第152話 探さないと決める
アシュレイはすぐには答えなかった。
綴りの紐を解いて灯の下へ広げる。名義の写しが三枚あった。年ごとの出金が並び、右の端に出した街の名が入っている。字はどれも同じ手だった。
「誰が写しましたか」
「うちの書記です。原本は商人ギルドの棚に置いたままにしてあります」
「動かさないでください」
「動かしていません。写した日と写した者の名を裏へ入れました」
リオネルは外套を脱がずに立っていた。裾から落ちた雫が床の板目へ細く伸びている。
「名義の出し先は三つです。どれも小さな講で代を継いでいます。当たれば十日で三人に会えます」
「三人ですか」
「三人です。そのうち二人は順に連なっていると見ています」
アシュレイは右の端の並びを指で追った。街の名は北から南へ落ちていく。どれも登りの終端がある街だった。
「一晩ください」
「明日の朝には出られます」
「一晩です」
階段の音が消えてから、ミレナが灯の油を足した。
「朝いちばんにセルマさんをお呼びしますか」
「呼んでください。金の話です」
セルマは綴りを立ったまま読んだ。椅子を勧めても座らない。
「二十年ぶんね」
「額をどう見ますか」
「小さいわ。街ひとつで年に二度か三度、銅貨で数十枚よ。三つ足しても、うちの荷馬車が一台冬を越せないわ」
頁を戻してから指の腹で出金の列を押さえる。
「取り分の欄が無いのよ。そこが変だわ」
「無いのですか」
「荷を運んだ人の駄賃だけ。それも相場より安いの。二十年、誰も一枚も抜いていないわ」
「潰れずに続いています」
「続くわよ。儲からないんだもの」
セルマは綴りを閉じてから卓へ戻した。
「儲かる名義ならとっくに買い手が付くわ。二十年同じ名前で回っているのは値が付かないからよ。……後ろに大きな誰かがいるなら、数はもっと汚くなるの。これは汚れていないわ」
「後ろは無い、と読めますか」
「読めるわ。ただし数の上でよ。数で言えるのはそこまでだわ」
リオネルが上がってきたときには、三枚とも卓の上に並んでいた。
「後ろに誰もいないことと、前に二人いることは別です」
「別です」
「では伺います。追いますか」
「追いません」
外套は乾いていた。彼は昨夜と同じ場所に立っている。
「理由を伺います」
アシュレイは順の写しの束を引き寄せた。
「順は渡すときに名を訊きません。渡す側も名乗りません。名が無いので一人捕まっても途切れません」
「存じています」
「こちらが名を書けば、そこは名で追える鎖になります。今日引くのはこちらですが、次に引く者がこちらとはかぎりません」
リオネルは動かなかった。
「途切れて困るのは向こうです」
「こちらです」
「……伺います」
「あの順はまだ台帳に載っていない紙を持っています。峠の一枚も、出どころの欄の署名も、順が持っていたから出ました。切れれば残りは出ません」
リオネルは卓の縁へ手を置いた。
「では次に掘り返しが出たとき、誰が止めますか」
「各街の紙に名があります」
「十二枚です。七つ空いています」
「空いています」
「その七つが埋まるまで、うちの隊は何をすればいいのですか」
答える前にノラが罫の帳面の頁を叩いた。
「もう一つあるわよ」
彼女は峠からの一枚を卓へ滑らせた。
「あの広間にいた者のうちの一人は自分が順を渡した相手だ、と書いてあるの」
「読みました」
「名前が出たら、次の卓は誰が誰を見ているか数える場になるわ。十五のうちの一人が調べられた側になるのよ。……書くのは私。書記は私だもの」
リオネルは頁から目を上げなかった。
「見つけても近づくなと言われて、今度は探すなですか」
「そうです」
「それは順の側の決まりです。うちの決まりではありません」
「そのとおりです」
アシュレイは束を戻した。
「人は追いません。紙を追います」
「紙、ですか」
「順の写しは紙が四種類、字が四種類あります。継ぎ目は三つです。漉き目と字の継ぎ目を見れば、いつどこで写されたかまでは出ます。誰が写したかは出ません」
ノラが筆の尻で卓を一度叩いた。
「出ないところが要るのね」
「要ります」
ノラは筆を置いてからまっすぐこちらを見た。
「それ、あなた一人で決めるの」
卓の上で紙の端が灯の風に浮いた。
「決めません。書きます」
「同じことでしょう」
「違います。決めたと書けば、覆すのに私が要ります。決めなかったと書けば、次に読んだ者が決められます」
ノラは新しい紙を出して罫を引き始めた。
いちばん上へ一行だけ入れた。
――順に連なる者を、名で追いません。
その下へ欄を四つ置く。追わなかった日。追えば何が切れるか。追ってよいと決められる場。覆すときに引く番号である。
「場って何よ」
「卓です。私ではありません」
「卓は議題を一つしか扱わないのよ。夏まで来ないわ」
「来ません。それまで空きます」
「空くのね」
「空きます。空いたことも書いてください」
ノラは三つ目の欄の下へ細い罫を足した。
「書いた者の名は一つでいいの」
「一つです」
「二人目を立てないのね」
「触る紙ではありません。二人要るのは触る紙です」
リオネルが口を挟んだのはそこだった。
「一つ出させてください」
「伺います」
「足取りの控えは残します。名は書きません。書くのは日と場所と、荷の形だけです」
「置き先は」
「封じて、そちらの綴りへ入れます。こちらでは開けません」
アシュレイは筆を止めた。
「開ける条件を決めてください」
「掘り返した跡が見つかって、どの街の紙でも止まらなかったときです。開けるのは二人。片方は見張り隊の外から出します」
「その条件ごと綴じます」
ミレナが番号を振ってから封の上へ日付を入れた。
「開けなかった日も数えますか」
「数えてください。封が開かなかった日は、そのぶん止まった日です」
ノラが漉き目を見始めたのは翌日からだった。
順の写しを四枚に分けて灯の前へ並べる。一枚ずつ斜めに傾けて簀の目の影を数えていく。
「いちばん古いのはこれよ。目が太いわ。今の紙屋はこの太さで漉かないの」
「年は出ますか」
「幅なら出るわ。七十年より新しくはならないの」
彼女は紙の端を親指の腹で撫でた。
「それと、これ街の紙屋のじゃないわ。耳の落とし方が違うのよ。官の綴り紙だわ」
ミレナが手を止めた。
「綴りから抜いた紙、ということですか」
「抜いたか、綴じ残りを貰ったかね。どっちにしても紙屋の店先には出ないものよ」
「納め帳が残っています」
ミレナは控えの棚から一冊を抜いて開いた。
「御用漉きは年ごとに簀を作り替えます。どの簀の紙をどこへ納めたかは帳面で引けます。……ただ、帳面は監査院の書庫です」
「照会を出してください。私の名ではなく、台帳の番号で」
「番号で出します」
継送が着いたのは十日後の昼だった。
封は二つある。一つ目はハーケンの字で、三行しかない。
――探さないという判断を、あなたが一人で下すのですか。
――判断としては認めません。記録としてなら綴じます。
――半年後に私が読むのは、追わないと書いた一枚だけです。それでは、何も起きなかったのか、起きたのに見なかったのかが読めません。
ノラが二行目を指で押さえた。
「認めないのに綴じるのね」
「綴じます。前もそうでした」
「三行目は」
「もう一枚あります」
アシュレイはリオネルの封じた控えの様式の写しを取り、次の便へ乗せる束へ入れた。
「見なかった日も、封が開かなかった日として残ります。読めない紙ではありません」
ミレナが二つ目の封を開けたのはそのあとだった。
ローデリクの字で、余白のほとんど無い一枚だった。当該の簀で漉いた綴り紙の納め先は三つ。二つは棚にある。一つは目録に番号だけがあり、棚に無い。
ミレナは番号を読んでから控えの束へ手を伸ばした。
「この番号は前に一度引いています」
「いつですか」
「地面の下の一本を継いでいたころです。目録の写しを取り寄せたときに、番号だけが残っている綴りが一つありました」
「同じ番号ですか」
「同じです」
彼女は頁を開いたまま卓へ置いた。
「統轄部の設立を裁可した綴りです」
誰も何も言わなかった。ノラが四枚のうちの一枚を灯から外して、番号の入っていない端を押さえる。
「あの棚は三日浚ったのよ。ローデリクさんが」
ミレナが控えを抱え直した。
「浚いました」
「照会では出ません」
「棚に無いものは、帳面のこちら側からは出てきません」
アシュレイは目録の番号から目を離さなかった。
「私が行きます。行ってよいかを先に監査院へ訊きます」
ノラは押さえた指を離さなかった。
「一つだけ言っておくわ」
「伺います」
「棚に無いものの紙が、なんで峠の順のいちばん古い一枚になってるの。……そこが埋まらないうちは、誰が命じたかなんて出てこないわよ」




