第156話 裁可の一枚
名は三度読まれた。
一度目はミレナが写しから読み上げ、二度目はノラが灯へ寄せて読み、三度目はアシュレイが控えへ写しながら読んだ。
「アルノルト・ブラント」
「ブラントですね」
「ブラント。……聞いたことある?」
「ありません」
ノラは紙を灯から外さなかった。
「私も無いわ」
ミレナが控えの束を卓の端まで広げた。九十四枚の写しと、名簿の頁の写しと、触れてよい者の綴りの索引である。
「名の欄はすべて見ました」
「出ないのね」
「出ておりません。似た綴りもありません」
ノラは眼鏡を押し上げてから、灯の位置を指一本ぶん動かした。
「七十年前に王都で紙へ署名できる場所にいた人よ。それが、うちのどの束にも出てこないの」
「出てきません」
「気味が悪いわね。……消えたんじゃないわ。初めから引く場所が無いのよ」
アシュレイは写しを回して署名の側を上にした。
「欄を数えてください」
ミレナが指を置いた。
「日付。番号。上申を受けた旨。署名。……四つです」
「理由の欄は」
「ありません」
「上申の中身は」
「受けた、とだけ入っております。何を受けたかは、この紙からは出ません」
「上申の紙のほうは」
「十六枚を数えました。ありません。綴じ目の外にも挟まっておりません」
ノラが筆の尻で署名の脇を示した。
「もう一行あるわ。ここ」
「写してございます。欄の外です」
「読んで」
ミレナは一度息を置いた。
「……戻す道を、書けるようにしておくこと」
ノラは紙の端を指で押さえたまま、しばらくその一行を見ていた。
「命令の書き方じゃないわね」
「指図です。事務の紙の書き方です」
「戻す道って、何を戻すのよ」
「切ったものです」
「切れと言った人が、同じ紙の脇へ、戻せるようにしておけって書いたのね」
「書きました」
ノラは署名とその一行を交互に見た。
「同じ手よ。撥ねの止め方が揃ってるわ」
「断定できますか」
「しないわ。写しだもの。……ただ、似せて書いたにしては崩れ方が素直すぎるの」
ミレナが控えへ番号を入れてから顔を上げた。
「掲示に出しますか」
「出しません」
「名が出たと書けば、街は落ち着くかと存じます」
「落ち着きません。名だけ出せば、次に訊かれるのは咎めたかどうかです。まだ何も書いていません」
写しの一部は監査院へ、一部は統轄部へ、すでに便へ乗っている。
返りが来たのは十二日後だった。ハーケンの字で二行しかない。
――綴りの写しを受領した。
――この裁可の紙は、こちらの一枚と並べなければ読めません。上がってください。
セルマは道の割りを卓へ広げてから、指の腹で日を数えた。
「また半月消えるわ」
「消えます」
「消えるのは分かってるの。訊いてるのはそこじゃないわ」
「伺います」
「留守のあいだに議題の紙が返ってきたら、どうするの」
「窓口で受けてください。日付だけ入れて、封は置いたままに」
「前と同じね」
「同じです」
ミレナが革の袋の紐を二重に回した。
「三つ目の列は私が引いておきます。丸の無い紙のぶんです。……いまは一枚だけでございます」
「引いてください」
王都監査院の一室は北向きで、昼でも灯が要った。
卓は一つきりである。上には三枚しか置いていない。
ローデリクが順に指した。
「ザルテの綴りの写し。統轄部の設立の紙。名簿のいちばん古い頁です」
「頁は出たのですか」
「一日だけです。添えが一行あります」
紙の端が返された。統轄部の長の字である。
――一日だけ出す。棚から出した者の名を控えよ。
ノラが短く鼻を鳴らした。
「あの人らしいわ」
「控えます。私の名で控えました」
ローデリクは設立の紙を裁可の紙の隣へ寄せた。
「書き出しが同じです」
「番号は」
「枝です。裁可の番号の下へ二桁が付いています」
「付いているということは」
「同じ一つの裁可の下にあります。……部署を作ることと、上を切ることが、一枚で決まっています」
ノラは両方の日付へ指を置いた。
「同じ日ね」
「同じ日です」
「切って、その日のうちに、数える部署を作ったのよ」
窓際から声がした。ハーケンは腕を組んだまま動かない。
「順序はどちらが先です」
「紙の上では同じです」
「では、なぜ数えたのですか」
「今日は読めません」
「読まないのですか」
「読めません。目的の欄は四文字きりです。四文字から先は、この三枚に入っていません」
名簿のいちばん古い頁は、右の端が波打っていた。
ノラは拓本を頁の隣へ置いた。どこへ行くにも荷へ入れている一枚である。
「字は出ないわ。削ってあるもの」
「幅は出ますか」
「出るわ。上の欄の割りと同じなら、姓と名で埋まる長さよ」
「ブラントで埋まりますか」
「埋まるわ。……埋まるだけよ。埋まる名なら他にもあるわ」
「結構です」
アシュレイは三枚の並びを見た。
「削られた頁からは何も出ません。名は、返らなかったほうから出ました」
ハーケンが卓へ寄ってきた。
「それで、その名をどこへ書きますか」
「台帳の出どころの欄です」
「咎めの綴りではなく」
「ではありません」
「監査院は咎めない、と書くのですね」
「書きます」
彼は卓へ手を置いた。
「理由を伺います」
「監査院に権限がありません」
ローデリクが引き取った。
「数えました。七十年前の裁可を取り消す手続きは、当時の様式にもいまの補則にもありません。無効と書く欄もありません。宛先も死んでいます」
「無いから書かない、では、次に同じことをした者も咎められませんね」
「咎められます」
「どうやって」
「咎める欄を作るかどうかを決める場が、いまはあります」
「あなたが決めるのではないのですね」
「私は座っていません」
ハーケンはしばらく黙っていた。
「座っていない椅子は、責めを負いません」
「負いません。ですから決められません」
「便利ですね」
「不便です。……議題も出せません」
ノラが筆の尻で卓を一度叩いた。
「咎めの欄は引かないわ。引いたら、次に同じことをやった人が黙るもの」
「黙らせない手立てがおありですか」
「無いわ。でも黙った人からは何も出ないの。……七十年、そういう紙ばかり読んできたじゃない」
ハーケンは窓のほうへ体を戻した。
書いたのは三行だった。
ノラが罫を引き、アシュレイが読み上げ、ローデリクが番号を振った。
――この裁可を出した者の名。
――その晩、何を止めるために切ったか。
――終わる日が書かれなかったこと。
ノラは三行目の罫だけ長く引いた。
「これが一番長いわね」
「三つ目が本体です」
「名前じゃないの」
「名は一行で済みます。三つ目は、書いても終わりません」
ハーケンは立ったまま三行を読んだ。
「様式は通します」
「中身は」
「認めていません。前もそう申し上げました」
「綴じていただけますか」
「綴じます」
彼は戸口で足を止めた。
「あなたは、認めない者に綴じさせるのが上手い」
「綴じていただかないと、読む人が減ります」
宿へ戻ったのは日が落ちてからだった。
ノラは荷を解かずに、写しをもう一度灯の下へ置いた。署名の脇の一行が上を向いている。
「戻す道を、書けるようにしておくこと」
「はい」
「書けと言われて、書かなかったのかしら」
「書いたはずです」
「どこによ。綴りは十六枚とも見たわ。設立の紙にも無いのよ」
アシュレイは欄立てを指で追った。日付。番号。上申を受けた旨。署名。
「当時の様式に、その欄がありません」
「無いのに書けって言われたのね」
「言われました」
彼は指を止めた。
「欄が無ければ、欄の外へ書きます」
ノラの手が止まった。
「……もう一枚あるわね」
「あります」
「峠のやつよ。いちばん古い一枚。あれも欄の外に一行だけ入ってるわ」
灯の芯が細く鳴った。
「戻ったら並べます」
「並べてどうするの」
「同じ手かどうかが出ます」




