第155話 七十年前の晩
便がイルダンへ着いたのは五日目の夕方だった。
荷を下ろす前に、ミレナが写しの束を三つへ分けた。宛先はザルテで決めたとおりで、裏には原本の所在と請求先が入っている。
「統轄部のぶんは明日の便に乗せます」
「乗せてください」
「こちらが読む前に出すのですか」
「出してください。読んでから出せば、読んで抜いたと数えられます」
ミレナは控えの頁へ日付を二つ入れた。写しを取った日と、便へ乗せた日である。
「原本の欄はもう書きました。ザルテです」
「箱の蓋の裏の紙も番号を控えてありますね」
「控えました。あちらの寄合の印が押してあります」
セルマは荷車の脇で道の割りを畳んでいた。
「十日で戻ったわね」
「九日です」
「置いていった紙のとおりに動いてたわ。三日目だけ半日ずれたのね」
「宿を一つ手前にしました」
「一日余ったなら次に使いなさい。……ガルドさんの控えは受けてあるわ。野の二つは前に見たときと変わらないそうよ。そのかわり切り口を見てきたって」
「読ませてください」
「渡すわ。あの人は自分の口でも言いたがるから、そっちも聞いてやって」
市庁の窓口には封が二つ届いていた。
日付の判が押してあり、受けた者の名も入っている。どちらも開いていない。
ノラは束を受け取ってから、封の脇を親指で裂いた。
「開けるのは書記よ。あなたじゃないわ」
「そうしてください」
「一つは出さないに丸ね。裏は白いわ」
もう一枚を灯へ寄せて、彼女は眉を寄せた。
「こっちは丸が無いの。裏に一行だけ書いてあるわ。……これは何を決める紙か、って」
「表へ写してください。出した日にも、出さない日にも入りません」
「三つ目の列が要るわね」
「引いてください」
三枚を開いたのは翌朝である。
卓を窓際へ寄せて、日付の順に並べた。写しのほうで、原本はザルテの箱にある。
「読み下すのは私よ。あなたは聞くほう」
「伺います」
「読めない字は読めないままにするわ。埋めたら、それはこっちの字になるもの」
ミレナが控えの頁を開いて筆を立てた。
一日目の紙には欄が四つあった。いつ。どこ。どう落ちたか。戻ったか。
「書き出しは場所ね。……この呼び方、ザルテでミレナさんが引いたやつだわ」
「引いております。台帳の四つ目の欄に切られていると入っている一枚です」
「落ちた刻は夜の遅いほうよ。……落ち方は、先に細って、そのあと一息で落ちた、と書いてあるわ」
「戻ったかの欄は」
「空よ。……一日目はこの一つだけだわ」
二日目の紙は行が増えていた。
「二つ落ちてるわ。どっちもさっきの隣ね」
「落ち方は」
ノラは指の先で行をなぞった。
「同じよ。先に細って、一息で落ちた。……同じ言い方で二度書いてあるの。この人、書き方を変えてないわ」
「変えないほうが読めます」
「読ませる気で書いてるのよ。手控えなのにね」
三日目の紙で筆が止まった。
「二つ。片方は隣だわ。……もう片方が遠いの」
「どのくらいですか」
「呼び方だけじゃ分からないわ。ミレナさん、番号は」
ミレナが束を繰って、二枚を並べて置いた。
「離れております。あいだに継ぎ目が三つ挟まっています」
「挟まったほうは」
「落ちておりません。台帳の四つ目の欄はどれも切られていると入っております」
「同じ晩か」
ガルドの声は戸口からだった。泥だらけの編み上げを土間へ脱いで、そのまま框へ腰を下ろす。
「同じ晩です」
「隣へ伝うんなら、間を飛ばさねえだろ」
「飛ばしません」
アシュレイは三枚を並べ直した。
「横だけで伝うなら、隣までです。間を抜かして遠いところが落ちるなら、通った道が別にあります」
「上か」
「上です」
ガルドは膝へ肘を置いて、しばらく紙を見ていた。
「あんたが前に言ってたやつだな。上へ抜ける九本」
「そうです。上が束ねています。束ねているなら、どこか一つが落ちたときに、束ねを通って全部へ返ります」
「一つで全部が回るのか」
「回ります。……三日かけて回っている途中が、この紙です」
ミレナが控えから顔を上げた。
「いま横が繋がったままなのは」
「横は切っていないからです。切ったのは上だけです」
ミレナが控えの頁を繰った。
「切ったのは二日目からです。一日目には書いてありません」
「そこです」
ガルドが顔を上げた。
「おれが見た切り口は二つだけだ」
「伺います」
「向こうの面は死んでる。手前だけ生きてる。……あれは上から順に落としたんじゃねえ」
ノラが二枚目の裏を返した。
「順が書いてあるわ。遠いほうから始めて、最後が近いところよ」
ガルドは鼻を鳴らした。
「そりゃ道理だ。近えとこから切ったら、切ってる途中でこっちが落ちる」
「手控えのとおりに切られている、ということですね」
「そのとおりに切ってある。おれが見た切り口はそれだ」
アシュレイは三枚の上へ手を置いた。
「封じたのではありません。切り分けたのです」
「同じだろ」
「違います。封じるなら全部切ります。切り分けるなら、落ちたものが隣までで止まればいい」
「止まったのか」
「止まりました。七十年、隣までで止まっています」
「隣までで止まったから、うちの街は細るだけで済んだのね」
「済みました。……済んだと書ける紙は、どこにもありませんが」
ノラが三日目の裏の下のほうを指した。
「一つだけ残す、と書いてあるわ」
「理由は」
「逃げ場、って読めるの。……全部切ると横の逃げ場が無くなるって」
ミレナが控えの束から一枚を抜いた。九十四枚のいちばん後ろにある、継ぎ目でない一枚である。
「王都の核です。台帳の四つ目の欄は受けている、と入っております」
誰も筆を動かさなかった。
「受けているのは、こぼれたのではありません」
「置いたのね」
「置いたものです。……七十年、受け皿のほうも動いていません」
「動かさなかったんじゃなくて、動かせなかったのかもしれないわ」
「どちらでも、置いたことは変わりません」
ノラは三枚を端で揃えてから、欄の頭を順に指した。
「いつ。どこ。どう落ちたか。戻ったか」
「四つです」
「落ちた継ぎ目の数はあるわ。呼び方もあるの。……人の数の欄が無いのよ」
「ありません」
「書かなかったんじゃないわ。書くところが無いの」
彼女は筆を置いた。
「三日で五つ落ちて、そこに何人いたかは、この紙からは出ないわ」
ガルドが低く言った。
「……で、こいつは正しかったのか」
誰も答えなかった。
ミレナは筆を持ったまま、頁の上へ下ろさなかった。
答えたのはノラだった。
「正しかったと言えば、こっちが七十年細ったのは何だったのって話になるわ」
「じゃあ間違ってたってのは」
「その晩に落ちた街が消えるのよ」
ガルドは框の縁を掌で二度叩いた。
「あんたはどっちだ」
「まだ答えられません」
「読んだだろ」
「三日ぶんだけです。この三日の前に何があったかは、この紙に入っていません」
「三日の前ってのは」
「一日目に落ちる前です。落ちた継ぎ目は前の晩まで生きていました。何をしていたかは、どこにも書いてありません」
ガルドはそれ以上訊かなかった。土間へ下りて、控えの束を卓の端へ置いていった。
三日目の紙は裏の途中で終わっていた。
下の三分の一は空いている。最後の行は文の途中で切れていて、次へ続くという印も無い。墨は掠れていなかった。
「途中ね」
「途中です」
「筆を置いたんだわ。乾かしてから畳んであるもの。……走って出たなら、こうは畳めないわ」
ミレナが綴じ頁のほうへ手を戻した。
「前のほうを読みます。挟まっていた三枚より前です」
「読んでください」
「一枚目です。ザルテで読まずに置いた裁可の紙です。日付があります。上申を受けた旨があります」
彼女は指を止めた。
「署名があります」
ノラが灯を引き寄せた。
紙の下の端に一つだけ、別の手で名が入っている。三日ぶんの手控えのどこにも、この字は出てこない。




