第150話 座らないと書く
宿場を発ったのは翌朝だった。
広間の卓は前の晩のうちに元の並びへ戻してある。輪に組んだ跡が床の埃に残っていた。宿の主人は肘の付いた椅子を炉の正面へ据え直してから、帳場の帳面へ人数を書き入れた。
「十七人でございました」
「十七人です」
「膳はお出ししておりません」
「そのまま書いておいてください」
ミレナは土間で写しの数を数えていた。
「二十一になります」
「街のぶんは十九ですね」
「十九です。監査院と統轄部を足して二十一です」
「来なかった四つへは、決まったことと決まらなかったことを同じ厚みで入れてください」
「同じ厚みにします」
セルマは表で荷を積ませていた。道の割りを開いて指の腹で日を押さえる。
「ネスカへの便は八日後よ。次はその一月あとだわ」
「四度目は」
「夏の入口ね。……日をあの街の便に合わせたのはこっちよ。忘れないでちょうだい」
「忘れません」
「なら道の割りはうちで持つわ。宿の主人にも一枚渡しておくの。次の日を訊かれるのはあの人たちだもの」
イルダンの門をくぐったのは六日目の昼だった。
執務室の卓には返りの束が四つ増えていた。ミレナが番号の順に並べ直す。
街ごとに一枚。書くのは二つ。宿へ入った言づけを回す先の一人と、その者が言えない日に次に言う一人。名だけで、役は入っていない。
「二つとも入っているのが十一です」
「卓で書けた数と同じですね」
「同じです。その場で書いたものを、そのまま宿の便へ乗せてきています」
五つ目の束は三日あとに着いた。市庁の印は無く、名が二つ並んでいる。
ミレナが束の表を返した。
「市庁を通せませんでしたので、個人として書きます、とあります」
「十二になりますね」
「十二です」
もう一枚は名の欄が空いていた。空いた下へ字が詰まっている。二人目に立てる者が街の中にいない。冬のあいだ核の近くまで歩ける者が一人しかいない。夏までに探すので、それまでこの紙は白いままにしてほしい。
ノラが罫の頁を開いた。
「決まらなかったことのほうへ移すわ」
「移してください」
「白いまま載せるのね」
「載せます。埋めるために名を書けば、その名が止めに行かない日が来ます」
ノラは番号だけを写して、理由の紙をそのまま綴じ込んだ。
「残りは二つよ。一つは市庁待ちで、一つは二人目が街の外にいるほうね」
「ザルテからは印が返っています」
「押しただけよ。あそこは書ける人がいないんだから、押せたぶんは進んだと数えなさい」
ガルドは土間で編み上げの紐を替えていた。
「近い四つは、おれが回るときに紙を見て来らあ」
「読ませないでください」
「読ませねえよ。宿の柱に貼ってあるかどうかを見るだけだ」
ガルドは紐を噛んで結び目を締めた。
「貼ってなけりゃ、貼ってねえと帰ってあんたに言う。それだけだ」
第一頁を出したのは見分けの三日前だった。
九十四枚の頭の紙で、五つの欄の並びと、番号の刻みと、扱いの欄がある。扱いの欄は空で、空にした理由がその下にある。理由の下には番号が二つ並んでいた。
アシュレイは新しい紙へ下書きを起こした。
ノラが横から覗いて筆を止めさせた。
「方針を書かないのね」
「書けません」
「書けないのを書くのが、あなたの手でしょう」
「書きます。ただ、書くのは中身ではありません」
三行だけ入れた。
――この一本の扱いは、十九の街の卓が決める。
――次に開く日。ネスカの便が四度出たあと。街道の南の分かれの宿場。
――決まっていないことは六つ。番号で引ける。
「六つを頁ごと綴じてください」
ミレナが控えの束を持ち上げた。
「一覧だけを写して、後ろへ付けます」
「一覧だけでは足りません。誰がそれを決まらないと言ったかまで入れてください」
「名を入れるのですか」
「街の名です。人の名は要りません」
ノラが筆の尻で頁の縁を叩いた。
「上の無い卓は、決まらなかったときに誰のせいでもなくなると私が言ったわね」
「伺いました」
「これなら残るわ。誰のせいかは残らないけど、何がどこで止まったかは残るのよ」
ハーケンが着いたのは見分けの前の晩だった。宿を取らず、監査院の継送の馬車から降りてそのまま役所へ来た。ローデリクが半歩あとから入ってくる。
「前に二つ申し上げました」
「伺っています」
「一つ目から見ます」
ハーケンは白いままの三枚を先に引いた。四つ目の欄はどれも確かめていないのままで、その脇に日付が二つずつ入っている。
「確かめ直した日ですか」
「確かめ直した日です。荷運びが脇を通った日と、通って何も見えなかったと言づけた日です」
「見えなかったことを、確かめたと数えるのですか」
「数えます。誰がいつ見て、何が見えなかったかが入っています」
ハーケンは三枚を並べたまま少し置いた。
「白いまま半年置くのは、私は認めていません」
「承知しています」
「認めていませんが、様式は守られています。……二つ目へ行きます」
止め手の名の綴りをローデリクが開いた。街ごとの一枚が十二ある。名は二つずつで、書いた手はどれも本人ではない。
ハーケンが先に頁へ手を置いた。
「役が入っていませんね」
「入れませんでした」
「肩書きの無い名は、こちらでは追えません」
「追えるようにしてあります」
ミレナが台帳の頁を出して、五つ目の欄の脇の番号を指した。
「この番号で街ごとの一枚が引けます。半年ごとに、止めた日と止められなかった日を同じ紙で監査院へ出します」
「同じ紙で、ですか」
「片方だけの紙は読めない、とその場で言われました」
ローデリクが自分の綴りを持ち直した。
「私が言いました」
ハーケンは頁を戻してから、第一頁を開いた。
しばらく読んでいた。
「方針が書かれていませんね」
「書けません」
「書けない、で通すのですか」
「書ける場ができた、とだけ書きました」
ハーケンは扱いの欄の三行を上から順に指でなぞった。二行目で止まり、日付のところをもう一度見た。
「日が入っています」
「入っています」
「決まっていないことの数も入っています」
「六つです」
指が離れた。
「……それは、空欄ではありませんね」
誰も何も言わなかった。ミレナが控えへ手を伸ばしかけて、そのまま引いた。
ハーケンは頁を閉じずに卓へ置いた。
「異議はどうしました」
「綴じてあります」
「取り下げさせなかったのですか」
「取り下げは求めていません。卓の議題の一つ目にしました」
ノラが異議の綴りを開いた。二通目の番号の下に、卓の日付と、その日に読み上げた者の名が入っている。
「向こうから返りが来ているわ」
封の中は一枚だけだった。決まらなかったことの一覧の写しで、統轄部の権限の行だけが指で押さえた跡のように黒くなっている。その脇に短い字があった。
――この行は残しておいていただく。
ハーケンは封の中身から目を上げた。
「取り下げないのですね」
「取り下げません」
アシュレイは写しをそのまま綴りへ戻した。
「あの人が正しかったところが、決まらなかったことの頁に一行残ります。消えるまで残ります」
ハーケンは湯呑みへ手をやらずに、懐から一枚出した。
半年前に自分が書いて寄越した私信だった。半年後に第一頁から見る。そのときあなたはどこにいるか。
「あのとき、決めていませんと書かれました」
「書きました」
「今日はどうです」
アシュレイは自分の紙を出した。前の晩に書いて、まだ誰にも見せていない一枚だった。
――卓の席には座りません。
「席の話ですか」
「席の話です」
「理由を伺います」
「私が座れば、この卓は私の卓になります」
紙を卓の中央へ置いた。
「次に私が倒れたときに、また止まります。峠の窪みの報せは、届いた先で止まりました。あれと同じことが卓で起きます」
ハーケンはその一行を読んでから、視線を上げずに言った。
「あなたが座らなければ、誰が困りますか」
「初めの一年は十五の街が困ります」
「困らせるのですか」
「困る形にしておかないと、二年目に誰も来ません」
ハーケンは紙を戻さなかった。
「これは監査院へ出す紙ですか」
「私信への返しです。出す先はあなたです」
「では、こちらで綴じます」
ハーケンは初めて湯呑みを持ち上げた。
「制度の空白と書く支度をして来ました。書かずに帰ります」
「埋まってはいません」
「埋まっていません。埋める者が決まっただけです。……それは違うものです」
その晩、アシュレイは異議の欄の隣に綴じてある紙を出した。
三行の紙だった。窪みの周りへ人を近づけないこと。掘りかけの土をならさないこと。次に通る者が同じ場所を見て日付を控えること。下に二行ある。止める場が定まらないため、暫定で監査官が止めた。これは権限に基づく処置ではない。
その下へ一行足した。
――止める者はそれぞれの街の紙に名がある。この暫定はここで終わる。
署名を入れて日付を打った。ミレナが番号を確かめてから綴りへ戻す。
「峠の宿の一枚も差し替えますか」
「差し替えてください。読み上げは宿の主人で結構です」
「同じ番号にします」
ノラは罫の頁を閉じずに待っていた。閉じたのはミレナが出ていってからだった。
「やっと決めたじゃない」
「決めました」
「半年かかったわね」
「かかりました」
ノラは眼鏡を外して、袖で拭かずに卓へ置いた。
「じゃあ次を訊くわ。あなた、どこにいるの」
「決まっていません」
「まだ言うの」
「まだです」
ノラは眼鏡を掛け直してから、決まらなかったことの頁をこちらへ向けた。
「なら、そっちへ入れておきなさい。六つが七つになるわ」
「入れます」
「入れるのね」
「決まっていないことを決まっていないと書くのは、こちらの作法です」
ノラは鼻から短く息を抜いて、七つ目の行を引いた。街の名の欄は空けたままにしてある。
「一つだけ言っておくわ。ここへ書いたものは次の卓で誰かが訊くのよ。……訊かれる側になったのは、あなたが初めてじゃないわ」
ガルドが発ったのは翌朝だった。雪はまだ道の北側に残っている。
「野の五つだ。溶けきる前に一度見ておく」
「窪みは」
「まっすぐ行く。あそこは紙が二枚立ってるからな」
ガルドは荷を担ぎ直した。
「一枚は、あんたの名前のやつだ」
「今日で下ろします」
「そうかい」
門の外で一度だけ振り返った。
「下ろすなら、代わりに立ってるやつの名を教えとけ。おれが宿で読み上げる」
ミレナは版を組み直していた。刷り直すのは頁の裏の面で、写しの請求先と、次に開く日を入れる。
「日と場所の欄が、これで二度目に埋まります」
「埋めてください」
「四つ目の欄が白いまま出るのは、三枚のぶんだけ残ります」
「残します」
その三枚は白いままだった。四つ目の欄には確かめていないとあり、脇に日付が二つずつ入っている。
峠からの継送が着いたのは、見分けから四日後だった。
宿の主人の印が押してある。中は一枚で、字は太くも細くもない。名は書いていない。写しを見に来た日付だけが上に入っていた。
――卓が開いたと聞いた。日付だけ書いて、宿で写しを読ませてもらった。
――あの広間にいた者のうちの一人は、私が順を渡した相手だ。名は訊かなんだから書けん。
――書けたとしても書かん。書けば、あんたはその者に会いに行くだろう。
――訊く先ができたのなら、次に訊くことは決まっている。
最後の一行は、行を空けて下のほうに書いてあった。
――この一本を切れと命じたのは、誰か。
ミレナが灯を寄せて番号を振ろうとして、手を止めた。
「異議の綴りではありませんね」
「違います」
「では、どこへ」
アシュレイは決まらなかったことの頁を開いた。六つの行と、街の名の欄が空いたままの七つ目がある。
その下は、まだ何も引いていない。
夏の入口に開く卓には、議題を一つ足すかどうかを十五で決めると書いてある。足す紙を出せる者は、この冬までどこにもいなかった。




