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追放された運用保守担当、辺境都市の障害を全部直したら英雄になった  作者: 結城ログ
第15章:七十年前の応急処置〜暫定に、終わりを書け〜
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第158話 訊かない決まり

 柱の前に八人立っていた。


 峠の宿の土間である。荷を下ろす刻限に合わせて読むのが決まりになっているらしい。主人は紙を柱から外さず、指で押さえたまま読み上げた。


「窪みの周りへ人を近づけないこと。掘りかけの土をならさないこと。次に通る者が同じ場所を見て日付を控えること」


 息を一つ置いてから下の行へ移る。


 ――止める者はそれぞれの街の紙に名がある。この暫定はここで終わる。


 最後にこの街の止め手の名を二つ読んだ。荷運びが肩を回しながら聞いていて、読み終わると誰も何も言わずに散っていった。


 主人は帳場の帳面へ日を入れ、その脇へ聞いた人の数を書いた。


「八人です」


「毎日その数を書いておられますか」


「書きます。誰も来ない日は零と書きますよ」


 筆を置いてから彼はこちらの荷を見た。


「五日で来ましたね」


「五日でした」


「あの人なら東の外れです。動いていませんよ」


 オルセンの家は街道から一本外れた坂の途中にあった。


 戸は開けたままで土間の隅で古い紐を編み直している。膝の上で束が三つに割れていた。


「来たか」


「参りました」


「思ったより早いな」


「便が動きました」


 彼は紐から手を離さずに框を顎で示した。アシュレイは荷を下ろして控えを二つ並べた。


「二つに分けてまいりました。こちらは名の入っていないほうです」


 オルセンの目が置かれていないほうの荷へ一度だけ動いた。


「もう一つは」


「名が二つ入っています。出しません」


「気が利くな」


「先に言われる前に置きました」


 彼は編みかけを膝へ落として初めてこちらを見た。


「言うておく。名は訊かん」


「承知しました」


「わしが訊けば、わしの渡した三人に訊く癖がうつる。順はそういうふうにできておる」


「うつりますか」


「うつる。四十年見てきた」


 アシュレイは名の入っていないほうの束を框へ広げた。写しは三枚である。日付は続いた三日だった。


 オルセンは一枚目を膝へ乗せ、指の腹で欄を辿った。


「欄が四つあるな」


「いつ。どこ。どう落ちたか。戻ったか。四つです」


「四つ目が、全部同じだ」


「同じです」


「三日で終わっておるのは」


「四日目がありません。書かれなかったのか、失われたのかは出ませんでした」


 彼は三枚を順に読んだ。読み終えてからも紙を返さなかった。


「落ちたのを止めたのだな。これは」


「止めています。上を切れば、伝いが隣までで止まります」


「隣までか」


「隣までです」


 オルセンは紙を框へ戻した。


「訊きたいのはそこではない」


「伺っております」


「あれを書いた者のことだ」


 風が坂の下から上がってきて戸の外で紐の束が鳴った。


「欄の外の一行ですか」


「そうだ。……あれを書いた者は、渡す側だったのか、切る側だったのか」


「両方です」


 編みかけの紐が膝の上で完全に止まった。


「両方とは、どういうことだ」


「紙で出たことから申し上げます。あの一枚は綴りから抜いたものです。綴じ穴の間が合いました。抜いた側の当たりが片方だけ強く残っています」


「綴りというのは」


「七十年前の裁可の綴りです。借りて、返さずに街へ下りた者がいます。当夜の手控えは、その綴りに挟まっていました」


「字は」


「同じ手に見えます。写しですので、こちらは見えるまでです」


「そこから先は」


「読みです。紙では出ません」


「言え」


 アシュレイは框へ両手を置いた。


「上を切った手と、順を始めた手は、同じ一つです。切った者が、渡す決まりを作りました」


 オルセンは戸の外の光を見ていた。しばらく何も言わなかった。


「わしは、止めろと言い残した誰かがおると思うておった」


「おられました」


「切った本人か」


「切った本人です」


「そうか」


 彼は編み目の乱れたところへ指を入れて直さずに抜いた。


「順を渡された晩にな、わしは一度だけ訊いたのだ。これは誰の言いつけかと」


「何と」


「知らんと言うた。……知らんはずだ。訊かん決まりだからな」


 アシュレイは束を揃えて紐を掛けた。


「一つお伝えします」


「言え」


「あの一行は渡し方ではありません。条件です。確かめるほうが先に置いてあります」


「書いてあるな」


「確かめた者は、あなたです」


 オルセンは首の後ろを掌で押さえた。


「わしは針を見ただけだ。半日待って、戻ったから外した者として名を書いた。それだけだ」


「七十年、それをした者がいませんでした」


「見に行けば分かることだぞ」


「見に行ってよいと言える者がいませんでした。……手続きの上では、あの晩の紙はもう閉じられます」


「閉じるのか」


「閉じる者が決まっていません」


「決めるのはどこだ」


「卓です」


 彼は膝の紐を床へ置いた。


「うちの街は出る。だが出るのはわしではない。寄合の別の者だ」


「存じています」


「わしは名を書いた男だ。書いた者が出れば、順の話が卓の話になる」


「なります」


 しばらく坂を上る荷の音がしてそれが遠くなってから彼が言った。


「順の側から一枚出せるか」


「出せません。出せるのは街だけです」


「では名が要るな」


「要らない形にできれば出せます」


「できるのか」


「まだできていません」


 坂を下りて宿へ着いたときには日が傾いていた。


 土間の隅を借りて紙を一枚引いた。書いたのは四行である。柱に紙の貼ってある宿へ置いてよいこと。宿は受けた日と、柱の紙の番号だけを控えること。名は訊かないこと。宿はその紙を街の触れてよい者へ回すこと。


 主人が湯を運んできて上から覗き込んだ。


「置いていく紙の話ですか」


「そうです。預かっていただきます」


「預かるのは構いませんよ。日と番号だけなら、うちの者でも書けます」


「名は訊かないでください」


「訊きません。……ただ、そのあとが違う話です」


 筆の先が紙から離れた。


「続けてください」


「おれは預かるだけです。判はうちの街のものですよ。おれが押すものじゃありません」


 土間の火が一度落ちて主人が薪を足した。


「押さないでください、と書くつもりでした」


「書いてあっても押しますよ」


「押しますか」


「夜中に人が来て、明日出さないと間に合わないと言われたら押します。おれはそういう男です。……そういう晩のために、押せない形にしておいてください」


「判はどこにありますか」


「寄合です。坂を下って半刻ですよ」


「半刻で結構です」


「近くしなくていいので」


「近くしません。半刻かかるままにします」


 翌朝、四行を写して継送へ乗せた。宛先は市庁の窓口ではなくノラである。罫を引くのは書記であって、こちらではない。


 セルマの割りでは、もう峠を発っている日だった。


 返りが着いたのは八日目の昼だった。


 宛名はノラの字だった。最後の一画に力が入って紙が裂けかけている。中は三枚だった。


 ――名の無い紙を議題にするなら、出した街の名も入らないのよ。あなたが作った様式に穴を開けることになるわ。


 ――だから、その紙は順が出すんじゃないわ。受けた街が出すのよ。


 三枚目に、細い罫の引いてある控えの写しが入っていた。列は二つきりで、受けた宿の柱の番号と、受けた日だけである。名の欄は無い。


 いちばん下にもう一行あった。


 ――穴は塞がるけれど、遅くなるわ。それでいいのね。


 アシュレイは返しを一枚書いた。遅くしてください、と書いて、その下へ理由を一行入れた。急げば名を訊きます、と書いた。


 峠の街の触れてよい者が宿へ来たのはその日の夕方である。柱で名を読み上げられた二人のうちの後ろのほうで、中年の女だった。峠へ上げる荷を送り出してから来たと言って、土間の端に立ったまま紙を読んだ。


「うちが出したことになるんですね」


「なります。街の名と判で出ます」


「中は読めますか」


「読んでから決めてください。読まずに出すのは無しにします」


「読んで、出さないと決めたら」


「出さないの列へ入ります。街の名が残ります」


 彼女は紙の端を指で二度弾いた。


「残るのが困る、とは言いませんよ。……うちは印しか返せない街じゃありませんから」


「困る街もあります」


「あるでしょうね。うちは読みます。読んでから決めます」


 彼女は寄合へ戻る前に一つだけ訊いた。


「置いていった人の名は、本当に訊かないんですか」


「訊きません」


「訊かなかった、と書くんですか」


「書きます。訊かなかったことを、訊かなかったと書きます」


 発つ前の朝にもう一度オルセンの家へ寄った。


 紐は編み上がって戸の脇の釘に掛かっている。


「置き場は決まったか」


「柱に紙の貼ってある宿です。受けるのは宿で、出すのは街です」


「宿は名を訊かんのだな」


「訊きません。日と番号だけ控えます」


「なら伝わる」


 彼は釘の紐を掛け直した。


「ただし、いつ届くかは分からんぞ。順は速さで作っておらん」


「急ぎません」


「夏の卓に間に合わんかもしれん」


「間に合わなければ、その次です」


 オルセンは口の端だけ動かした。


「そう言えるようになったか」


 アシュレイは荷を担ぎ直した。


「一つだけ、こちらから」


「言え」


「私はあの窓口を使いません」


「使えばよかろう。あんたも名は書ける」


「書けます。ですから使えません。名を書ける者の紙を宿へ置けば、置いた者ではなく宿の街が背負います」


「面倒なやり方をするな」


「面倒です」


 帰りも五日かかった。


 市庁の土間は乾いていて、階の下の泥はもう固まっている。荷を下ろす前にガルドが框から声を投げた。


「近い四つは回ってきた。全部貼ってあった」


「裏返しは」


「無え。今度は誰も触ってねえ」


「野の五つは」


「土は動いてねえ。日付だけ控えた」


 ガルドは掌を膝で拭った。それから思い出したように顔を上げた。


「一つ妙なのがあった」


「伺います」


「街道の宿だ。峠じゃねえ。ここでもねえ。柱の紙を読ませてくれと言ったやつがいたとよ」


「日付は」


「控えてある。十日前だ」


「名は」


「訊いてねえ。訊くなと書いたのはあんただろうが」


「書きました」


「宿のやつが一つだけ覚えてた」


 ガルドは土間の隅の荷へ目をやった。


「荷だ。継ぎ具みてえなもんを担いでたとよ」


 アシュレイは控えを開かなかった。


 峠で紙を預かれる形が立ったのはそのあとである。順の側へ言づけが下りるには、まだ早い。


「置いていったものは」


「無え。読んだだけだ」


「読んだだけですね」


「そうだ。……追わせるか」


「追いません」


 柱の前に立つ者へは近づかないと、こちらで決めてある。決めたのはこちらだが、次に通る日を控えているのは宿のほうだった。


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