第154話 返せなかった街
分かれ道の杭で荷を割った。
北へ折れればイルダンへ帰る道になる。折れずに下れば街だった。
ノラは折れるほうへ立ったまま紙を一枚差し出した。線が二本引いてあり、そのあいだに細かい目が並んでいる。端の落とし方が横へ添えてあった。
「一寸のあいだに目が十四よ。いまの紙屋はもっと細かく漉くの。灯にかざして数えれば、あなたでも取り違えないわ」
「取り違えます」
「そのときは束ごと写してきなさい。こっちで見るわ」
彼女は襟を立ててから荷を担ぎ直した。
「向こうで読み下そうとしないでね。字が古いのよ。一人で読めば、分かった気になるだけだわ」
「戻ってから読みます」
下りは思っていたより長かった。
道は畑の縁を回りながら落ちていく。街道からは屋根が見えているのに、下りきるまで人に会わなかった。門は無い。下りた道がそのまま通りになる。
田にはまだ水が入っていなかった。用水の底へ人が降りて、泥を上げては畦へ積んでいる。
水番の男は鍬の柄へ顎を乗せてこちらを見た。冬に四行の紙を懐へ入れた男である。
「土なら見てる」
「伺っています」
「新しいのは出てねえ。枡のところは掘ったが、あれは掘ると言ってから掘ったやつだ」
「何か出ましたか」
「出ねえよ。親方は肩を落としてたぞ。三尺ずらして損したとさ」
「ずらしましたので当たりませんでした」
「そう言っといてやる」
宿の帳場には紙が二枚貼ってあった。冬は引き出しの中から出てきた一枚と、番号の並んだ刷り物である。
主人は帳場の板を持ち上げて、下から束を出した。麻紐で括ったものが三つある。
「うちにございますのは、これで全部でございます」
「何の紙ですか」
「存じません。読める者がおりませんので」
「捨てないのですね」
「捨てたことはございません。大事なものでございましたら困りますので」
アシュレイは束へ手を出さなかった。
「七十年前の綴りをお訊きします。王都から一冊、この街へ下りてきています」
「七十年前でございますか。……焼けたか捨てたかでございましょう」
「捨てないと伺いました」
主人は口を開けたまま黙った。板を下ろす音が遅れて鳴った。
「ほかに置き場はありますか」
「寄合の物置でございます」
物置は寄合の建物の裏にあった。錠は掛かっていない。戸が反っていて、下を蹴らないと開かなかった。
中は暗い。米俵の陰に木の箱が積んである。蓋の無いものが多く、紙が縁から溢れていた。
「いつからここにありますか」
寄合の年寄りは箱の高さを手で示した。
「わしの親父が寄合をやっとったころにはもうあった。そのころで、この半分じゃな」
「並べ替えたことは」
「無い。上へ足すだけじゃ」
「読んだ方は」
「おらん」
ミレナが箱の側面を覗き込んだ。
「番号が振ってありません」
「振れんじゃろ。読めんのだから」
アシュレイは手を出さずに数だけ数えた。箱は八つある。
隠した紙は隠した形をしている。ここにあるのは置いたままの形だった。
ミレナが灯を寄せ、アシュレイは懐からノラの一枚を出した。
束を一つずつ傾けて目を数えていく。細かいものが続いた。三つ目の箱の底のほうで手が止まった。
目が太い。一寸のあいだに十四しか入らない。耳の落とし方も絵と同じだった。
「数えてください」
「……十四です」
束の下から出たのは一冊だった。表紙は板紙で、背に墨の番号が入っている。ミレナが控えを開いて並べた。
「目録の番号と合います」
「合いますね」
ミレナは控えと背の墨を二度見比べてから頷いた。
「間違いありません」
紐は掛かったままだった。結び目は堅い。埃が結び目の上へ乗ったまま固まっている。
アシュレイは冊子から手を離した。
「今日は開けません」
「日が残っております」
「開けるのは二人です。一人はこちらから出します。もう一人はこの街から出してください」
市庁の書役は物置の戸口で足を止めた。
「私の一存では決めかねます」
「決めていただくことはありません。開けるところを見ていただくだけです」
「読めませんが」
「読まなくて結構です。開けた日と開けた者を控えます」
年寄りが戸の脇の石へ腰を下ろした。
「わしでよければ座っとる」
「見ていただけますか」
「見るだけならできる」
翌朝は寄合の土間へ卓を出した。戸を二枚とも開けて明かりを入れる。
ミレナが控えの頁へ日付を入れた。開けた日。開けた者が二人。写しを取る者。置き場所。
年寄りは名の欄の脇へ寄合の印を押してから、指の腹を袖で拭った。
「これで何が変わる」
「開けた者が誰かが残ります」
「わしが開けたことになるのか」
「なります。次に開ける者はあなたに訊きます」
年寄りは印をしまって、卓の端へ両手を置いた。
「開けろ」
紐は切らなかった。結び目を爪の先で起こして順に緩めていく。
ほどけた紐を卓へ置いた。輪の形が残ったままだった。七十年、一度も切られていない。
表紙を起こすと綴じ糸が鳴った。
「読みません。数えます」
ミレナが筆を立てた。
「綴じてある頁が十六枚。表と裏は入れません」
「挟まっているものは」
「三枚です。綴じてありません。綴じ目の外へ挟んであります」
三枚は綴じ頁より小さかった。折り目が二つあり、折ったまま挟んであったのが開いた跡で分かる。
「日付だけ読んでください」
「一枚ずつ、続いた三日です。……七十年前の春の入り口です」
「前のほうは」
「裁可の紙です。設立の紙と同じ書き出しで始まっております」
「そこは読まないでください」
ミレナが筆を止めた。
「灯のあるところで二人で読みます。ここで読めば、読めたつもりになります」
写しは三部取った。監査院と統轄部と、こちらの控えである。
ミレナは一枚ごとに番号を入れて、裏へ写しの所在と請求先を書いた。
「原本の欄はどう書きますか」
「ザルテと書いてください」
筆が止まったのはそこだった。
「お持ち帰りにならないのでございますか」
書役の声だった。
「持ち帰りません」
「うちには棚がございません。役所と呼べるものもございません」
「七十年、紐が切れていません」
アシュレイは輪の形の残った紐を指した。
「湿りで貼りついてもいません。これより良い置き場を、こちらは持っていません」
「読めない者が持っているのでございますよ」
年寄りが口を挟んだ。
「読めんから置いといたわけじゃない」
「伺います」
「よそ様の紙じゃ。返す者が来るまで置いとくのが筋じゃろう」
しばらく誰も何も言わなかった。
「返す先が七十年来ませんでした」
「来んかったな」
アシュレイは控えの一行を卓へ出した。書庫方の字で名が入っている。
「この名に覚えはありますか」
年寄りは灯へ寄せてから首を振った。
「読めん」
ミレナが読み上げた。年寄りはもう一度首を振る。
「聞かん名じゃ。この街の名ではないな」
ミレナが道の割りを開いた。
「王都へ上げる便は、いまはどのくらいですか」
「二十日に一つでございます」
「七十年前は」
「分かりません。ですが増えたとは聞きません」
督促に名を書く欄が無い帳面と、二十日に一つの便。この二つが七十年重なれば、綴りは誰の落ち度にもならないまま棚から消える。
監査院へ出す一枚はその場で書いた。
「督促の欄はどうなさいますか」
「空のままです。脇へ所在を入れていただきます」
「返っていないままですね」
「返っていません。どこにあるかだけ分かりました」
箱の蓋の裏へ貼る紙も一枚作った。番号と、原本がここにあることと、写しの請求先が入っている。年寄りが印を押した。
「うちが持っとる、と書いてあるのか」
「書いてあります」
「なら箱は動かさん」
宿へ戻ったのは日が落ちてからだった。主人が帳場の刷り物を指した。
「これは何をする紙でございましょう」
「番号に丸を付けて、印を押して返す紙です」
「文は要りませんので」
「要りません」
主人は紙の端を撫でた。
「どれに丸を付けるのでございますか」
「それはこちらからは申し上げません」
主人は手を止めてから、四隅へ糊を足して貼り直した。
読み合わせは戻ってからと決めている。ミレナが動かしていたのは写しの番号を控えへ移す手だけで、その手が途中で止まった。
一日目の書き出しに場所の名が一つ立っている。街の名ではなく、継ぎ目の呼び方だった。
ミレナは控えの束を開いて、番号を一つ指した。四つ目の欄に切られていると入っている一枚である。
「この呼び方は、こちらの台帳にあります」
「載っているのですね」
「載っております。……一日目に落ちたのは、この継ぎ目です」
日付は三日続いている。
「四日目は」
ミレナは束をもう一度探ってから、三枚の順を崩さずに写しへ挟んだ。
「ありません。三日で終わっております」




