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追放された運用保守担当、辺境都市の障害を全部直したら英雄になった  作者: 結城ログ
第15章:七十年前の応急処置〜暫定に、終わりを書け〜
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第156話 裁可の一枚

 名は三度読まれた。


 一度目はミレナが写しから読み上げ、二度目はノラが灯へ寄せて読み、三度目はアシュレイが控えへ写しながら読んだ。


「アルノルト・ブラント」


「ブラントですね」


「ブラント。……聞いたことある?」


「ありません」


 ノラは紙を灯から外さなかった。


「私も無いわ」


 ミレナが控えの束を卓の端まで広げた。九十四枚の写しと、名簿の頁の写しと、触れてよい者の綴りの索引である。


「名の欄はすべて見ました」


「出ないのね」


「出ておりません。似た綴りもありません」


 ノラは眼鏡を押し上げてから、灯の位置を指一本ぶん動かした。


「七十年前に王都で紙へ署名できる場所にいた人よ。それが、うちのどの束にも出てこないの」


「出てきません」


「気味が悪いわね。……消えたんじゃないわ。初めから引く場所が無いのよ」


 アシュレイは写しを回して署名の側を上にした。


「欄を数えてください」


 ミレナが指を置いた。


「日付。番号。上申を受けた旨。署名。……四つです」


「理由の欄は」


「ありません」


「上申の中身は」


「受けた、とだけ入っております。何を受けたかは、この紙からは出ません」


「上申の紙のほうは」


「十六枚を数えました。ありません。綴じ目の外にも挟まっておりません」


 ノラが筆の尻で署名の脇を示した。


「もう一行あるわ。ここ」


「写してございます。欄の外です」


「読んで」


 ミレナは一度息を置いた。


「……戻す道を、書けるようにしておくこと」


 ノラは紙の端を指で押さえたまま、しばらくその一行を見ていた。


「命令の書き方じゃないわね」


「指図です。事務の紙の書き方です」


「戻す道って、何を戻すのよ」


「切ったものです」


「切れと言った人が、同じ紙の脇へ、戻せるようにしておけって書いたのね」


「書きました」


 ノラは署名とその一行を交互に見た。


「同じ手よ。撥ねの止め方が揃ってるわ」


「断定できますか」


「しないわ。写しだもの。……ただ、似せて書いたにしては崩れ方が素直すぎるの」


 ミレナが控えへ番号を入れてから顔を上げた。


「掲示に出しますか」


「出しません」


「名が出たと書けば、街は落ち着くかと存じます」


「落ち着きません。名だけ出せば、次に訊かれるのは咎めたかどうかです。まだ何も書いていません」


 写しの一部は監査院へ、一部は統轄部へ、すでに便へ乗っている。


 返りが来たのは十二日後だった。ハーケンの字で二行しかない。


 ――綴りの写しを受領した。


 ――この裁可の紙は、こちらの一枚と並べなければ読めません。上がってください。


 セルマは道の割りを卓へ広げてから、指の腹で日を数えた。


「また半月消えるわ」


「消えます」


「消えるのは分かってるの。訊いてるのはそこじゃないわ」


「伺います」


「留守のあいだに議題の紙が返ってきたら、どうするの」


「窓口で受けてください。日付だけ入れて、封は置いたままに」


「前と同じね」


「同じです」


 ミレナが革の袋の紐を二重に回した。


「三つ目の列は私が引いておきます。丸の無い紙のぶんです。……いまは一枚だけでございます」


「引いてください」


 王都監査院の一室は北向きで、昼でも灯が要った。


 卓は一つきりである。上には三枚しか置いていない。


 ローデリクが順に指した。


「ザルテの綴りの写し。統轄部の設立の紙。名簿のいちばん古い頁です」


「頁は出たのですか」


「一日だけです。添えが一行あります」


 紙の端が返された。統轄部の長の字である。


 ――一日だけ出す。棚から出した者の名を控えよ。


 ノラが短く鼻を鳴らした。


「あの人らしいわ」


「控えます。私の名で控えました」


 ローデリクは設立の紙を裁可の紙の隣へ寄せた。


「書き出しが同じです」


「番号は」


「枝です。裁可の番号の下へ二桁が付いています」


「付いているということは」


「同じ一つの裁可の下にあります。……部署を作ることと、上を切ることが、一枚で決まっています」


 ノラは両方の日付へ指を置いた。


「同じ日ね」


「同じ日です」


「切って、その日のうちに、数える部署を作ったのよ」


 窓際から声がした。ハーケンは腕を組んだまま動かない。


「順序はどちらが先です」


「紙の上では同じです」


「では、なぜ数えたのですか」


「今日は読めません」


「読まないのですか」


「読めません。目的の欄は四文字きりです。四文字から先は、この三枚に入っていません」


 名簿のいちばん古い頁は、右の端が波打っていた。


 ノラは拓本を頁の隣へ置いた。どこへ行くにも荷へ入れている一枚である。


「字は出ないわ。削ってあるもの」


「幅は出ますか」


「出るわ。上の欄の割りと同じなら、姓と名で埋まる長さよ」


「ブラントで埋まりますか」


「埋まるわ。……埋まるだけよ。埋まる名なら他にもあるわ」


「結構です」


 アシュレイは三枚の並びを見た。


「削られた頁からは何も出ません。名は、返らなかったほうから出ました」


 ハーケンが卓へ寄ってきた。


「それで、その名をどこへ書きますか」


「台帳の出どころの欄です」


「咎めの綴りではなく」


「ではありません」


「監査院は咎めない、と書くのですね」


「書きます」


 彼は卓へ手を置いた。


「理由を伺います」


「監査院に権限がありません」


 ローデリクが引き取った。


「数えました。七十年前の裁可を取り消す手続きは、当時の様式にもいまの補則にもありません。無効と書く欄もありません。宛先も死んでいます」


「無いから書かない、では、次に同じことをした者も咎められませんね」


「咎められます」


「どうやって」


「咎める欄を作るかどうかを決める場が、いまはあります」


「あなたが決めるのではないのですね」


「私は座っていません」


 ハーケンはしばらく黙っていた。


「座っていない椅子は、責めを負いません」


「負いません。ですから決められません」


「便利ですね」


「不便です。……議題も出せません」


 ノラが筆の尻で卓を一度叩いた。


「咎めの欄は引かないわ。引いたら、次に同じことをやった人が黙るもの」


「黙らせない手立てがおありですか」


「無いわ。でも黙った人からは何も出ないの。……七十年、そういう紙ばかり読んできたじゃない」


 ハーケンは窓のほうへ体を戻した。


 書いたのは三行だった。


 ノラが罫を引き、アシュレイが読み上げ、ローデリクが番号を振った。


 ――この裁可を出した者の名。


 ――その晩、何を止めるために切ったか。


 ――終わる日が書かれなかったこと。


 ノラは三行目の罫だけ長く引いた。


「これが一番長いわね」


「三つ目が本体です」


「名前じゃないの」


「名は一行で済みます。三つ目は、書いても終わりません」


 ハーケンは立ったまま三行を読んだ。


「様式は通します」


「中身は」


「認めていません。前もそう申し上げました」


「綴じていただけますか」


「綴じます」


 彼は戸口で足を止めた。


「あなたは、認めない者に綴じさせるのが上手い」


「綴じていただかないと、読む人が減ります」


 宿へ戻ったのは日が落ちてからだった。


 ノラは荷を解かずに、写しをもう一度灯の下へ置いた。署名の脇の一行が上を向いている。


「戻す道を、書けるようにしておくこと」


「はい」


「書けと言われて、書かなかったのかしら」


「書いたはずです」


「どこによ。綴りは十六枚とも見たわ。設立の紙にも無いのよ」


 アシュレイは欄立てを指で追った。日付。番号。上申を受けた旨。署名。


「当時の様式に、その欄がありません」


「無いのに書けって言われたのね」


「言われました」


 彼は指を止めた。


「欄が無ければ、欄の外へ書きます」


 ノラの手が止まった。


「……もう一枚あるわね」


「あります」


「峠のやつよ。いちばん古い一枚。あれも欄の外に一行だけ入ってるわ」


 灯の芯が細く鳴った。


「戻ったら並べます」


「並べてどうするの」


「同じ手かどうかが出ます」

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