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追放された運用保守担当、辺境都市の障害を全部直したら英雄になった  作者: 結城ログ
第15章:七十年前の応急処置〜暫定に、終わりを書け〜
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第153話 棚に無い綴り

 照会は台帳の番号で出した。


 差出はイルダン市庁にして、アシュレイの名は下の欄へ一つだけ入れた。番号で出せば番号で返る。名で出せば名で返る。返ってきた紙を次に読む者が、誰の用事だと思うかが変わる。


 返りは六日で着いた。ローデリクの字で、行は三つしかない。


 ――閲覧は認める。監査の透明化補則の範囲内である。


 ――ただし棚に無いものは見せられない。無いものを出す手続きはこちらにも無い。


 ――事務の帳面は監査記録ではない。開けるなら、開ける理由を先に書いて出されたい。


 ノラが三行目を筆の尻で押さえた。


「書いてこい、って言ってるのよ」


「書きます」


「何て書くの。棚に無いものを探しに行きます、じゃ通らないわ」


「綴りは探しません。綴りが棚から出た日を探します」


「同じでしょう」


「違います。棚は三日浚った人がいます。帳面は誰も浚っていません」


 ノラは眼鏡の縁を押し上げてから、新しい紙を引き寄せた。


「理由の欄は私が書くわ。あなたが書くと長くなるもの」


 議題の表は右の二列が白いままだった。


 ミレナは十九の街の名を上から順に指でなぞってから、控えの束を革の袋へ移した。


「留守のあいだに返ってきたら、どうしますか」


「役所の窓口で受けさせてください。日付だけ入れて、封は置いたままに」


「開けないのですか」


「開けません。私が先に読んだことになります」


 ミレナは袋の口の紐を二重に回した。


「窓口には日付の判を出しておきます。受けた者の名も入れさせます」


 セルマが道の割りを持って上がってきたのは、荷を積み終えたあとだった。


「往きと帰りで半月は消えるわ。向こうで使えるのは十日よ」


「十日ですね」


「十日を過ぎたら次の便待ちだわ。待つと倍になるの」


 彼女は指の腹で日の並びを押さえた。


「ガルドさんはまた野へ出ているわ。戻る前にあなたがいなくなるわね」


「柱の紙を見て回っています。戻ったら控えを受けてください」


「受けるわ。そのかわり、あなたが向こうで何日目にどこにいるかは置いていきなさい。誰も知らないのは困るの」


 王都監査院の古い書庫は、北の翼の地下にあった。


 階段を三つ下りると外の音が消える。灯は柱ごとに一つきりで、油の匂いが天井の低いところに溜まっていた。棚は背の高いものが十列。番号札は木に焼き印で、端の欠けたものが多い。


 ローデリクは目録の帳面を先に開いた。


「番号はここです」


 アシュレイは指の先の並びを追った。前後の番号は棚にある。あいだの一つだけが無い。


「詰めてありませんね」


「詰めてありません」


 ノラが棚の前へ屈んで、板の埃を親指で拭った。


「埃が二つに割れてるわ。両側の綴りが動いてないのよ。抜いたあと誰も並べ直してないの」


 ミレナが目録の頁へ番号を写しながら顔を上げた。


「目録も直っていません」


「そこです」


 アシュレイは灯を持ち上げて空いた幅を見た。指四本ぶんある。


「隠したい者なら、目録の番号のほうを先に消します。番号が残っていて棚だけ空いているのは、隠した手つきではありません」


 ノラが埃を払って立ち上がった。


「誰も直さなかった手つきね」


「そうです」


 書庫方は年配の男が一人と、若いのが一人だった。年配のほうは椅子から立たずに話を聞いていた。


「その番号は、前の方が三日お探しになりました。ありません」


「探しません」


「では何をご覧になりますか」


「貸し出しの帳面です」


 男は初めて目を上げた。


「七十年前の貸出は追えません」


「追えないのですか」


「追ったことがありません」


「その二つは違います」


 男はしばらく黙っていた。それから椅子の背へ手を掛けて立った。


「……違います。帳面はあります。年ごとに紐で括って、奥の部屋です。あちらには目録がありません」


 若いほうが口を挟んだ。


「あの部屋は湿ります。去年、下の段が二年ぶん貼りついていました」


「剥がしましたか」


「剥がしていません。破れますので、そのままにしてあります」


 ローデリクは帳面の背へ手を触れる前に、ミレナの控えを一枚借りた。


「開ける理由を読み上げます。台帳の番号で出た照会に対し、棚に無い綴りの所在を貸出の記録から確かめる。閲覧は事務の帳面に限る。持ち出しはしない。写しはその場で取る」


「そのとおりです」


「開けるのは二人。私と書庫方です。あなた方は横で見てください」


「触りません」


「触らないでください。触ったと書くと、この紙の意味が変わります」


 奥の部屋は棚ではなく箱だった。


 年ごとの束が積んであり、紐の色が段ごとに違う。年の札は箱の側面へ墨で入れてある。書いた者が代替わりするたびに字が変わっていた。


 ミレナが並びを数えた。


「五年ぶん抜けています」


「抜けているのですか」


「箱がありません。札の年が飛んでいます」


 ノラが指を折って数え直した。


「飛んでるのは古いほうね。……こっちの年は残ってるわ」


 設立の年の箱は下から三つ目にあった。紐は湿りで黒くなっていたが切れてはいない。


 帳面は一冊で半年ぶんだった。頁は左から日付、番号、借りた者の名、持ち出し先、返しの日、督促と並ぶ。右の二列が縦に長く空いている。


「番号順ではありません」


「日付順ですね」


「一冊ずつ繰るしかありません。……番号を先に覚えます」


 二日目の午後だった。


 ミレナの目が止まったのは、頁のいちばん下の一行である。


「あります」


 ノラが灯を寄せた。


 日付がある。番号がある。名がある。持ち出し先がある。返しの日から先は空のまま、下の行へ罫が続いていた。


「督促の欄は」


「あります。空です」


「七十年、空ですか」


 書庫方は帳面の縁へ手を置いたまま、しばらく答えなかった。


「……返っていないものは、貸出中と数えます」


「七十年、貸出中ですか」


「そう数えていました」


 彼は手を離した。


「返せと言う欄はあります。ですが、言った者の名を書く欄がありません。書く欄が無いものは、誰の仕事にもなりません」


 名は事務の字だった。


 同じ頁の他の行と同じ手で、同じ濃さで入っている。借りた本人が書いた字ではない。


「代わりに書いたのですね」


「当時はそう決まっていました。借りる者が口で言い、こちらが書きます。いまもそうです」


 ミレナが控えへ写した。マティアス・ケーラー。所属を書く欄は、この帳面には初めから無い。


 ノラは革の筒から拓本を出して頁の脇へ広げた。名簿のいちばん古い頁の、掻き取られた跡の残りである。


 二つを並べたまま、彼女はしばらく動かなかった。


「出ないわ」


「違いますか」


「違うとも言えないの。こっちは本人の字じゃないもの。比べる相手が違うのよ」


 筆を置いてから、拓本の端を指で押さえた。


「この人が自分の手で書いた紙が、一枚でもあればね」


 アシュレイは頁から目を離さなかった。


 名を消して回った手は、自分が触れた紙を残らず消していった。名簿の頁も、南の溝の符号もそうだった。だが事務方が代わりに書いた欄は、その手の外にある。消す者は、自分が書いていない紙を数えない。


 統轄部への照会は、その日のうちにローデリクの名で出した。


 問いは一つにした。この名が統轄部の綴りに出るかどうかである。


 返りは翌々日の朝に来た。長の署名があった。


 ――うちの綴りに、その名は無い。設立の紙は一枚きりだ。借りた控えも無い。


 ――その帳面はうちのものではない。だが写しは寄越していただきたい。


 ノラが二行目を読み直した。


「寄越せ、って書いてあるわね」


「寄越します」


「異議の綴りに入るわよ」


「入っても結構です。読む相手が多いほうが、この一行は消えません」


 彼女は頁から目を上げずに続けた。


「訊いたことの半分は出たわね」


「半分ですか」


「官の綴り紙が、なんで峠の順のいちばん古い一枚になってるか。……綴りが一冊、外へ出たままなのよ。出たものは紙屋の店先を通らないわ」


「残りの半分は」


「誰が書いたか。紙が外へ出たことと、その紙へ字を入れた手は別よ」


 持ち出し先の欄を読んだのは最後だった。


 名の右にもう一つ、細い字で街の名が入っている。ミレナは控えへ写してから顔を上げなかった。


「監査官」


「読んでください」


「……ザルテです」


 ノラの筆が止まった。


「うちが印だけ返させてる街よ」


「そうです」


「書ける人がいないの。七十年前もいなかったはずだわ」


 アシュレイは空いた欄をもう一度見た。返しの日も、督促も、白いままである。


 ローデリクが帳面を閉じた。


「監査院からは請求を出せます。宛先は七十年前の借り主です」


「宛先は死んでいます」


「死んでいます。ですので出せません。……行くのはあなた方です」


 ミレナが控えの番号を打ち終えて、袋の紐を締めた。


「便を割り直します。ザルテは下りが長いです」


「長いです。そのぶん、誰も入りません」


 ノラが控えの端を指で弾いた。


「一つ厄介があるわよ」


「伺います」


「あの街に、うちの紙を読める人はいないの。七十年前に誰かが綴りを持って下りていって、返せなかったのもそのせいでしょう。……同じことをしに行くのよ、あなた」


 灯の芯が細くなって、棚の影が一段伸びた。


 アシュレイは手元の控えを開いた。写した欄の右が、こちらの紙でも空いている。


「……開ける者を、先に決めます」

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