第148話 もう決めてある街
一行の紙は三日のあいだ卓の上に置いたままだった。
ミレナが番号を振ってから、写しを一枚だけ取って原本を綴りへ入れた。
「返しの欄は空のままにします」
「空のままで結構です」
「行かれるのですね」
「行きます」
ノラは眼鏡を外さずに紙を覗き込んだ。
「私が行けば私の卓になる、と言ったのは先の月のあなたよ」
「言いました」
「今月は違うの」
「呼びに行くのではありません。訊きに行きます」
「同じ足で同じ道を行くのよ。向こうの戸口から見て区別がつくかしら」
アシュレイは一行の上へ指を置いた。
「呼ぶのは出てくださいと言うことです。訊くのはどうやって決めたのかを聞くことです」
「聞いてどうするの」
「こちらが紙にしようとしているものを、あの街はもう持っています。持ち方をこちらは知りません」
ノラは丸も点も打たずに罫の頁を閉じた。
「一つだけ守りなさい。出てくれとは言わないこと。……言った瞬間にあなたの卓になるわ」
「言いません」
ガルドは土間の框に腰を下ろしていた。
「おれの話じゃ足りねえか」
「足りました」
「足りたのに行くのか」
「足りたので行きます」
アシュレイは荷の紐を締め直した。
「宿に六人いて、六人とも同じほうを見たと伺いました。見られた人が何を決めているのかはまだどこにも書いてありません」
セルマは道の割りを開いて指の腹で日数を弾いた。
「便は七日後よ。五日ぶん乗って、そこから先は歩きなの。ぬかるみを踏むなら十一日ね」
「帰りは」
「同じだけかかるわ。向こうで便を待つなら半月足すのよ」
ミレナが版下の空欄を指した。
「日と場所の欄はどうしますか」
「空けたままにします。いちばん遠い街の道に合わせるとその下へ書きました」
「その遠い街へ行かれるのですね」
「行きます」
荷は五日で南の分かれまで行った。そこから道は細くなり泥になった。轍は深く足を抜くたびに音が鳴る。十一日目の昼にネスカへ入った。
石垣は膝ほどの高さしかない。屋根は平たく庇が長い。用水は街を南から東へ抱いて回り、継ぎ目はその外れの畑の下にある。
宿の主人は帳場の下から二つの束を出した。番号順に並べてある。
「二度とも届いております」
「印が返っていません」
「押してよいかを訊きに参りました。返事を待っております」
「どなたへ」
主人は表の道の先を顎で示した。
「押してよいと言われるまでは押さないのですか」
「言われれば押します。それで困ったことがございません」
束の下にもう一枚あった。触れてよい者の条件を一枚にまとめた紙で、紐がかかったまま入っている。この街の名は資格の綴りのどこにも無い。
言われた先は道の突き当たりだった。男は土間の框で桶の箍を締めていた。六十は越えている。手だけが動いていた。
「紙を書いた人か」
「書きました」
「読んだ。返す言葉が無かった」
「うちは決めてある、と返っています」
「それは隣のに書かせた」
「ご自分では書かないのですか」
「字は書ける」
男は箍を回した。
「書くと、おれの紙になる」
「十年前に掘ったと伺いました」
「掘った」
「どなたが決めましたか」
「おれだ」
手は止まらなかった。
「用水を深くする普請だ。南の外れを二尺下げれば東の田まで水が回ると言った。言ったのはおれで、聞いたのは街だ」
「土が抜けたのですね」
「四人だ」
男は箍を桶へ落として立てた。
「掘る話が出るたびにおれが言う」
「規則はありますか」
「無い」
「名簿は」
「無い」
「紙にはしないのですか」
初めて手が止まった。
「紙にすると役になる。役は代わる。代わったやつは、あの穴を見ていない」
翌朝、南の外れに縄が張られていた。春の普請の下見だった。鍬はまだ入っていない。十人ほどが杭の位置を見比べている。
男は畦のほうから来て縄の外で止まった。
「やめだ」
それだけだった。
杭を持っていた者が手を下ろす。図面を広げていた者が畳む。十を数える前に全部止まっていた。誰も理由を訊かなかった。
「いま何を見て止めさせましたか」
「杭が三本、去年の位置より南だ」
「去年の位置は誰が覚えていますか」
「みんなだ」
「南に何がありますか」
「知らん」
男は縄を跨がずに引き返した。
「知らんから止めた」
アシュレイは縄の内側へ入らずに杭の位置だけ控えた。三本は台帳の一枚が在り処に書いている畑の際とほぼ重なっていた。
「跡を見て報せる者は、この街にいません」
「要らん」
「掘る前に止めるからですか」
「そうだ」
夜に来る手にこの街の止め方は届かない。届かないところを決めるための紙をこちらは書いている。
「あなたが言えない日はどうしますか」
「去年の冬に寝ついた。そのあいだは石を切るやつが言った」
「決まっているのですか」
「決まってる」
石を切る音は畑の東でしていた。三十半ばほどの男が割った石の面を手で払っている。
「去年の冬に、あなたが止めたと伺いました」
「言っただけだ」
「どなたに言われて言いましたか」
「誰にも言われてねえ」
男は石を返して次の面を見た。
「寝てる人のところへ訊きに行くやつがいたから、行くなと言った。行けばあの人は起きて言うからな」
「あなたが言うと決めたのはどなたですか」
「決めた者はいねえよ。おれの番だっただけだ」
誰が決めたかを訊いても決めた者は出てこない。それでも次に言う者は決まっている。そのままでは紙にできない形だった。
宿へ戻って控えを開いた。査察団の来る二日前に書かれた止めた記録は二人目の署名が名だけで役が入っていない。台帳のこの街の一枚も五つ目の欄は名だけだった。
二つは別の名だった。
ガルドが持ち帰った一行の字と、止めた記録の二人目の字は同じ手だった。
二人以上で立つと決めたのはこちらの紙で、紙より前から二人立っていたのはこの街だった。
その晩、男が宿へ来た。刷ったものを一枚持っている。番号はこちらで振ったものだった。
「これはあんたが配ったのか」
「配りました。こちらに不利な紙です」
「不利な紙を配るやつは初めて見た」
男は二行目を指の腹で押さえた。
――全員が当事者であるなら、誰も止めない。
「うちは全員当事者だ」
「止まっています」
「止まる。……書いたやつが間違ってるとは言わんぞ」
「なぜですか」
「うちで通ったのは、うちで死んだからだ」
紙を卓へ戻す。
「四人で買った。買ってねえ街に同じことをやれと言っても通らん。うちのやり方を十九へ配れとは言うな」
「配りません」
「なら何をする」
「決める者をどの街も自分で決められる形にします」
男はしばらく紙の縁を見ていた。
「卓には出る。条件がある」
「伺います」
「決める者を決める話だけだ。ほかの話が始まったら帰る」
「議題は一つです」
「一つか」
「一つです」
「あんたの紙は、うちの外を決める紙か」
「そうです」
「なら行く」
「出てくれとは言っていません」
「言われてねえよ。……紙を置いてっただけだ」
「この紙を書いた人へは、卓が開いたら報せる約束です」
「王都のか」
「王都です」
「なら、そのときに言う」
「何をですか」
「思いついたら言う」
「日と場所は決まっていません」
「決まったら報せろ。うちは遠い。便は月に一度だ」
「いちばん遠い街の道に合わせます」
発つ朝、宿の主人が二つの束へ印を押した。
「言われました」
「いつですか」
「昨夜のうちに。押しておけと」
番号の脇へ押した日と届いた日の両方が入った。控えから写した日付のほうが一月古い。
帰りの便は十日後だった。
控えの終いに街の名と、出ると書いた者の名を並べた。役の欄は空けてある。この街には役が無い。十年かかって一つだけ決めて、それを紙にしないまま持っている。
同じものを十九ぶん、冬のうちに作らなければならない。四人を出さずにである。
出ると書いた街は十五になった。返らない四つは、答えを紙にする手が街の中にいない。
開いたら報せてくれと、王都から来た男は言った。決まったら報せろと、この街の男は言った。どちらもこちらが日を入れるまで動かない。
版下で空けてある欄は日と場所の二つだけになった。




