第157話 期限の欄が無い
街へ入ったのは日の落ちる前だった。
道の雪は縁にしか残っていない。轍に水が溜まっていて、市庁の階の下で荷を下ろすと泥が跳ねた。
荷を解く前に卓を窓際へ寄せた。ミレナが控えの頁を開いて、日付と卓に着いた者の名を入れる。
並べるのは二枚である。峠の束のいちばん古い一枚と、ザルテで写した手控えの一日目だった。
「開ける者は二人でよろしゅうございますか」
「二人にしてください。触る紙です」
ノラは革の筒を立ててから紐を解いた。四枚のうち一枚だけを抜いて上へ置く。
「先に紙を見るわ。字は後よ」
「伺います」
「字から入ると、見たいものが見えるの」
彼女は紙を斜めに傾けて灯へ寄せた。端を指の腹で辿って、途中で止める。
「穴があるわ」
「綴じ穴ですか」
「五つね。間が揃ってないの。……糸の当たった跡は片側だけよ」
ミレナが控えの束から一冊を抜いた。ザルテの土間で書いた頁である。
「綴りの穴の間は測ってございます」
「読んで」
ミレナが寸法を上から順に読み上げた。ノラは筆の尻を紙へ当てて、穴から穴へ置き替えていく。
「合うわ」
「五つともですか」
「五つともよ。……端の一つだけ当たりが強いの。抜くときに引いたのね」
「あの綴りに綴じてあった紙、ということですね」
「綴じてあったのを抜いたのよ。順を写すのに使ったんだわ」
ミレナが控えの頁を繰った。
「あちらで数えた頁は十六枚でございます。……綴じ目の脇に、紙の細い残りが一つあると書いてございます」
「読み上げませんでしたね」
「数えた枚数だけ申し上げました。残りは控えへ入れてございます」
「そこが要りました」
ノラは古い一枚を伏せずに置いたまま、写しのほうへ目を移した。
「字はどうです」
「同じ手に見えるわ」
「書けますか」
「書かないわ。こっちは写しだもの。前と同じよ」
「結構です」
彼女は眼鏡を押し上げてこちらを見た。
「いいの。あなた、字で決まると思ってたでしょう」
「思っていました。……紙のほうが先に出ました」
アシュレイは控えを三つ並べた。書庫方の帳面の一行と、ザルテの綴りと、峠の一枚である。
「借りて、返さずに街へ下りた者がいます。手控えはその綴りに挟まっていました。順のいちばん古い一枚は、その綴りから抜けています」
「挟まってただけよ。挟んだのが同じ人とは限らないわ」
「限りません。ですが、挟める場所にいたのは綴りを持っていた者です」
「それは言えるわね」
「言えるのはそこまでです」
ミレナが控えへ名を写した。マティアス・ケーラー。脇へ紙の出どころを二行入れる。
「この名はどこへ書きますか」
「出どころの欄です。借りた者の欄がありませんので、脇へ番号で繋いでください」
「もう一つの名と並びます」
「並びます。裁可した者と、綴りを持って下りた者です」
ノラは古い一枚を回して、欄の外へ書かれた一行を上へ向けた。
――順は渡せ。起こすのは、上が在ると確かめた者だけにせよ。
その脇へ王都から持ち帰った写しを寄せた。署名と、署名の脇の一行が並ぶ。
――戻す道を、書けるようにしておくこと。
「言われたほうが書いたのね」
「書きました。書ける場所が紙の中に無かっただけです」
ノラは二枚のあいだへ筆を置いた。
「書く欄が無かったから、外へ書いたのね。……外へ書いたものは、七十年引けないのよ」
ミレナの筆が止まった。
「引けません。索引に無いものは、探せるとは申せません」
「七十年前の紙を全部出してください。欄を数えます」
束は四つに分かれた。裁可の紙の写し。設立の紙の写し。手控えの三枚。名簿のいちばん古い頁の写しと拓本である。
「裁可の紙は四つでございます。日付。番号。上申を受けた旨。署名」
「設立の紙は」
「五つでございます。目的の欄が入ります」
「四文字ですね」
「四文字きりでございます」
「手控えは」
「四つでございます。いつ。どこ。どう落ちたか。戻ったか」
「名簿の頁は」
「在り処と繋ぎ先と、削られた欄でございます」
「終わる日を書く欄があるものは」
ミレナは束の端をひとつずつ押さえてから顔を上げた。
「ございません。一枚もございません」
ノラが束の背を指の腹で押した。
「督促と似てるわね。あっちは欄があって、言った者の名を書くところが無かったの」
「こちらは欄ごとありません」
「無いものは誰の落ち度にもならないわ」
「なりません。ですので七十年、誰も引きませんでした」
峠の窪みの紙が浮かんだ。三行の下へ一行足して、署名と日付を入れて終わらせた紙である。あれが書けたのは様式が良かったからではない。終わらせてよいと言える場が、そのときこちらにあったからだった。
ノラが拓本を広げたのは、そのあとだった。
「削り跡を見るわ。刃の向きは前と同じよ。右のまとまりだけ落として、左は残してあるの」
「同じ手ですか」
「書かないわ。削ったところに字は無いもの」
「書かなくて結構です」
アシュレイは新しい紙を引いた。
「読みとして書きます。台帳の欄へは入れません」
「読みって何よ」
「紙で出ないものです。……名を消したことと、名を訊かない決まりは、同じ一つの措置だと読めます。名が残っていれば、名を辿って割った両方が繋がります」
「繋がると困るのね」
「困ります。確かめないまま繋ぎ直す者が出ます」
「在り処のほうは残してあるわ」
「残してあります。確かめる者が出たときに要ります」
ノラは紙の頭へ罫を引いた。
「読んだ者の名を入れるわ。あなたと私よ」
「入れてください。読みと紙は分けます」
アシュレイは卓の端から順に指を置いた。
「上を切ったのは、その晩の落ち方を隣までで止めるためです。地図を割ったのは、確かめない者が繋ぎ直すのを止めるためです。在り処だけを残したのは、確かめる日に要るからです」
「戻す道は」
「順です。制度の外です」
「四つとも、止めるための手ね」
「止めるための手です。四つとも打ってあります。……打っていないのは一つだけです」
「いつまで、ね」
「いつまでです。それと、誰が終わらせるかです」
ミレナが束から一枚を抜いた。九十四枚のいちばん後ろにある一枚である。
「王都の核は、戻す道に入りますか」
「読めません。手控えには逃げ場としか書いてありません」
「では入れません」
「入れないでください。書いていないことは書けません」
ノラが写しの束を揃えた。
「一つ、片づいたことがあります」
「伺うわ」
「あの一行は条件です。上が在ると確かめた者だけが起こせと書いてあります。確かめたら、が先に来ます」
「確かめた人はいるわね」
「います」
「オルセンさんね」
――上は在らぬと確かめた。この順で起こしてはならん。
ミレナが出どころの欄の写しを抜いて卓へ置いた。四十年抱えられていた一行が、七十年前の紙の隣で同じ向きに並ぶ。
「条件は満たされています。答えも出ています」
「じゃあ、もう終わってるじゃない」
「終わっていません。手続きの上では、閉じられる状態にあります。……閉じる者が決まっていないだけです」
「閉じるのは卓ね」
「卓です」
「その卓へ紙を出せるのは十五よ。あなたじゃないわ」
「私ではありません」
窓口の封は四つ届いていた。
日付の判が押してある。受けた者の名も入っている。どれも開いていない。
ノラは束を膝で揃えてから、封の脇を親指で順に裂いた。
「出さないに丸が二つ」
「裏は」
「白いわ。片方は印を押し直してあるの」
「三つ目の列は」
「増えたわ。丸の無いのが二つよ。裏に書いてあるわ」
「読んでください」
「一つは、決めるのは費えのことかって訊いてるの。もう一つは……足したら何が増えるのか、って」
「三つ目の列へ入れてください」
「入れるわ。……出すに丸を付けた紙は、まだ一枚も来てないわよ」
ガルドが戻ったのは翌日の昼だった。土間で編み上げを脱いで、控えの紙を卓の端へ放る。
「四つ回った。三つは貼ってあった」
「一つは」
「貼ってねえ。剥がれたんじゃねえぞ。初めから貼ってねえ」
「宿の主人は何と」
「読めるやつがいねえとよ。番号に丸を付けて印を押すだけだと言ったら、そんならと言ってた」
「貼るとは言いませんでしたか」
「言ってねえ。そんなら、で終いだ」
彼は框へ腰を下ろした。
「あんた、あれを配ってどのくらいになる」
「ふた月を過ぎました」
「返ったのは」
「出さないに丸が二つと、丸の無い紙が二つです」
「出すはゼロか」
「ゼロです」
ガルドは鼻を鳴らした。
「おれだって、出したあとに何を言われるか分からねえ紙に丸は付けねえ」
「そうだと思います」
「刷り直さねえのか」
「刷り直しません。様式を変えれば、こちらが出させたことになります」
「めんどくせえ話だな」
「面倒です」
継送が着いたのは、その日の夕方だった。
封は峠から回ってきたもので、宿の主人の手で日付が二つ入っている。受けた日と、次へ渡した日である。
中の紙は一枚きりだった。字は大きく、行は二つしかない。
――読ませてもらった。
――訊きたいことが一つある。
ノラが顔を上げた。
「峠へ出したの」
ミレナが控えの頁を開いた。
「出しました。出どころの欄に名のある方でございます」
「こっちが読み終える前に出したのね」
「先に出しました。あとから出せば、選んで送ったことになります」
アシュレイは二行をもう一度読んだ。紙の下は三分の二ほど空いている。書き足す気があれば書けた余白だった。
「行きます」
セルマが道の割りを卓へ広げた。
「峠は五日よ。戻りを入れて十一日だわ」
「十一日ですね」
「夏の卓の前に一度は戻れるわ。……何を持って行くの」
「名が二つあります」
ノラが筆を置いた。
「あの人、名は訊かないわよ」




