を下ろす刻限に合わせて読むのが決まりになっているらしい。主人は紙を柱から外さず、指で押さえたまま読み上げた。
「窪みの周りへ人を近づけないこと。掘りかけの土をならさないこと。次に通る者が同じ場所を見て日付を控えること」
息を一つ置いてから下の行へ移る。
――止める者はそれぞれの街の紙に名がある。この暫定はここで終わる。
最後にこの街の止め手の名を二つ読んだ。荷運びが肩を回しながら聞いていて、読み終わると誰も何も言わずに散っていった。
主人は帳場の帳面へ日を入れ、その脇へ聞いた人の数を書いた。
「八人です」
「毎日その数を書いておられますか」
「書きます。誰も来ない日は零と書きますよ」
筆を置いてから彼はこちらの荷を見た。
「五日で来ましたね」
「五日でした」
「あの人なら東の外れです。動いていませんよ」
オルセンの家は街道から一本外れた坂の途中にあった。
戸は開けたままで土間の隅で古い紐を編み直している。膝の上で束が三つに割れていた。
「来たか」
「参りました」
「思ったより早いな」
「便が動きました」
彼は紐から手を離さずに框を顎で示した。アシュレイは荷を下ろして控えを二つ並べた。
「二つに分けてまいりました。こちらは名の入っていないほうです」
オルセンの目が置かれていないほうの荷へ一度だけ動いた。
「もう一つは」
「名が二つ入っています。出しません」
「気が利くな」
「先に言われる前に置きました」
彼は編みかけを膝へ落として初めてこちらを見た。
「言うておく。名は訊かん」
「承知しました」
「わしが訊けば、わしの渡した三人に訊く癖がうつる。順はそういうふうにできておる」
「うつりますか」
「うつる。四十年見てきた」
アシュレイは名の入っていないほうの束を框へ広げた。写しは三枚である。日付は続いた三日だった。
オルセンは一枚目を膝へ乗せ、指の腹で欄を辿った。
「欄が四つあるな」
「いつ。どこ。どう落ちたか。戻ったか。四つです」
「四つ目が、全部同じだ」
「同じです」
「三日で終わっておるのは」
「四日目がありません。書かれなかったのか、失われたのかは出ませんでした」
彼は三枚を順に読んだ。読み終えてからも紙を返さなかった。
「落ちたのを止めたのだな。これは」
「止めています。上を切れば、伝いが隣までで止まります」
「隣までか」
「隣までです」
オルセンは紙を框へ戻した。
「訊きたいのはそこではない」
「伺っております」
「あれを書いた者のことだ」
風が坂の下から上がってきて戸の外で紐の束が鳴った。
「欄の外の一行ですか」
「そうだ。……あれを書いた者は、渡す側だったのか、切る側だったのか」
「両方です」
編みかけの紐が膝の上で完全に止まった。
「両方とは、どういうことだ」
「紙で出たことから申し上げます。あの一枚は綴りから抜いたものです。綴じ穴の間が合いました。抜いた側の当たりが片方だけ強く残っています」
「綴りというのは」
「七十年前の裁可の綴りです。借りて、返さずに街へ下りた者がいます。当夜の手控えは、その綴りに挟まっていました」
「字は」
「同じ手に見えます。写しですので、こちらは見えるまでです」
「そこから先は」
「読みです。紙では出ません」
「言え」
アシュレイは框へ両手を置いた。
「上を切った手と、順を始めた手は、同じ一つです。切った者が、渡す決まりを作りました」
オルセンは戸の外の光を見ていた。しばらく何も言わなかった。
「わしは、止めろと言い残した誰かがおると思うておった」
「おられました」
「切った本人か」
「切った本人です」
「そうか」
彼は編み目の乱れたところへ指を入れて直さずに抜いた。
「順を渡された晩にな、わしは一度だけ訊いたのだ。これは誰の言いつけかと」
「何と」
「知らんと言うた。……知らんはずだ。訊かん決まりだからな」
アシュレイは束を揃えて紐を掛けた。
「一つお伝えします」
「言え」
「あの一行は渡し方ではありません。条件です。確かめるほうが先に置いてあります」
「書いてあるな」
「確かめた者は、あなたです」
オルセンは首の後ろを掌で押さえた。
「わしは針を見ただけだ。半日待って、戻ったから外した者として名を書いた。それだけだ」
「七十年、それをした者がいませんでした」
「見に行けば分かることだぞ」
「見に行ってよいと言える者がいませんでした。……手続きの上では、あの晩の紙はもう閉じられます」
「閉じるのか」
「閉じる者が決まっていません」
「決めるのはどこだ」
「卓です」
彼は膝の紐を床へ置いた。
「うちの街は出る。だが出るのはわしではない。寄合の別の者だ」
「存じています」
「わしは名を書いた男だ。書いた者が出れば、順の話が卓の話になる」
「なります」
しばらく坂を上る荷の音がしてそれが遠くなってから彼が言った。
「順の側から一枚出せるか」
「出せません。出せるのは街だけです」
「では名が要るな」
「要らない形にできれば出せます」
「できるのか」
「まだできていません」
坂を下りて宿へ着いたときには日が傾いていた。
土間の隅を借りて紙を一枚引いた。書いたのは四行である。柱に紙の貼ってある宿へ置いてよいこと。宿は受けた日と、柱の紙の番号だけを控えること。名は訊かないこと。宿はその紙を街の触れてよい者へ回すこと。
主人が湯を運んできて上から覗き込んだ。
「置いていく紙の話ですか」
「そうです。預かっていただきます」
「預かるのは構いませんよ。日と番号だけなら、うちの者でも書けます」
「名は訊かないでください」
「訊きません。……ただ、そのあとが違う話です」
筆の先が紙から離れた。
「続けてください」
「おれは預かるだけです。判はうちの街のものですよ。おれが押すものじゃありません」
土間の火が一度落ちて主人が薪を足した。
「押さないでください、と書くつもりでした」
「書いてあっても押しますよ」
「押しますか」
「夜中に人が来て、明日出さないと間に合わないと言われたら押します。おれはそういう男です。……そういう晩のために、押せない形にしておいてください」
「判はどこにありますか」
「寄合です。坂を下って半刻ですよ」
「半刻で結構です」
「近くしなくていいので」
「近くしません。半刻かかるままにします」
翌朝、四行を写して継送へ乗せた。宛先は市庁の窓口ではなくノラである。罫を引くのは書記であって、こちらではない。
セルマの割りでは、もう峠を発っている日だった。
返りが着いたのは八日目の昼だった。
宛名はノラの字だった。最後の一画に力が入って紙が裂けかけている。中は三枚だった。
――名の無い紙を議題にするなら、出した街の名も入らないのよ。あなたが作った様式に穴を開けることになるわ。
――だから、その紙は順が出すんじゃないわ。受けた街が出すのよ。
三枚目に、細い罫の引いてある控えの写しが入っていた。列は二つきりで、受けた宿の柱の番号と、受けた日だけである。名の欄は無い。
いちばん下にもう一行あった。
――穴は塞がるけれど、遅くなるわ。それでいいのね。
アシュレイは返しを一枚書いた。遅くしてください、と書いて、その下へ理由を一行入れた。急げば名を訊きます、と書いた。
峠の街の触れてよい者が宿へ来たのはその日の夕方である。柱で名を読み上げられた二人のうちの後ろのほうで、中年の女だった。峠へ上げる荷を送り出してから来たと言って、土間の端に立ったまま紙を読んだ。
「うちが出したことになるんですね」
「なります。街の名と判で出ます」
「中は読めますか」
「読んでから決めてください。読まずに出すのは無しにします」
「読んで、出さないと決めたら」
「出さないの列へ入ります。街の名が残ります」
彼女は紙の端を指で二度弾いた。
「残るのが困る、とは言いませんよ。……うちは印しか返せない街じゃありませんから」
「困る街もあります」
「あるでしょうね。うちは読みます。読んでから決めます」
彼女は寄合へ戻る前に一つだけ訊いた。
「置いていった人の名は、本当に訊かないんですか」
「訊きません」
「訊かなかった、と書くんですか」
「書きます。訊かなかったことを、訊かなかったと書きます」
発つ前の朝にもう一度オルセンの家へ寄った。
紐は編み上がって戸の脇の釘に掛かっている。
「置き場は決まったか」
「柱に紙の貼ってある宿です。受けるのは宿で、出すのは街です」
「宿は名を訊かんのだな」
「訊きません。日と番号だけ控えます」
「なら伝わる」
彼は釘の紐を掛け直した。
「ただし、いつ届くかは分からんぞ。順は速さで作っておらん」
「急ぎません」
「夏の卓に間に合わんかもしれん」
「間に合わなければ、その次です」
オルセンは口の端だけ動かした。
「そう言えるようになったか」
アシュレイは荷を担ぎ直した。
「一つだけ、こちらから」
「言え」
「私はあの窓口を使いません」
「使えばよかろう。あんたも名は書ける」
「書けます。ですから使えません。名を書ける者の紙を宿へ置けば、置いた者ではなく宿の街が背負います」
「面倒なやり方をするな」
「面倒です」
帰りも五日かかった。
市庁の土間は乾いていて、階の下の泥はもう固まっている。荷を下ろす前にガルドが框から声を投げた。
「近い四つは回ってきた。全部貼ってあった」
「裏返しは」
「無え。今度は誰も触ってねえ」
「野の五つは」
「土は動いてねえ。日付だけ控えた」
ガルドは掌を膝で拭った。それから思い出したように顔を上げた。
「一つ妙なのがあった」
「伺います」
「街道の宿だ。峠じゃねえ。ここでもねえ。柱の紙を読ませてくれと言ったやつがいたとよ」
「日付は」
「控えてある。十日前だ」
「名は」
「訊いてねえ。訊くなと書いたのはあんただろうが」
「書きました」
「宿のやつが一つだけ覚えてた」
ガルドは土間の隅の荷へ目をやった。
「荷だ。継ぎ具みてえなもんを担いでたとよ」
アシュレイは控えを開かなかった。
峠で紙を預かれる形が立ったのはそのあとである。順の側へ言づけが下りるには、まだ早い。
「置いていったものは」
「無え。読んだだけだ」
「読んだだけですね」
「そうだ。……追わせるか」
「追いません」
柱の前に立つ者へは近づかないと、こちらで決めてある。決めたのはこちらだが、次に通る日を控えているのは宿のほうだった。




