第151話 議題を出せない
雪が緩んだのは見分けから十日あとだった。
道の北側に残っていた白いものが朝のうちに水になり、門前の溝へ落ちていく。轍が深くなったぶん荷は軽くなった。表ではセルマが車輪の幅を測らせている。ガルドは野の五つを回ったまま戻っていない。
執務室の卓には峠からの一枚が置いてあった。
ミレナは番号の刻みを入れる帳面を横へ置いたまま、六日ぶん手をつけていない。
「これはどこへ綴じますか」
「まだ綴じません」
「番号も振らないのですか」
「振れません」
アシュレイは決まらなかったことの頁を開いた。六つの行と、街の名の欄が空いたままの七つ目がある。その下は白い。
「私が番号を振れば、これは私が足した行になります」
「置いたままにするのですね」
「置いたままにします。受け取った日だけ控えてください」
ミレナは日付を入れてから、紙の端を頁の下へ揃えた。
「揃えるだけなら、書いたことにはなりませんね」
「なりません」
ノラが罫の帳面を抱えて入ってきたのは昼を回ってからだった。夏の入口の卓の頁を開いて、こちらへ向ける。
「一つだけ先に決まってるわね。議題を一つ足すかどうかを十五で決める」
「書いてあります」
「じゃあ訊くわ。足す紙は誰がどう出すの」
頁には日付がある。場所がある。決めることが一つ書いてある。その先が無い。
「決めていません」
「決めていないんじゃないわ。どこにも書いていないのよ」
ミレナが束を抱えたまま口を挟んだ。
「監査官が出されてはいけないのですか。持ち込まれた紙です」
ノラの筆が止まった。
「私も昨日の晩に一度そこまで書いたわ。書いて消したのよ」
「なぜ消されたのですか」
「席の無い人が議題を出したら、十五の議題じゃなくてその人の議題になるもの」
ノラは眼鏡の縁を押し上げた。
「あなたも同じことを考えたでしょう」
「考えました」
「言わないのね」
「書きます。出せない者がここにいる、と様式のほうへ書きます」
便の返りは三日おきに届いていた。
ドランからの一枚は書記の字で、行が揃っていて短い。次の卓では何を決めるのか、先に知らせてもらえるか。こちらから訊いてよいものかどうかも分からない。
ミレナがその二行を読み直した。
「訊いてよいか、と書いてあります」
「そこです」
「そこ、と申しますと」
「決めるのは十五です。その十五が、自分から紙を出せる側だと思っていません」
ノラが帳面を閉じた。
「思わせるのは言葉じゃないわ。紙の形よ」
白紙を並べたのはその晩だった。
アシュレイは先に二つだけ書いた。誰でも出せること。出した街の名が残ること。
ノラが筆を取って、その下へ三つ目を足した。
「出さないことも残すのよ」
「……」
「出さなかった街が黙って消えるなら、それは十五の卓じゃないわ」
「書いてください」
筆の先が二つ目の行へ戻った。
「名が残ると、出しにくくなる街があるわ」
「あります。それでも残します」
「なぜ」
「誰が言い出したかが消えると、次に同じことが起きたときに引けません」
罫を引き始めてすぐ、その手が止まった。
「四つ目が要るわね」
「要ります」
「ザルテよ。あそこへ文を書かせる紙を送ったら、初めから外したのと変わらないわ」
紙の真ん中へ番号の列を並べた。決まらなかったことの六つと、その下の七つ目である。番号の脇に小さな枠を置き、いちばん下へ印を押す場所を作った。
「丸と印だけで出せます」
「一行も書かなくていいのね」
「書かなくて結構です。書きたい街は裏へ書けます」
ノラは七つ目の行の番号を筆の尻で押さえた。
「これも載せるの」
「載せます」
「訊かれるのはあなたよ」
「承知しています」
空の行を一つだけ、いちばん下へ足した。一覧に無いものを出すための行である。
「そこは文が要ります」
「書けない街はどうするのよ」
「宿の主人に代わりに書かせてください。代わりに書いた者の名を脇へ入れます」
ノラは細い罫を一本引き足した。
「代筆の欄ね」
筆を置いてから、卓の端の一枚を顎で示す。
「その紙に番号は無いわ。一覧に無いもののほうよ。出せるのは街だけ。あなたはどこの街でもないの」
「そうです」
「不便でしょう」
「不便です」
ノラはそれ以上書き足さなかった。
「返らない紙はどう数えるの」
「出さないに丸を付けて返した街と、何も返さなかった街を別の列にしてください」
「面倒ね」
「面倒です。同じ列にすると、黙った街が出さないと決めた街に見えます」
「来なかった四つが出してきたら」
「同じ束へ入れてください。決めるのは、その日に来た街です」
監査院の継送が着いたのは翌々日の朝だった。
ローデリクは馬車を待たせたまま土間で罫の写しを読んだ。読み終えるまで椅子へ座らない。
「監査院は手を入れません」
「伺います」
「私がここで一行でも直せば、この様式は監査院が作ったものになります。見ました、とだけ書いて帰ります」
写しを卓へ戻してから、彼は指を一本だけ番号の列へ置いた。
「並びは台帳の頁と同じにしてください。違うと、こちらで並べられません」
「同じにします」
「これは中身ではありませんので申し上げました」
同じ継送にもう一通入っていた。ハーケンの字で一行しかない。
――様式は結構です。中身に手を貸せば、私はそれを書きます。
ノラが封の脇を指で弾いた。
「書きます、って何をよ」
「制度の空白です」
「……あの人、半年前は書かずに帰ったんじゃないの」
「書かずに帰りました。支度のほうは持って帰っています」
ガルドが戻ったのは十一日目の夕方だった。
土間で編み上げの泥を落としながら、指を四本立てる。
「近い四つは貼ってあった。一つは裏返しだったから直させた」
「野の五つは」
「三つは何も無え。二つは春の水で土が動いてる。掘った跡じゃねえ。……日付だけ控えてきた」
「窪みは」
「あんたの紙は下りてた。代わりに立ってるやつの名は、宿で読み上げた。三度な」
ガルドは卓の上の一枚を顎で示した。
「そいつはどうすんだ」
「街が出すのを待ちます」
「待つのか」
「待ちます」
「あんたが出しゃ早えだろ」
「早いです」
ガルドは鼻を鳴らして、それ以上は言わなかった。
版が組み上がるのに三日かかった。
ミレナは刷りの一枚目を灯へ寄せて、番号の刻みと枠の位置を確かめた。
「印の場所を左の端にしました。右へ置くと、書ける街の字と重なります」
「そのままで」
「来なかった四つにも同じものを入れます。数えないと決めていませんので」
「入れてください」
セルマが道の割りを開いたのは、刷りが乾く前だった。
「今から出して、遠いほうへ着くのが十一日よ」
「返りは」
「近いところは次の便で戻るわ。ネスカは無理ね」
指の腹が日の並びを押さえた。
「あの街の便は月に一度きり。今度の便で持っていって、返りが乗るのは次の便よ。それが卓の日と同じ便だわ」
「卓の朝に着きますか」
「着いたら朝ね。着かなかったら、あの街は出さなかったんじゃなくて間に合わなかったの。そこは分けて数えなさい」
「分けます」
「分けるなら、道の割りの写しをこっちで一枚持つわ。何日目にどこにあるかは、うちのほうが早く分かるもの」
紙が便に乗ったのは春の三度目の便だった。
ノラは十九の街の名を並べた表を作り、右の端へ二つの列を引いた。出した日の列と、出さないと返した日の列である。どちらも白いままだった。
三日待って白かった。六日待っても同じだった。
ミレナが控えの束へ番号を打ちながら、手を止めずに言った。
「白いのは、まだ届いていないからです」
「そうです」
「届いてからも白いことがあります」
「あります」
その晩、灯を落とす前にもう一度だけ峠の一枚を読んだ。
字は太くも細くもない。名は書いていない。写しを見に来た日付だけが上に入っている。
いちばん下の一行にも、やはり番号は無かった。
リオネルが階段を上がってきたのは、そのあとの遅い刻限だった。
外套の裾が濡れている。卓へ置いたのは薄い綴りが一つだけだった。
「商人ギルドの帳面から拾いました。セルマ殿には断ってあります」
「継ぎ具の金ですか」
「名義です」
彼は綴りを開かずに手を置いた。
「半年で七十本ぶんを出した名義が、二十年あまり前の綴りにも出てきます。潰れていません」
「金を出した街は」
「並びが取れました。登りの終端がある街ばかりです」
アシュレイは灯を寄せた。
「名義を押さえて、出した者から順に当たれば」
「二人へ行けます」
リオネルが初めて顔を上げた。
「追いますか」




