第153話 棚に無い綴り
照会は台帳の番号で出した。
差出はイルダン市庁にして、アシュレイの名は下の欄へ一つだけ入れた。番号で出せば番号で返る。名で出せば名で返る。返ってきた紙を次に読む者が、誰の用事だと思うかが変わる。
返りは六日で着いた。ローデリクの字で、行は三つしかない。
――閲覧は認める。監査の透明化補則の範囲内である。
――ただし棚に無いものは見せられない。無いものを出す手続きはこちらにも無い。
――事務の帳面は監査記録ではない。開けるなら、開ける理由を先に書いて出されたい。
ノラが三行目を筆の尻で押さえた。
「書いてこい、って言ってるのよ」
「書きます」
「何て書くの。棚に無いものを探しに行きます、じゃ通らないわ」
「綴りは探しません。綴りが棚から出た日を探します」
「同じでしょう」
「違います。棚は三日浚った人がいます。帳面は誰も浚っていません」
ノラは眼鏡の縁を押し上げてから、新しい紙を引き寄せた。
「理由の欄は私が書くわ。あなたが書くと長くなるもの」
議題の表は右の二列が白いままだった。
ミレナは十九の街の名を上から順に指でなぞってから、控えの束を革の袋へ移した。
「留守のあいだに返ってきたら、どうしますか」
「役所の窓口で受けさせてください。日付だけ入れて、封は置いたままに」
「開けないのですか」
「開けません。私が先に読んだことになります」
ミレナは袋の口の紐を二重に回した。
「窓口には日付の判を出しておきます。受けた者の名も入れさせます」
セルマが道の割りを持って上がってきたのは、荷を積み終えたあとだった。
「往きと帰りで半月は消えるわ。向こうで使えるのは十日よ」
「十日ですね」
「十日を過ぎたら次の便待ちだわ。待つと倍になるの」
彼女は指の腹で日の並びを押さえた。
「ガルドさんはまた野へ出ているわ。戻る前にあなたがいなくなるわね」
「柱の紙を見て回っています。戻ったら控えを受けてください」
「受けるわ。そのかわり、あなたが向こうで何日目にどこにいるかは置いていきなさい。誰も知らないのは困るの」
王都監査院の古い書庫は、北の翼の地下にあった。
階段を三つ下りると外の音が消える。灯は柱ごとに一つきりで、油の匂いが天井の低いところに溜まっていた。棚は背の高いものが十列。番号札は木に焼き印で、端の欠けたものが多い。
ローデリクは目録の帳面を先に開いた。
「番号はここです」
アシュレイは指の先の並びを追った。前後の番号は棚にある。あいだの一つだけが無い。
「詰めてありませんね」
「詰めてありません」
ノラが棚の前へ屈んで、板の埃を親指で拭った。
「埃が二つに割れてるわ。両側の綴りが動いてないのよ。抜いたあと誰も並べ直してないの」
ミレナが目録の頁へ番号を写しながら顔を上げた。
「目録も直っていません」
「そこです」
アシュレイは灯を持ち上げて空いた幅を見た。指四本ぶんある。
「隠したい者なら、目録の番号のほうを先に消します。番号が残っていて棚だけ空いているのは、隠した手つきではありません」
ノラが埃を払って立ち上がった。
「誰も直さなかった手つきね」
「そうです」
書庫方は年配の男が一人と、若いのが一人だった。年配のほうは椅子から立たずに話を聞いていた。
「その番号は、前の方が三日お探しになりました。ありません」
「探しません」
「では何をご覧になりますか」
「貸し出しの帳面です」
男は初めて目を上げた。
「七十年前の貸出は追えません」
「追えないのですか」
「追ったことがありません」
「その二つは違います」
男はしばらく黙っていた。それから椅子の背へ手を掛けて立った。
「……違います。帳面はあります。年ごとに紐で括って、奥の部屋です。あちらには目録がありません」
若いほうが口を挟んだ。
「あの部屋は湿ります。去年、下の段が二年ぶん貼りついていました」
「剥がしましたか」
「剥がしていません。破れますので、そのままにしてあります」
ローデリクは帳面の背へ手を触れる前に、ミレナの控えを一枚借りた。
「開ける理由を読み上げます。台帳の番号で出た照会に対し、棚に無い綴りの所在を貸出の記録から確かめる。閲覧は事務の帳面に限る。持ち出しはしない。写しはその場で取る」
「そのとおりです」
「開けるのは二人。私と書庫方です。あなた方は横で見てください」
「触りません」
「触らないでください。触ったと書くと、この紙の意味が変わります」
奥の部屋は棚ではなく箱だった。
年ごとの束が積んであり、紐の色が段ごとに違う。年の札は箱の側面へ墨で入れてある。書いた者が代替わりするたびに字が変わっていた。
ミレナが並びを数えた。
「五年ぶん抜けています」
「抜けているのですか」
「箱がありません。札の年が飛んでいます」
ノラが指を折って数え直した。
「飛んでるのは古いほうね。……こっちの年は残ってるわ」
設立の年の箱は下から三つ目にあった。紐は湿りで黒くなっていたが切れてはいない。
帳面は一冊で半年ぶんだった。頁は左から日付、番号、借りた者の名、持ち出し先、返しの日、督促と並ぶ。右の二列が縦に長く空いている。
「番号順ではありません」
「日付順ですね」
「一冊ずつ繰るしかありません。……番号を先に覚えます」
二日目の午後だった。
ミレナの目が止まったのは、頁のいちばん下の一行である。
「あります」
ノラが灯を寄せた。
日付がある。番号がある。名がある。持ち出し先がある。返しの日から先は空のまま、下の行へ罫が続いていた。
「督促の欄は」
「あります。空です」
「七十年、空ですか」
書庫方は帳面の縁へ手を置いたまま、しばらく答えなかった。
「……返っていないものは、貸出中と数えます」
「七十年、貸出中ですか」
「そう数えていました」
彼は手を離した。
「返せと言う欄はあります。ですが、言った者の名を書く欄がありません。書く欄が無いものは、誰の仕事にもなりません」
名は事務の字だった。
同じ頁の他の行と同じ手で、同じ濃さで入っている。借りた本人が書いた字ではない。
「代わりに書いたのですね」
「当時はそう決まっていました。借りる者が口で言い、こちらが書きます。いまもそうです」
ミレナが控えへ写した。マティアス・ケーラー。所属を書く欄は、この帳面には初めから無い。
ノラは革の筒から拓本を出して頁の脇へ広げた。名簿のいちばん古い頁の、掻き取られた跡の残りである。
二つを並べたまま、彼女はしばらく動かなかった。
「出ないわ」
「違いますか」
「違うとも言えないの。こっちは本人の字じゃないもの。比べる相手が違うのよ」
筆を置いてから、拓本の端を指で押さえた。
「この人が自分の手で書いた紙が、一枚でもあればね」
アシュレイは頁から目を離さなかった。
名を消して回った手は、自分が触れた紙を残らず消していった。名簿の頁も、南の溝の符号もそうだった。だが事務方が代わりに書いた欄は、その手の外にある。消す者は、自分が書いていない紙を数えない。
統轄部への照会は、その日のうちにローデリクの名で出した。
問いは一つにした。この名が統轄部の綴りに出るかどうかである。
返りは翌々日の朝に来た。長の署名があった。
――うちの綴りに、その名は無い。設立の紙は一枚きりだ。借りた控えも無い。
――その帳面はうちのものではない。だが写しは寄越していただきたい。
ノラが二行目を読み直した。
「寄越せ、って書いてあるわね」
「寄越します」
「異議の綴りに入るわよ」
「入っても結構です。読む相手が多いほうが、この一行は消えません」
彼女は頁から目を上げずに続けた。
「訊いたことの半分は出たわね」
「半分ですか」
「官の綴り紙が、なんで峠の順のいちばん古い一枚になってるか。……綴りが一冊、外へ出たままなのよ。出たものは紙屋の店先を通らないわ」
「残りの半分は」
「誰が書いたか。紙が外へ出たことと、その紙へ字を入れた手は別よ」
持ち出し先の欄を読んだのは最後だった。
名の右にもう一つ、細い字で街の名が入っている。ミレナは控えへ写してから顔を上げなかった。
「監査官」
「読んでください」
「……ザルテです」
ノラの筆が止まった。
「うちが印だけ返させてる街よ」
「そうです」
「書ける人がいないの。七十年前もいなかったはずだわ」
アシュレイは空いた欄をもう一度見た。返しの日も、督促も、白いままである。
ローデリクが帳面を閉じた。
「監査院からは請求を出せます。宛先は七十年前の借り主です」
「宛先は死んでいます」
「死んでいます。ですので出せません。……行くのはあなた方です」
ミレナが控えの番号を打ち終えて、袋の紐を締めた。
「便を割り直します。ザルテは下りが長いです」
「長いです。そのぶん、誰も入りません」
ノラが控えの端を指で弾いた。
「一つ厄介があるわよ」
「伺います」
「あの街に、うちの紙を読める人はいないの。七十年前に誰かが綴りを持って下りていって、返せなかったのもそのせいでしょう。……同じことをしに行くのよ、あなた」
灯の芯が細くなって、棚の影が一段伸びた。
アシュレイは手元の控えを開いた。写した欄の右が、こちらの紙でも空いている。
「……開ける者を、先に決めます」




